思春期少年
あのときどうして、と後悔の念に駆られることはよくある。
ゼロコンマ1秒のダンスのズレを宗に指摘された日。珍しく手伝うよう言われて頑張った裁縫が、案の定うまくいかなかった日。大切にストックしていた飴をどこかに落としてしまった日。いつもは素知らぬ顔を決め込んでいる煩悩が収まらなくなってしまった日。
後悔の荒波に揉まれて沈んで、こんな足手まといはもう生きている資格もない、とまで落ち込んだ回数は両手両足でも全然足りない。
けれども、そんな自分でも譲れない矜持はあって、宗の芸術を表現する『Valkyrie』を守ること、ひいてはその体現者たる斎宮宗そのひとを守ること、そのためには自分はまだ生きていなくてはならないと思うのだ。彼の一番そばで、彼の人形として。
「人形には意思なんていらんのに。なんで俺は余計なこと考えてまうんやろ……」
『あらやだ。そんなに大きなため息なんかついたら、幸せが走って逃げてっちゃうわよォ』
電話の向こうで嵐がすかさず言う。心配そうに眉を下げる姿が目に浮かぶようだ。
アルバイトの休憩中、誰もいないロッカールームで持ってきた飴を大事に大事に舐めきってから、親しくしている嵐にたまらず電話をかけた。
「俺の幸せなんてどうなってもええんよ。お師さんが幸せなら、それでええんよ」
『そんなことばかり言わないで、みかちゃん。あんたの幸せを願っているひともいるってこと、忘れないで』
ことあるごとに、嵐はそうやって叱咤してくれる。
「んあー、堪忍な」
『それから、あんたは人形なんかじゃないわ、みかちゃん。確かにステージの上ではそうかもしれない。でも、ステージを降りたらひとりの人間なんだから。ちゃんと意思がある人間なんだからねェ?』
「んー……」
嵐の言うことはいつも正論で、頭では理解ができる。けれども、いざそれを自分と宗との関係に当てはめると、「そうじゃない」とどうしても違和感を覚えてしまう。
宗の操り人形である自分を捨てることは、自分自身を放棄することとみかには同義だ。それなのに、人間くさくいらぬあれこれを考えてしまうのだから、支離滅裂で本当にたちが悪いと思う。
『みかちゃんが自分自身の感情を素直に認めちゃえばいいのよォ。簡単なことでしょ?』
「ぜんっぜん簡単やあらへんよ、なるちゃん……」
『アタシに相談してくる時点で確定事項じゃない? そもそも、もうとっくにお師さんてひとにバレちゃってると思うんだけどォ』
「んあっ、そ、そんなわけ……」
言葉は最後まで紡げなかった。
自分と違い、宗は頭のいいひとだ。そして、でき損ないの人形のみかをいつも気にかけて管理してくれる。そんなひとがみかのよこしまな感情に露ほども気づいていないだなんて、それこそあり得ない妄想なのではないだろうか。
「…………あか~ん!」
『ちょっとォ! 電話口でいきなり大声出さないでよォ』
「あかんよ、そんなん絶対にあかんよ……」
ひとりアワアワしだしたみかの耳には、もう親友からの忠告は届いていない。察したようなため息をつくと、電話の向こうの嵐は小さく笑い声をたてた。
『整理しましょ、みかちゃん。まず、お師さんてひとが家族と一緒に別荘に行かないことを決めたとき、みかちゃんは迷わず残ることを選んだわよね? それはどうして?』
「んんっ……お師さんのいる場所が、俺の居場所やもん……」
『そうね。彼の家族に気兼ねしたとかそういう次元を越えちゃってるわよねェ。みかちゃんは、いつだってお師さんのそばにいたいんだものねェ?』
露骨な言いかたをされて、言葉につまった。
自分の居場所は宗のそばだと決めている。それは自分が彼の人形だからで、同じ『Valkyrie』の一員だからで、それから……。考えて、みかは自分の思考に打ちのめされた。
