迷子
みかが帰ってこない。
夜のシフトの子が風邪で欠勤だから代わりがくるまで自分が働く、という旨の連絡はあったが、いくらなんでも遅すぎる。お金になるならと、まさか最後まで働いて帰ってくるのではないだろうかと気が気ではない。いまのみかはあきらかに不安定だ。無理はよくないというのに。
とはいえ、だからといって小言をメールで返すのも憚られた。昨日の今日で、再び拒絶されたらという不安もある。
「みかちゃんのことが心配なのね、宗くん」
カーテンの隙間から外の様子を確認していると、胸元でマドモアゼルがささやいた。
「そういうわけではないよ、マドモアゼル」
シャッと音をたててカーテンをしめる。ひとり待つには空調が効きすぎているのだろうか、少し肌寒く感じた。いつでも厚く着飾っているマドモアゼルが、いまは羨ましいくらいだ。いや、羨ましいのは服装に限ったことではないのか。
「宗くんったら、あいかわらず素直じゃないんだから」
絶妙なタイミングでマドモアゼルが笑う。
「よしてくれ、マドモアゼル」
「それは、図星だからでしょう?」
そうだめ押しで言ったきり、彼女はおしゃべりをやめた。静寂が訪れた空間で、クーラーの動作音がやけに耳につく。居心地が悪い。
そうだ、居心地が悪いのだ。ここは自分の部屋なのに。誰からも邪魔されないひとりだけの空間で、思う存分芸術に向き合える時間でもあるのに。宗にはもて余す時間など一秒たりともないはずなのに。
いま現在、自分は確実に時間をもて余している。なにもしていない。
その事実に、宗は適応できずにいた。
正真正銘、なにも手につかないのだ。
「君は意地が悪いね、マドモアゼル」
つぶやいて、自分のてのひらをぼんやりと眺める。
昨日の夜、思いがけずみかから拒絶された手。あのとき感じた胸がやけつくような痛みは、以来ずっと宗のうちがわでじりじりと燻ったままだ。むしろ、痛みの芯は次第に大きく育っている。心がぜんたい埋め尽くされてしまう。
もともと、自分を崇拝し一生ついてくると口では言いながら、みかには存外頑固なところがある。こうと決めたら自分を曲げようとせず、宗をも従わせようとしてくる強い意志。それはもちろん威圧的な態度や口調では決して現れはしないけれども、その強かさは隠しようのないものだ。
みかの、芸術として昇華しきれないいびつなところも、本人は恐らく露ほども自覚していない強かさも、宗には眩しい。態度に示していないことをマドモアゼルに笑われるのはわかりきっているけれども、いまさらだ。強い態度で支配することこそが、これまでのみかにとっての最適解だと思ってきたから。
そしてそれは、私生活においても変わらなかった。すべてを自分が管理して、ステージには常に完璧な状態で臨まなければいけないから。それが『Valkyrie』の芸術のためには必要だったからだ。
けれども、いまの自分はどうだ。みかに再び拒絶されることだけをこんなにも恐れている。アイドルとして、芸術家としての自分より、単なる高校生にすぎない小さな宗個人が前へ出すぎている証拠だ。こんな不安に襲われるなど、どう考えても自分らしくない。わかっているのに、どう修正するべきなのかがわからない。
家族もみかもいない今日、本来ならば嬉々として部屋にこもり、あれこれ作業しているはずだった。
だが実際は、朝から落ち着きなく屋敷じゅうを歩き回ったり、むやみやたらに着せかえをしてマドモアゼルをあきれさせてしまったり、ぼんやりしてクロワッサンを焼きすぎたり……これではまるで、どこぞのできそこないの人形のようではないか。思い至って、宗は何度目かわからないため息を盛大についた。
一時間ほど前だろうか、避暑地の別荘で優雅な休日を過ごしているらしい家族から電話が入った。こちらの状況などお構いなしに次々と交代で電話口に現れては、「宗くんちゃんと食べてる?」だの、「昨日は寝られた?」だの、まるで幼稚園児にでも対するような質問を浴びせられた。実に不愉快だ。ちゃんと食べていないし、昨日はよく眠れなかった。
『みかくんともなかよくやれてる? あなたいつも怖いんだから、もう少し優しくしてあげなくちゃだめよ。大切にしてること、ちゃんと伝わらないわよ? いまそこにいる?』
おせっかいな姉に一気に捲したてられて、腕がずしんと痛みを訴えた。
今朝のみかはいつもの調子で宗を気遣うこともなく、足早にアルバイトにでかけていった。そして帰ってこない。
「いるよ。大丈夫。なにも問題はないよ」
全部幻想ばかりだ。
みかはここにいない。自分は大丈夫じゃない。そして、問題しかないくせに。ばかばかしい。
「影片……」
電話での一件を反芻して、無意識にその名をつぶやいたそのときだ。
唐突なノックの音が宗を現実に引き戻した。
「お師さん、ただいまぁ」
続く、みかの能天気な声。いつもの、少し無理をしているときの。必要以上に安堵すると同時に、胸のうちに言い表せないほど強い感情がわきあがってくるのを、宗は自覚こそすれ止めることができなかった。
「ああ。おかえり、影片。遅かったね」
「おん。ちょっと話好きの店長につかまってしもて」
「そうかね」
無意識にマドモアゼルを胸に抱きしめる。けれども、彼女は痛いとも苦しいとも言わなかった。
「あのぉ、お師さん? お部屋に入れてくれへんやろか。俺、ちょこっとお話ししたいことがあんねやけど」
