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三途の川を渡る電車

ジャンル: その他 作者: そばかす
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第4話

 新たな人は、薄汚れた格好をした、白い髪とひげの長いオジイサンだった。座席と座席のあいだの床に段ボールを引いて、その上に寝転がっている。
 腕枕した彼は寝息を立てて、気持ちよさそうに眠っていた。
 ちょうど車内を歩いてきたぼくらからは死角になっていて、連結部から見たときも座席に人はいないし、つり革を握る人間もいなかったので、誰もいないと思ったのだ。
 だが、いた。
「ホームレスかしら?」
 彼女のぶしつけな声。
 けど。
 ぼくも内心同様のことを思っていた。その老人の格好、垢染みた肌、伸び放題のひげと髪。どれをとってもホームレスとしか思えなかった。そもそも段ボールを敷いて寝ているというところがまさに、らしい。
「そんなふうにいってはいけませんよ?」
「はぁ?」
 彼女は口を開けた。ぼくを真正面から睨む。
「なに、それ? 意味わかんないんだけどー」
 口調は間延びしているが、彼女の怒りがひしひしと伝わってきた。
「ホームレスや浮浪者といった言葉は差別的だと思います。また、浮浪者という言葉は、ラジオかなにかの禁止用語となっていると聞いた覚えがあります。つまりそういうことを公の場でいってはいけないんです」
「はぁ? 公の場ぁ? っていうかここにはあんたとあたしとホームレスのジイサンしかいないじゃない」
「むしろご本人のいる前でそういう発言をすることのほうがよくないのです」
「いいじゃない、べつに! っていうか、あんた、人に押しつけないでよ。あんたのそのきもい思想だか、道徳観だか知んないけどさあ」
 彼女は、ぼくの顔を見るのも汚らわしいというように顔をぷいっとそむけ、しゃがみ込んだ。
「息は……してるわね」
「そのようですね」
 寝息を立てているので、確認するまでもない。胸の辺りも上下しているように思うし、白いひげに埋もれた口元もかすかに動いている。
 ぼくなどいないかのように、少女はそのホームレスの老人を観察していた。
「あのー、すみませーん」
 ホームレスに声をかけている。きっと日常生活で見かけたら百パーセント無視することだろう。ぼくだってそうしている。だが、今は事態が事態。ここには、現在、ぼくと彼女とこのホームレスしかいないのだ。例えホームレスの老人でも話を聞きたいのは当然だった。
「す、み、ま、せーん!」
 彼女が今度は大声をあげてみるが、それでも起きない。
 よっぽどよく眠っているらしい。……たしかに気持ちよさそうな寝顔だ。
 この車内の温度は快適で、たしかに心地よい。そういえば今の季節が冬だったのか、夏だったのかさえ思い出せない。記憶喪失は相当根深いようだった。名前以外も思い出せないなんて……。
「ちょっとあんた」
 少女が顔を上げた。
「あんたよあんた。ぼけっと突っ立ってないで、さっさとこのホームレスを起こしなさいよ」「起こすっていわれても」
 ふたりがかりで声をかけてもそう変わらないだろうに。
「叩き起こすなり、揺り起こすなりしろ、ってことよ。みなまでいわせんな、ばーか」
 彼女は立ち上がると、ホームレスから距離を取った。臭うのだ。
 ぼくは仕方なくしゃがみ込み、ゆっくりとおそるおそる手を伸ばした。わりと潔癖症のぼくは汚い物に触れるのは嫌だった。
 ホームレスの着ている衣服は思ったほど汚れてはいないらしかった。毛玉が立って、土色のセーターは、土のようにざらついていた。案外土の上でも寝たことがあり、そのまま土埃がたっぷりとついていたのかもしれない。
 ――ああ、この車内はいつも通学に使っている電車と同じ。つまりトイレはどの車両にもない。手洗いはできないのに。
 ちょっぴり汗で、ねちゃりとした感触を感じ、手を引っ込めたくなかったが、ぼくはホームレスの老人の肩を揺すった。
「おじいさん、おじいさん」
 いきなり強く揺するよりも、じょじょに力を入れたほうが、眠りから目覚めるときもいいだろうと思ってそうする。
 そのため手で長く触れることになり、そのことを拒絶するようにぼくの肩や腕に力が入った。
「……ん? なんだぁ?」
 ぼくが腐心してゆっくりと揺り起こしたかいあって、ホームレスの老人は、じょじょに気持ちよさげに目を開けた。
「……ん? ……おう? ここはどこだ?」
 ホームレスの老人は、皺だらけの手で自分の顔をぬぐった。
「電車の中のようです」
「……ふむ。たしかにそのようだが……。して、あんたらは?」

「あの! おじいさん!」

 今の今までぼくの背後にいた彼女は、ホームレスのおじいさんが目を覚まし、性格も大人しそうだと感じると、ぼくの前に回り込んだ。
 ぼくの視界は、彼女のスカートのお尻とおじいさんの顔に埋まる。
「ここってどこだか、ご存じですか?」
 どうやら彼女はちゃんと敬語も話せたらしい。ぼくにはまったく使わなかったが。
「いんや」
 まだどこか寝ぼけたふう老人はそういって、頭をかいた。ふけでも落ちたらしく、少女が思わず少し下がった。
 彼女のお尻がぼくの顔に直撃。
 いきなりこっちも見ずに、うしろ足で蹴り上げるように蹴られた。
 ローファーで、しゃがんでいたぼくは思いきり鼻をつぶされた。
 たぶん感触から鼻かなにかをつぶしたと気づいただろうに、彼女はまったくこっちを見もしなかった。
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