「そばにおりたいよ……」
片時だって離れたくない。人間活動をおろそかにしすぎるのが心配だから、いつだって一番近くで見守っていたい。そうしないと落ち着かない。けれども、それすらも、本当は人形には不必要な感情の一端なのだ。
隠れ蓑のようにくっついている言葉の贅肉をすべて削ぎ落とすと、シンプルな本質だけがきらりと残る。
「お師さんのこと……ほんまに好きやもん」
好きだから一緒にいたい。
それを認めただけで、みかの散り散りな心はシュッと美しく収束した。こうして口にするのははじめてのことだった。
無論、『Valkyrie』の斎宮宗に対してなら何度だって声を大にして公言してきた。けれど、ここで使う「好き」はそれとはかけ離れている。もっと低俗で、欲にまみれていて、汚れている。恐らくこれは、宗の嫌いな俗物の持つ感情だ。
『みかちゃん。それ、ちゃんと彼に伝えたら?』
なだめるような優しい声が胸を打つ。
「……できひんよ、なるちゃん。そんなん無理や」
絞り出すように告げると、みかはその場にしゃがみこんだ。想いを伝えることを想像しただけで足がすくむのだ。言えるわけがない。彼と屋敷でふたりきりになっても平静を装う、たったそれだけのミッションすらうまくクリアできなかったというのに、言えるわけがない。
もしもこの気持ちを暴露してしまったら、押し込めているものをすべて解放してしまったら、きっと自分で自分を抑えきれなくなってしまう。美しい彼を傷つけてしまう。
自分の命よりも大切な、尊敬してやまない宗を傷つける者をみかは許さない。それはみか自身にも言えることだ。自分で自分を許せなくなったら、もうこれまでのように彼のそばにはいられなくなる。
『みかちゃん』
「無理やよ……」
ねじ伏せて封印するしかない。それ以外の選択肢など、恐らくはなからないのだから。
ゼロコンマ1秒のダンスのズレを宗に指摘された日。珍しく手伝うよう言われて頑張った裁縫が、案の定うまくいかなかった日。大切にストックしていた飴をどこかに落としてしまった日。いつもは素知らぬ顔を決め込んでいる煩悩が収まらなくなってしまった日。
後悔の荒波に揉まれて沈んで、こんな足手まといはもう生きている資格もない、とまで落ち込んだ回数は両手両足でも全然足りない。
けれども、そんな自分でも譲れない矜持はあって、宗の芸術を表現する『Valkyrie』を守ること、ひいてはその体現者たる斎宮宗そのひとを守ること、そのためには自分はまだ生きていなくてはならないと思うのだ。彼の一番そばで、彼の人形として。
「人形には意思なんていらんのに。なんで俺は余計なこと考えてまうんやろ……」
『あらやだ。そんなに大きなため息なんかついたら、幸せが走って逃げてっちゃうわよォ』
電話の向こうで嵐がすかさず言う。心配そうに眉を下げる姿が目に浮かぶようだ。
アルバイトの休憩中、誰もいないロッカールームで持ってきた飴を大事に大事に舐めきってから、親しくしている嵐にたまらず電話をかけた。
「俺の幸せなんてどうなってもええんよ。お師さんが幸せなら、それでええんよ」
『そんなことばかり言わないで、みかちゃん。あんたの幸せを願っているひともいるってこと、忘れないで』
ことあるごとに、嵐はそうやって叱咤してくれる。
「んあー、堪忍な」
『それから、あんたは人形なんかじゃないわ、みかちゃん。確かにステージの上ではそうかもしれない。でも、ステージを降りたらひとりの人間なんだから。ちゃんと意思がある人間なんだからねェ?』
「んー……」
嵐の言うことはいつも正論で、頭では理解ができる。けれども、いざそれを自分と宗との関係に当てはめると、「そうじゃない」とどうしても違和感を覚えてしまう。