夜のシフトの子が風邪で欠勤だから代わりがくるまで自分が働く、という旨の連絡はあったが、いくらなんでも遅すぎる。お金になるならと、まさか最後まで働いて帰ってくるのではないだろうかと気が気ではない。いまのみかはあきらかに不安定だ。無理はよくないというのに。
とはいえ、だからといって小言をメールで返すのも憚られた。昨日の今日で、再び拒絶されたらという不安もある。
「みかちゃんのことが心配なのね、宗くん」
カーテンの隙間から外の様子を確認していると、胸元でマドモアゼルがささやいた。
「そういうわけではないよ、マドモアゼル」
シャッと音をたててカーテンをしめる。ひとり待つには空調が効きすぎているのだろうか、少し肌寒く感じた。いつでも厚く着飾っているマドモアゼルが、いまは羨ましいくらいだ。いや、羨ましいのは服装に限ったことではないのか。
「宗くんったら、あいかわらず素直じゃないんだから」
絶妙なタイミングでマドモアゼルが笑う。
「よしてくれ、マドモアゼル」
「それは、図星だからでしょう?」
そうだめ押しで言ったきり、彼女はおしゃべりをやめた。静寂が訪れた空間で、クーラーの動作音がやけに耳につく。居心地が悪い。
そうだ、居心地が悪いのだ。ここは自分の部屋なのに。誰からも邪魔されないひとりだけの空間で、思う存分芸術に向き合える時間でもあるのに。宗にはもて余す時間など一秒たりともないはずなのに。
いま現在、自分は確実に時間をもて余している。なにもしていない。
その事実に、宗は適応できずにいた。
正真正銘、なにも手につかないのだ。
「君は意地が悪いね、マドモアゼル」
つぶやいて、自分のてのひらをぼんやりと眺める。
昨日の夜、思いがけずみかから拒絶された手。あのとき感じた胸がやけつくような痛みは、以来ずっと宗のうちがわでじりじりと燻ったままだ。むしろ、痛みの芯は次第に大きく育っている。心がぜんたい埋め尽くされてしまう。
もともと、自分を崇拝し一生ついてくると口では言いながら、みかには存外頑固なところがある。こうと決めたら自分を曲げようとせず、宗をも従わせようとしてくる強い意志。それはもちろん威圧的な態度や口調では決して現れはしないけれども、その強かさは隠しようのないものだ。
みかの、芸術として昇華しきれないいびつなところも、本人は恐らく露ほども自覚していない強かさも、宗には眩しい。態度に示していないことをマドモアゼルに笑われるのはわかりきっているけれども、いまさらだ。強い態度で支配することこそが、これまでのみかにとっての最適解だと思ってきたから。
そしてそれは、私生活においても変わらなかった。すべてを自分が管理して、ステージには常に完璧な状態で臨まなければいけないから。それが『Valkyrie』の芸術のためには必要だったからだ。
けれども、いまの自分はどうだ。みかに再び拒絶されることだけをこんなにも恐れている。アイドルとして、芸術家としての自分より、単なる高校生にすぎない小さな宗個人が前へ出すぎている証拠だ。こんな不安に襲われるなど、どう考えても自分らしくない。わかっているのに、どう修正するべきなのかがわからない。
家族もみかもいない今日、本来ならば嬉々として部屋にこもり、あれこれ作業しているはずだった。
だが実際は、朝から落ち着きなく屋敷じゅうを歩き回ったり、むやみやたらに着せかえをしてマドモアゼルをあきれさせてしまったり、ぼんやりしてクロワッサンを焼きすぎたり……これではまるで、どこぞのできそこないの人形のようではないか。思い至って、宗は何度目かわからないため息を盛大についた。
一時間ほど前だろうか、避暑地の別荘で優雅な休日を過ごしているらしい家族から電話が入った。こちらの状況などお構いなしに次々と交代で電話口に現れては、「宗くんちゃんと食べてる?」だの、「昨日は寝られた?」だの、まるで幼稚園児にでも対するような質問を浴びせられた。実に不愉快だ。ちゃんと食べていないし、昨日はよく眠れなかった。
『みかくんともなかよくやれてる? あなたいつも怖いんだから、もう少し優しくしてあげなくちゃだめよ。大切にしてること、ちゃんと伝わらないわよ? いまそこにいる?』
おせっかいな姉に一気に捲したてられて、腕がずしんと痛みを訴えた。
今朝のみかはいつもの調子で宗を気遣うこともなく、足早にアルバイトにでかけていった。そして帰ってこない。
「いるよ。大丈夫。なにも問題はないよ」
全部幻想ばかりだ。
みかはここにいない。自分は大丈夫じゃない。そして、問題しかないくせに。ばかばかしい。
「影片……」
電話での一件を反芻して、無意識にその名をつぶやいたそのときだ。
唐突なノックの音が宗を現実に引き戻した。
「お師さん、ただいまぁ」
続く、みかの能天気な声。いつもの、少し無理をしているときの。必要以上に安堵すると同時に、胸のうちに言い表せないほど強い感情がわきあがってくるのを、宗は自覚こそすれ止めることができなかった。
「ああ。おかえり、影片。遅かったね」
「おん。ちょっと話好きの店長につかまってしもて」
「そうかね」
無意識にマドモアゼルを胸に抱きしめる。けれども、彼女は痛いとも苦しいとも言わなかった。
「あのぉ、お師さん? お部屋に入れてくれへんやろか。俺、ちょこっとお話ししたいことがあんねやけど」
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