胸の焼ける音
夏の終わり、家族が避暑にでかけるというので見送ることにした。
空調の行き届いた部屋にいれば暑さなど関係ないし、そもそもなんの目的もなくただ遊びに出掛けるという不可解な行為はあまり好まない。休めと言われるよりも裁縫をしているほうが落ち着くし、そもそも宗の基準において、もて余す時間などないに等しいのだ。
とはいえ、ちょうどライブの予定もなく、急ぎでしあげる衣装の依頼もない隙間の数日を狙ったように唐突に提案されたので、恐らく本来ならばなにも考えず同行するべきだったのだろう。そういう裏を見越してもなお遠出を断った宗を見て、同席していたみかはなんとも言いがたい表情をしていた。
みかが行くと言えば宗もうんと言うだろうという算段だったのだろう。みなしきりに彼を同行させたがったし、宗も好きにしろと判断を委ねたが、結局彼も家に残ることになって、いまに至る。
この広い屋敷でふたりきりになったことは、同居をはじめてこれまで一度もなかった。家族に渉のような賑やかしはいないけれども、それでもふたり以外の誰かの呼吸は絶えず存在していた。それが途絶えた。それだけで、なぜだか異世界に迷いこんだかのような不思議な違和感を覚えてしまうのはなぜだろう。この、静かなのにざわついた感じをなんと言い表せばいいのか、宗にはわからなかった。
「影片」
部屋のドアをノックしたあとの沈黙に対するため息さえ、やけに廊下に反響してしまうので居心地が悪い。
もう夜だ。
昼間家族を見送ったときにはいつものヘラヘラした笑顔だったみかは、徐々に挙動不審になり、果ては自室に閉じこもってしまった。彼が挙動不審なのはなにも今日に始まったことではないけれども、あきらかに様子がおかしかった。夕食の時間も押し黙ったままだったのが決定打だ。いつもなら、宗がいくら咎めてもケロッとして無駄口ばかり叩いてくるくせに。
もう一度無言でノックをするも、やはり反応はまるでなかった。ドアの隙間から明かりはもれているので、うたた寝でもしているのだろう。
「失礼するよ」
扉を開けると、煌々と照らされたライトの下、みかは机に突っ伏して眠っていた。枕として敷かれた腕の下には開いたノートがある。毎日毎日、欠かさずつけている反省ノート。宗が気づいていないと油断しているのか、レッスンやライブの反省や課題に加え、過剰すぎるほどの宗への愛情と執着が文字として可視化されてもいるやっかいな代物だ。なににつけ管理がずさんなのがみかだが、それをいちいち指摘せず放置している自分も大概だな、と宗は思う。
すやすやと幸せそうに眠る頬を邪魔する髪にそっと触れ、宗はため息をついた。
いい夢をみているらしいのはわかるが、いかんせん顔色が悪い。つい先日まで忙しくライブやらアルバイトやらに追われていたので、そういえば充分にメンテナンスしてやる時間もなかった。
「影片。目を覚ますのだよ。風邪をひいてしまう」
髪を払った指で頬に触れると、みかは過剰にビクッと飛びあがった。
「んあっ!?」
気づかれぬうちに手をひっこめる。気配を察したのだろう、みかは手元を照らしていたライトを消すと、ノートを胸に抱えて焦ったように宗をふり仰いだ。
「おっ、お師さん!? へ、いつの間に! 覗き見なんてあかんことやで!?」
「落ち着きたまえ、影片。僕はなにも見ていないよ。君が倒れていやしないかと様子を見にきただけなのだよ」
「んあっ、そ、そうなん!? はぁ、びっくりした」
「それはこっちの台詞なのだよ。大きな声でわめくな」
「へへ、堪忍な」
いつものようにヘラヘラ笑うみかの顔色は、相変わらず芳しくない。普段は自分のほうがよほど彼に心配されているのを自覚している宗だからこそ、今日は見過ごさないと決めた。
いくら罵倒されても、雑な扱いを受けても意に介さず自分を慕い続けるみかは、本当に根っからの変わり者だと思う。変わり者の友人しかいない宗でもそう思うくらいには、みかの執着は突出している。
そして、そんな彼を放置し、すべての賛辞を当然のものとして受け入れ続けてきた自分もまた、肥大した執着心を抱えていると言わざるをえない。ただ、それが正確に彼に伝わっているとは露ほども思っていないけれど。
「からだの調子がよくないね? メンテナンスをするよ」
「へっ」
「なにをきょとんとしているのだよ。ライブの中休みで鈍っているだろう。ストレッチをさぼっているね?」
「んあー、最近シフトたくさんやったからなぁ。で、でも大丈夫やで!」
「大丈夫かどうかは僕が決めることなのだよ。なにを動揺している?」
「どっ、動揺なんて、いややわあ、お師さん、なんのことやのん?」
「影片。君は相変わらず嘘が下手すぎるのだよ」
ごちゃごちゃと言いわけを重ねようとするみかの抵抗を無視し、宗はその肩に触れようと手を伸ばした。
が、予想外にはじかれてしまった。
行き場をなくした指が、なににも触れられずに宙を舞う。
「んあっ、ち、ちゃうんよ! いまのは」
「もういい。おやすみ、影片」
「お師さぁん……!」
すがりつくような声を出すくせにすがりついてはこないみかの視線を振りきって、宗は足早に彼の部屋をあとにした。はじかれた手首が熱を持ち、いまさらじくじくと悲鳴をあげる。もう一方の手で無意識にさすると、じゅっと焼けるように胸に痛みが走った。
「影片のくせに。……生意気なのだよ」
静かな廊下に、胸の焼ける音が響かないのが奇妙にさえ感じる夜だった。