宗の操り人形である自分を捨てることは、自分自身を放棄することとみかには同義だ。それなのに、人間くさくいらぬあれこれを考えてしまうのだから、支離滅裂で本当にたちが悪いと思う。
『みかちゃんが自分自身の感情を素直に認めちゃえばいいのよォ。簡単なことでしょ?』
「ぜんっぜん簡単やあらへんよ、なるちゃん……」
『アタシに相談してくる時点で確定事項じゃない? そもそも、もうとっくにお師さんてひとにバレちゃってると思うんだけどォ』
「んあっ、そ、そんなわけ……」
言葉は最後まで紡げなかった。
自分と違い、宗は頭のいいひとだ。そして、でき損ないの人形のみかをいつも気にかけて管理してくれる。そんなひとがみかのよこしまな感情に露ほども気づいていないだなんて、それこそあり得ない妄想なのではないだろうか。
「…………あか~ん!」
『ちょっとォ! 電話口でいきなり大声出さないでよォ』
「あかんよ、そんなん絶対にあかんよ……」
ひとりアワアワしだしたみかの耳には、もう親友からの忠告は届いていない。察したようなため息をつくと、電話の向こうの嵐は小さく笑い声をたてた。
『整理しましょ、みかちゃん。まず、お師さんてひとが家族と一緒に別荘に行かないことを決めたとき、みかちゃんは迷わず残ることを選んだわよね? それはどうして?』
「んんっ……お師さんのいる場所が、俺の居場所やもん……」
『そうね。彼の家族に気兼ねしたとかそういう次元を越えちゃってるわよねェ。みかちゃんは、いつだってお師さんのそばにいたいんだものねェ?』
露骨な言いかたをされて、言葉につまった。
自分の居場所は宗のそばだと決めている。それは自分が彼の人形だからで、同じ『Valkyrie』の一員だからで、それから……。考えて、みかは自分の思考に打ちのめされた。
「そばにおりたいよ……」
片時だって離れたくない。人間活動をおろそかにしすぎるのが心配だから、いつだって一番近くで見守っていたい。そうしないと落ち着かない。けれども、それすらも、本当は人形には不必要な感情の一端なのだ。
隠れ蓑のようにくっついている言葉の贅肉をすべて削ぎ落とすと、シンプルな本質だけがきらりと残る。
「お師さんのこと……ほんまに好きやもん」
好きだから一緒にいたい。
それを認めただけで、みかの散り散りな心はシュッと美しく収束した。こうして口にするのははじめてのことだった。
無論、『Valkyrie』の斎宮宗に対してなら何度だって声を大にして公言してきた。けれど、ここで使う「好き」はそれとはかけ離れている。もっと低俗で、欲にまみれていて、汚れている。恐らくこれは、宗の嫌いな俗物の持つ感情だ。
『みかちゃん。それ、ちゃんと彼に伝えたら?』
なだめるような優しい声が胸を打つ。
「……できひんよ、なるちゃん。そんなん無理や」
絞り出すように告げると、みかはその場にしゃがみこんだ。想いを伝えることを想像しただけで足がすくむのだ。言えるわけがない。彼と屋敷でふたりきりになっても平静を装う、たったそれだけのミッションすらうまくクリアできなかったというのに、言えるわけがない。
もしもこの気持ちを暴露してしまったら、押し込めているものをすべて解放してしまったら、きっと自分で自分を抑えきれなくなってしまう。美しい彼を傷つけてしまう。
自分の命よりも大切な、尊敬してやまない宗を傷つける者をみかは許さない。それはみか自身にも言えることだ。自分で自分を許せなくなったら、もうこれまでのように彼のそばにはいられなくなる。
『みかちゃん』
「無理やよ……」
ねじ伏せて封印するしかない。それ以外の選択肢など、恐らくはなからないのだから。
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