素直じゃない彼の落とし方
「圭さん」
名前を呼ばれて、こんなに心が震えるのは何年ぶりだろう。波多野の指に触れられる端から、熱が帯びていく、溶けていく感覚を味わうのも、かなり久しぶりだ。
「はぁっ」
なんていうか、言葉にならない。深いため息が心地イイ。収まることのない感情のうねりが、かたちとなってこだまする。長いこと必要がないと封印していた、こんなに甘く切ない感情が、愛しくなる瞬間がくるとは、今まで思ってもいなかった。
怠惰な体が沈み混むような感覚と、きしむ金属音が、やけに鮮明に耳に焼き付いてくる。激しく霞む声と、少し弾んだ息づかいが目まぐるしく、鼓動が嵐を呼んでいるようだった。
「あーっ、喉乾いた」
どんなに大声を出して、騒いでも許される空間でおもいっきりストレスを解消するのは、気持ちいいものだ。ましてや、誤解やわだかまりがなくなっての、デート初日。楽しくて仕方がない、ワクワク感とドキドキする鼓動はいくつになっても変わらない。
「でも、結局超がつくほど、健全なんですね」
波多野の恨めしげな視線がジロリと睨み付けてくる。
「んな、真っ昼間から、なに考えてやがる」
「ナニ、ですかねぇ?」
ニタニタ笑う顔はもはや、最初の頃の好青年なんかじゃない。喉が乾いて仕方がなくなるくらい焼き付くような、目眩をおこさせるような毒のはらんだものだ。「なっ」
「ほんとなら、別にお店でも良かったんですけどねぇ。ふたりきりになれるなら、どこでも」
ふぅ、わざと大きくため息をついて、チラリとこちらにめをやってみせる。他の部屋からかすかに聞こえるカラオケボックス独特の雑音が、二人きりじゃない証明をしているからか今は理性を保たせてくれている、ハズだ。キチンと、靴を脱いでソファーで立ち上がって熱唱している自分が、正直、逃げているだけだということもよくわかっている。わかっているけど、やめられない。どこかに置いてきた、素直になるためのスイッチはまだ、行方知らずで見つからないままだ。あのとき、インフルエンザで寝込んでいただけだったものの、波多野から離れてわかった自分の気持ちを、やっと伝えられると思っていた。だけど、よく考えてたら、好きだのなんだのお互いにいった訳じゃない。あ、いや、波多野は言ったか。
「なんとなくは、もう無理だしな」
「えっ?」
ボソリと呟いた言葉はどうやら、波多野の元へは届かなかったようだ。いつものようになんとなくの雰囲気に乗っかって、気持ちを伝えるのもありかもしれないけど、たぶん今の自分には、無理だ。かといって、気持ちに気がついただけで、まだ伝えるまでには気持ちが育っていない。
「だけど、どうしても会いたかったんだよ」
煮え切らない自分が嫌いだけど、仕方ない。逃げ込むようにしていた、懐メロの熱唱をやめてドリンクを飲んでいると、波多野がまじまじと見つめてきた。そうかと思ったら、ぎゅっと強く、抱きしめられた。握っていたマイクがこぼれ落ちる。突然なんだと、驚いて見上げたら、嬉しそうに笑っている波多野の顔が、そこにあった。
「圭さん。今はね、その言葉だけでいいですよ」
波多野から、意地悪なことを言われるとばかり思っていたのに、予想に反してハチミツがとろけるような甘々な笑顔と柔らかな声が降り注いできた。いい年して、やけに乙女みたいな自分を優しく待ってくれている羽多野に、言いようもない安心感と信頼を寄せている自分がいる。そして、そう遠くない未来にきっと自分の気持ちを打ち明けるのだろうと今、確信した。ただ漫然と緒方と一緒にいたあの頃みたいにただ、雰囲気に流されて気持ちを打ち明けるのではなく、しっかりと自分の意志で、かならず。宣言するみたいに、気持ちを伝えようと決めた。
「それに、ね。素直じゃない彼の落とし方ってやつですから」
本当に、羽多野がなにを言っているのかわからない。だけど、幸福感だけじゃない言いようもなく予感みたいなものなのかもしれない。アイツのことを考えただけで、ゾクリと背筋が寒くなるのを感じた。やっぱり、ただただ甘い雰囲気だけを提供してくれるわけではないらしい。
「圭さんにはコレくらいがちょうどいいでしょ?俺の側でいっぱいドキドキして、困った顔みせてくださいね」
くすくす笑うその顔は、彼をはじめてみたときと同じ、だ。きっとあのときから、彼に惹かれていたに違いない。恋を発展するつもりはなく、自分の中で消化しようとしていた不毛な月日を思うとため息が出る。あの頃の自分に、伝えてやりたい。取り返しがつかなくなる前にそいつだけはやめておけ……。爽やかな見た目に騙されるな、そいつはとんだ性悪だ。過去の自分に、メッセージを送ったものの、きっと意味がないにちがいない。素直じゃない、俺ならなおさら。大丈夫、近寄らなきゃいいんでしょって言いそうだ。本当に、どうしたもんかと思ってしまう、自分でももて余してしまう素直じゃない自分が、いつか好きになれたらと思うのだ。
【完】
