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三途の川を渡る電車

ジャンル: その他 作者: そばかす
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第5話

「じゃあ、あの川、ご存じじゃないですか? わたしたちには心当たりがなくて……」
 か弱い少女が心細そうにいうように、いった。
 いや。実際問題、彼女はか弱い女子高生だろうし、心細いのも事実だろう。
「…………?」
 老人はまだ一度も外の風景を見たことはなかったらしい。いぶかしげにしながらも、段ボールの寝床から立ち上がると、窓の外を眺めた。
 目をこらす。
 いや。
 思わず目をこらしてしまったのだ。
 視界に映るのは――あまりにも茫漠とした川面。夕陽を照り返す幾千幾万とも思える、さざなみが作りだすオレンジ色の宝石たち。
 焦点を合わせる対象を求めるように、老人は目をこらし、別の車窓――左右の窓や背後の窓から見て――そのどれもこれもに、川が映り、対岸さえ見えないのを確認し、
 ぽかんと口を開けた。

「……なんじゃあ、この川は…………」

 迷子ふたりから迷子三人になった。
 人数こそ増えたし、平均年齢はおそらく倍くらいに跳ね上がっただろうが、
 ――現状はまったく変わらなかった。
「おじいさん、お名前、覚えてらっしゃいますか?」
 少女がそう質問すると、老人はいささかムッとした。温厚そうな老人だったが、どうやら彼女の質問を聞いて馬鹿にされたと感じて怒ったらしい。
 だが――。
「……お、おや?」
 ホームレスの老人は、もう何日も洗ってないような油でてかった頭髪に手をやると、がりがりとかいた。雪のように大きなふけが、ぽろぽろと落ちる。
「思い出せん……思い出せんぞ…………」
 老人の声に恐怖がのぞく。
「こりゃ、参った。……わし、ぼけちまったのか。ついに……」
「いいえ、おじいさん、どうやらみんなそうみたいなんです。みんなっていっても、わたしたちふたりとおじいさんだけですけど」
「…………?」
 おじいさんは、目の前の女子高生と男子高校生をあらためてじっくりと見た。ぼくは見つめられてちょっとだけ居心地の悪い気分を味わう。いつもぼくはなにも悪いことをしていなくても見つめられただけで居心地の悪い気分を味わう。
 ――ああ。あの車内。あの車内が懐かしい。
 たくさん人がいるように見えて、それでいて誰もが誰もに無関心な小さな世界。
 ――ああ、あの世界なら、ぼくはこんなふうに落ち着かない気分になることなんてなかったんだ。……ここはあの世界に似ているけど、全然違う。意地悪な女子高生もいれば、ぶしつけに顔を眺めてくるホームレスのジイサンまでいる。嫌だ嫌だ……。
 だからといって、家に帰りたいとも思わない。
 ただぼくは電車にずっと乗って揺られていたい。
 学校とも家とも違う場所。落ち着ける場所。唯一の安らぎ……。
「ねぇ! ねぇってば!」
 彼女が声を荒げた。それも耳元で。
 びっくりして、ぼくは声のほうを向いた。
「さっさと自己紹介してよ。次はあんたの番よ」
「は? ええっと……」
 どうやらぼくはぼうっとしていたらしく、彼女と老人はそろってぼくのほうを見ていた。
「わたしは自分たちが記憶喪失であることと、そのためにあだ名をつけたことを説明したわ。ピュアってあだ名をわたしはつけたって。――で。次はあんたの番」
「ええっと、ぼくも名前を忘れてて」
「それはいった」
「ごめんなさい」
 ぼくは謝ってから、
「サンクスってあだ名をつけました。いえ、彼女につけてもらいました」
 老人はぼくと彼女を交互に見て、
「つき合っておるのか?」
「気持ち悪いこといわないで! ……下さい」
 彼女は思わず叫んだ。一応敬語に修正した。
「いいえ。彼女とはつき合ってません。この巨大な川を渡る電車の中で初めて出会いました」「そうか」
「あの、ひとつ質問してもよろしいですか?」
「どうぞ」
「川はご存じなかったようですが、……この夕暮れがずっと続く状態について心当たりはありますか?」
「夕暮れがずっと続くぅ?」
「ええ、そうなんです!」
 少女ピュアが声を上げた。
「もうずいぶん経つんです。いろいろ会話して、車両をいくつも移動して、こうしておじいさんとしゃべってても、一向に夕陽の位置が変わらない」
 そういわれて老人は、
「たしかに……」
 驚いたように目を丸くして、霞のような雲に隠れた夕陽を見つめた。
「……残念ながら、なにひとつわからん」
「そ、そうですか……そうですよね」
 頷くものの彼女の落胆は大きい。それはそうだろう。ぼくだって同様だ。やっと見つけた三人目。それになにより〝大人〟だ。例えホームレスであってもなにか頼りになるかもしれないと思ったのだろう。ぼくだって期待した。人生経験でいえば優に四倍はあるだろうし。
「じゃ、じゃあ、おじいさんも、名前、決めません? ずっとおじいさんって呼ぶのもなんですし、この調子でまた誰か見つけて、その誰かさんも記憶喪失で名前を覚えてなければ、呼び合うときにわかりづらいと思って……」
「そうじゃな」
 老人の口調は、どんどん年寄りめいてきた。気を張っていたがそれが緩んできたのかもしれない。そういえば彼女も老人の前だからか、かなり口調が柔らかくなっている。
 ぼくみたいに誰に対してもさんづけで丁寧語のほうが珍しいのだろう。
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