ネット喫茶.com

オリジナル小説や二次創作、エッセイ等、自由に投稿できるサイトです。

メニュー

三途の川を渡る電車

ジャンル: その他 作者: そばかす
目次

第8話

 ……しばらく経っても、例の怪物が襲ってこない。
 目をきつく閉じ、両手を合わせて祈るようにしている女子高生にも、老人にも男にもぼくにも、例の怪物は襲いかかって来なかった。それどころか……。
「あれ……いませんよ?」
 ぼくが思わずそう口にする。彼らとぼくは真逆の方向に顔を向けていたのだ。
 振り向いた三人は、車内にも窓の外にも、あの黒い怪物がいないと知ると、気が抜けたらしかった。
 ピュアが疑問を口にした。

「なんで、いないの? どうして消えたの?」

 もうなんとなく恒例になった感のある自己紹介とあだ名の名づけが始まった。
「サンクス……ピュア……ストリート……か。なるほど。たしかにおれも名前は思い出せない。じゃあ適当にあだ名をつけてくれ」
 刺青男はそういった。刺青だけでも、黒人とのハーフというだけでも、がっちりとしたいい体をしているだけでも、充分過ぎるほど威圧的で、ぼくは苦手だった。
 それはどうやらごく普通の女子高生らしきピュアも同様で……
 ぼくとピュアは互いに視線で、名づける権利を譲り合った。
 最年長のストリートはただ黙って微笑みながらやりとりを眺めている。
「サンクス、あんたに名づけ権をあげるわ」
「……そんな、……ぼくは……」
「あら、権利をあげるといってるの。プレゼントしてあげるといってるのよ? こういうときはなんていうの? あなたのご両親やお祖父様やお祖母様はなんていってた?」
 黒い――
 黒い衝動が湧きあがるのを感じた。
 心の奥底から。
 あの怪物のような、真っ黒で、底のない沼のような異様な存在感。
「ありがとう」
 ぼくはお礼をいった。
 お礼をいった瞬間、その黒い沼が、写真のフラッシュをたくようにまたたいた。強烈な光。白。漂白の白。真っ白。それはあまりにも強すぎる怒りだが、ストレスだかが生んだ幻覚らしい。
 これ以上ないほど真っ黒な感情は、あまりにも臨界を越えると、激しい閃光を放つような白になるらしい。
「どういたしまして」
 ピュアはいけしゃあしゃあとそういい、
「じゃあさっさと名づけなさいよね。……相変わらず外は夕暮れで、電車は〝川〟をひたすら渡り続けてる。少しでも早く現状を把握したいから調査したいの」
「…………」
 ぼくは黙って考えた。
「ヒーローってのはどうですか? さきほど彼女を助けましたし」
 彼女はぼくの耳に口を近づけ、
「じゃあ、あんたはマヌケに改名ね。あたしたち三人を危機に陥れたんだから」
 ぼくだけに聞こえる声でささやく。
「そんなおためごかしいいの。なによ、ヒーローって。どこにこんな刺青を入れた人相の悪いヒーローがいるっていうのよ」
「助けてくれた相手にそれはひどいんじゃないかな」
「うっさい。黙れ。あんたはいわれたようにやってればいいの」
「はい」
 家族四人の顔が浮かぶ。声は、家族にそっくりだった。
「……じゃあ、ギャングとかどうですか?」
 ぼくは自分より背の高い男を、ちょっとうわ目づかいで見上げるように、おどおどといった。
 ギャングという言葉は、どう捉えられるのだろう?
 ぼくの耳から口を離した彼女は満足そうだったが。
 男は、刺青の入った腕を上げた。
 ――殴られる!
 ぼくは瞬間的に思った。
 ピュアもそう思ったらしかったが、さっとぼくから距離を取るだけで、べつに助けようなどとは微塵も思わなかったらしい。
 ぽん、と肩を軽く叩かれて、驚く。
 その手は刺青のある腕。つまり彼は殴ろうとしたのではなく、友達にするように気安く肩に手を置いただけだった。
「なかなかクールだ。いい名だ」
「は、ははは……。ありがとうございます」
 ぼくはお礼をいった。恐怖にひざが笑いそうだったし、口はだらしなく愛想笑いを漏らしていた。
 ぼくの口はきっと、お礼と愛想笑いをするためだけにあるんだ。

 ぼくは、ストリートとギャングのふたりに見えない角度から、ピュアに二の腕をつねられた。お前がこの男にいつもの質問を聞け。そういう意味だと瞬時に悟り、ぼくはギャングに質問する。ほとんど条件反射。
「ところでギャングさんは、ここがどこかわかりますか?」
「もちろんトレインって解答を期待してるわけじゃないよな?」
「はい。電車の中なのはわかってます。……あの、お気づきですか?」
 ぼくは夕陽と川面を同時に視界に収めた。
「あの夕陽――ずっと夕焼けなんです。おそらくなんですけど位置も変わってません」
 正確には、ちょっとだけ変わったような気がする。わずかに沈んだような。
 とはいえ夕陽のある西の方角は、空全体をうっすらと覆う雲が出ている。見間違えかもしれなかった。もし間違っていたら「適当なことをいった」とピュアに怒られるし、ストリートもがっかりするかもしれないから、誰にもまだいっていなかった。
 まあ、わずかに夕陽が動いているにしろ、いないにしろ、異常な状態なのは間違いない。
「ああ。気づいてる。ま、あたりまえだよな」
「はい。そうですよね。……それと、当然この川もお気づきだと思うんですが」
目次

※会員登録するとコメントが書き込める様になります。