名前を呼ばれて、こんなに心が震えるのは何年ぶりだろう。波多野の指に触れられる端から、熱が帯びていく、溶けていく感覚を味わうのも、かなり久しぶりだ。
「はぁっ」
なんていうか、言葉にならない。深いため息が心地イイ。収まることのない感情のうねりが、かたちとなってこだまする。長いこと必要がないと封印していた、こんなに甘く切ない感情が、愛しくなる瞬間がくるとは、今まで思ってもいなかった。
怠惰な体が沈み混むような感覚と、きしむ金属音が、やけに鮮明に耳に焼き付いてくる。激しく霞む声と、少し弾んだ息づかいが目まぐるしく、鼓動が嵐を呼んでいるようだった。
「あーっ、喉乾いた」
どんなに大声を出して、騒いでも許される空間でおもいっきりストレスを解消するのは、気持ちいいものだ。ましてや、誤解やわだかまりがなくなっての、デート初日。楽しくて仕方がない、ワクワク感とドキドキする鼓動はいくつになっても変わらない。
「でも、結局超がつくほど、健全なんですね」
波多野の恨めしげな視線がジロリと睨み付けてくる。
「んな、真っ昼間から、なに考えてやがる」
「ナニ、ですかねぇ?」
ニタニタ笑う顔はもはや、最初の頃の好青年なんかじゃない。喉が乾いて仕方がなくなるくらい焼き付くような、目眩をおこさせるような毒のはらんだものだ。「なっ」
「ほんとなら、別にお店でも良かったんですけどねぇ。ふたりきりになれるなら、どこでも」
ふぅ、わざと大きくため息をついて、チラリとこちらにめをやってみせる。他の部屋からかすかに聞こえるカラオケボックス独特の雑音が、二人きりじゃない証明をしているからか今は理性を保たせてくれている、ハズだ。キチンと、靴を脱いでソファーで立ち上がって熱唱している自分が、正直、逃げているだけだということもよくわかっている。わかっているけど、やめられない。どこかに置いてきた、素直になるためのスイッチはまだ、行方知らずで見つからないままだ。あのとき、インフルエンザで寝込んでいただけだったものの、波多野から離れてわかった自分の気持ちを、やっと伝えられると思っていた。だけど、よく考えてたら、好きだのなんだのお互いにいった訳じゃない。あ、いや、波多野は言ったか。
「なんとなくは、もう無理だしな」
「えっ?」
ボソリと呟いた言葉はどうやら、波多野の元へは届かなかったようだ。いつものようになんとなくの雰囲気に乗っかって、気持ちを伝えるのもありかもしれないけど、たぶん今の自分には、無理だ。かといって、気持ちに気がついただけで、まだ伝えるまでには気持ちが育っていない。
「だけど、どうしても会いたかったんだよ」
煮え切らない自分が嫌いだけど、仕方ない。逃げ込むようにしていた、懐メロの熱唱をやめてドリンクを飲んでいると、波多野がまじまじと見つめてきた。そうかと思ったら、ぎゅっと強く、抱きしめられた。握っていたマイクがこぼれ落ちる。突然なんだと、驚いて見上げたら、嬉しそうに笑っている波多野の顔が、そこにあった。
「圭さん。今はね、その言葉だけでいいですよ」
波多野から、意地悪なことを言われるとばかり思っていたのに、予想に反してハチミツがとろけるような甘々な笑顔と柔らかな声が降り注いできた。いい年して、やけに乙女みたいな自分を優しく待ってくれている羽多野に、言いようもない安心感と信頼を寄せている自分がいる。そして、そう遠くない未来にきっと自分の気持ちを打ち明けるのだろうと今、確信した。ただ漫然と緒方と一緒にいたあの頃みたいにただ、雰囲気に流されて気持ちを打ち明けるのではなく、しっかりと自分の意志で、かならず。宣言するみたいに、気持ちを伝えようと決めた。
「それに、ね。素直じゃない彼の落とし方ってやつですから」
本当に、羽多野がなにを言っているのかわからない。だけど、幸福感だけじゃない言いようもなく予感みたいなものなのかもしれない。アイツのことを考えただけで、ゾクリと背筋が寒くなるのを感じた。やっぱり、ただただ甘い雰囲気だけを提供してくれるわけではないらしい。
「圭さんにはコレくらいがちょうどいいでしょ?俺の側でいっぱいドキドキして、困った顔みせてくださいね」
くすくす笑うその顔は、彼をはじめてみたときと同じ、だ。きっとあのときから、彼に惹かれていたに違いない。恋を発展するつもりはなく、自分の中で消化しようとしていた不毛な月日を思うとため息が出る。あの頃の自分に、伝えてやりたい。取り返しがつかなくなる前にそいつだけはやめておけ……。爽やかな見た目に騙されるな、そいつはとんだ性悪だ。過去の自分に、メッセージを送ったものの、きっと意味がないにちがいない。素直じゃない、俺ならなおさら。大丈夫、近寄らなきゃいいんでしょって言いそうだ。本当に、どうしたもんかと思ってしまう、自分でももて余してしまう素直じゃない自分が、いつか好きになれたらと思うのだ。
【完】
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