空調の行き届いた部屋にいれば暑さなど関係ないし、そもそもなんの目的もなくただ遊びに出掛けるという不可解な行為はあまり好まない。休めと言われるよりも裁縫をしているほうが落ち着くし、そもそも宗の基準において、もて余す時間などないに等しいのだ。
とはいえ、ちょうどライブの予定もなく、急ぎでしあげる衣装の依頼もない隙間の数日を狙ったように唐突に提案されたので、恐らく本来ならばなにも考えず同行するべきだったのだろう。そういう裏を見越してもなお遠出を断った宗を見て、同席していたみかはなんとも言いがたい表情をしていた。
みかが行くと言えば宗もうんと言うだろうという算段だったのだろう。みなしきりに彼を同行させたがったし、宗も好きにしろと判断を委ねたが、結局彼も家に残ることになって、いまに至る。
この広い屋敷でふたりきりになったことは、同居をはじめてこれまで一度もなかった。家族に渉のような賑やかしはいないけれども、それでもふたり以外の誰かの呼吸は絶えず存在していた。それが途絶えた。それだけで、なぜだか異世界に迷いこんだかのような不思議な違和感を覚えてしまうのはなぜだろう。この、静かなのにざわついた感じをなんと言い表せばいいのか、宗にはわからなかった。
「影片」
部屋のドアをノックしたあとの沈黙に対するため息さえ、やけに廊下に反響してしまうので居心地が悪い。
もう夜だ。
昼間家族を見送ったときにはいつものヘラヘラした笑顔だったみかは、徐々に挙動不審になり、果ては自室に閉じこもってしまった。彼が挙動不審なのはなにも今日に始まったことではないけれども、あきらかに様子がおかしかった。夕食の時間も押し黙ったままだったのが決定打だ。いつもなら、宗がいくら咎めてもケロッとして無駄口ばかり叩いてくるくせに。
もう一度無言でノックをするも、やはり反応はまるでなかった。ドアの隙間から明かりはもれているので、うたた寝でもしているのだろう。
「失礼するよ」
扉を開けると、煌々と照らされたライトの下、みかは机に突っ伏して眠っていた。枕として敷かれた腕の下には開いたノートがある。毎日毎日、欠かさずつけている反省ノート。宗が気づいていないと油断しているのか、レッスンやライブの反省や課題に加え、過剰すぎるほどの宗への愛情と執着が文字として可視化されてもいるやっかいな代物だ。なににつけ管理がずさんなのがみかだが、それをいちいち指摘せず放置している自分も大概だな、と宗は思う。
すやすやと幸せそうに眠る頬を邪魔する髪にそっと触れ、宗はため息をついた。
いい夢をみているらしいのはわかるが、いかんせん顔色が悪い。つい先日まで忙しくライブやらアルバイトやらに追われていたので、そういえば充分にメンテナンスしてやる時間もなかった。
「影片。目を覚ますのだよ。風邪をひいてしまう」
髪を払った指で頬に触れると、みかは過剰にビクッと飛びあがった。
「んあっ!?」
気づかれぬうちに手をひっこめる。気配を察したのだろう、みかは手元を照らしていたライトを消すと、ノートを胸に抱えて焦ったように宗をふり仰いだ。
「おっ、お師さん!? へ、いつの間に! 覗き見なんてあかんことやで!?」
「落ち着きたまえ、影片。僕はなにも見ていないよ。君が倒れていやしないかと様子を見にきただけなのだよ」
「んあっ、そ、そうなん!? はぁ、びっくりした」
「それはこっちの台詞なのだよ。大きな声でわめくな」
「へへ、堪忍な」
いつものようにヘラヘラ笑うみかの顔色は、相変わらず芳しくない。普段は自分のほうがよほど彼に心配されているのを自覚している宗だからこそ、今日は見過ごさないと決めた。
いくら罵倒されても、雑な扱いを受けても意に介さず自分を慕い続けるみかは、本当に根っからの変わり者だと思う。変わり者の友人しかいない宗でもそう思うくらいには、みかの執着は突出している。
そして、そんな彼を放置し、すべての賛辞を当然のものとして受け入れ続けてきた自分もまた、肥大した執着心を抱えていると言わざるをえない。ただ、それが正確に彼に伝わっているとは露ほども思っていないけれど。
「からだの調子がよくないね? メンテナンスをするよ」
「へっ」
「なにをきょとんとしているのだよ。ライブの中休みで鈍っているだろう。ストレッチをさぼっているね?」
「んあー、最近シフトたくさんやったからなぁ。で、でも大丈夫やで!」
「大丈夫かどうかは僕が決めることなのだよ。なにを動揺している?」
「どっ、動揺なんて、いややわあ、お師さん、なんのことやのん?」
「影片。君は相変わらず嘘が下手すぎるのだよ」
ごちゃごちゃと言いわけを重ねようとするみかの抵抗を無視し、宗はその肩に触れようと手を伸ばした。
が、予想外にはじかれてしまった。
行き場をなくした指が、なににも触れられずに宙を舞う。
「んあっ、ち、ちゃうんよ! いまのは」
「もういい。おやすみ、影片」
「お師さぁん……!」
すがりつくような声を出すくせにすがりついてはこないみかの視線を振りきって、宗は足早に彼の部屋をあとにした。はじかれた手首が熱を持ち、いまさらじくじくと悲鳴をあげる。もう一方の手で無意識にさすると、じゅっと焼けるように胸に痛みが走った。
「影片のくせに。……生意気なのだよ」
静かな廊下に、胸の焼ける音が響かないのが奇妙にさえ感じる夜だった。
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