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終末の16日間と日記と旅

ジャンル: その他 作者: そばかす
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第32話

 ああ――世界とは、こんなにも美しいものだったんだ。
 古びた家のまだらになった外壁、捨てられた吸い殻、空を飛ぶ鳥たち、風に揺れる電線、終末騒動以後はめずらしくもなくなった傷だらけでへこんだガードレール。……そんなすべて、本当にすべてが、愛おしい。美しい。
 世界中の人に、意味もなく、心から感謝したい気分になる。
 ……残念ながら、わたしの近くには、犬っころと、ヒカルではないヒカルと名乗った少女しかいない。
「ありがとう」
 わたしは誰にともなくいった。
 せかせかと、短い足を動かす犬がちらりとわたしの顔を見あげる。
「ありがとう」
 またつぶやく。
 わたしの頭は――いや目もか――おかしくなってしまったのだろうか?
 ありがとう、ありがとうと、ほほえみながらつぶやくわたしを見て、彼女は笑わなかった。笑わなくなっていた。
 わたしと対照的に。
「なにに感謝しているんですか?」
 つっけんどんな声で、隣を歩く無表情な少女がいう。
 正直いつもニコニコしていた頃の彼女よりも、取っつきやすい印象さえあった。わたしの性格がねじ曲がっているせいだろう。
「すべてのものに」
「すべて?」
「そう、きみとの出会いもそうだし、この犬っころとの出会いもそうだ」
 ふう、と彼女は短くため息を吐くと、シニカルな笑みを浮かべた。唇の端だけの笑み。
「――お兄さん、あなた、風格でてきましたよ」
「風格?」
「宗教家としての」
 それは皮肉なことだ。
 わたしはすべての神や仏や守護霊や先祖や宇宙人にまで祈ったが、結局、それらすべてを捨てた。あの相澤親子の遺体の前で。あのときおき捨てたロザリオと数珠とともに。
 そんな宗教を捨てたわたしが、そういった宗教家としての風格を備えつつあるというのなら、相当変なことだった。
「心から、お兄さん――いま感謝してるでしょ?」
 打ち明け話をするように、内緒話をするかのように、彼女はわたしのすぐ近くに近づき、うわ目づかいで見つめる。
「そういう空気っていうのかな、雰囲気っていうべきかな? そういうのを感じますよ。……それが、言葉よりも雄弁に語ってる…………」
「そうか」
 わたしはうなずく。
 うなずくものの、なにも心には浮かばない。
 褒められた喜びもなにも。
 ただ無。
 無――なのに、満たされている。
 心がぽかぽかと温かい。
 ――わたしはひとりであって、ひとりではない。
 そう素直に思える。

「感謝――――」

 そのあとわたしはどう続けるつもりだったのか、後日いくら思いだそうとしても思い出せなかった。

 暴走トラック。それがまるで灰色の風となって、わたしの目の前を横切り、ちょいと先に足を踏みだした――彼女と、そしてその細い足にまとわりつくように跳ねていた子犬――そのふたつの命を――
 ズシャアアアアアアアッ!
 ものすごい音とともに、引きずり去っていった。
 彼女の肩にかけていた学生鞄が、トラックのどこかに引っかかったらしい。
 そのまま彼女は、暴走トラックに引きずられて――どこまでも、どこまでも…………。
 見えなくなるまで連れていかれた。
 時速百五十キロだか二百キロだか知らない。
 わかるのは、住宅街の道を高速道路以上の速度で突っ走ったトラックと、

 ――そのあとに残った赤い轍――彼女の血の跡だけ。
 その血の轍がどこまでもどこまでも続く…………。

「感謝…………」

 わたしはぽつりと、マナたちの命を奪ったトラックに対してもそういった。

   *

 わたしはふらふらと、暴走トラックが走り去った方向に進もうと数歩歩みを進めたが、立ち止まった。
 彼女――ヒカルと名乗ったが、結局本名はなんだったのかわからない少女は、死んだ。
 間違いなく。
 ぶつかった衝撃もそうだし、まるで地平線の彼方にまで続いているような、途切れることのない赤い帯からみて、出血多量もいいところ。
 犬は――
 途中で、まるで小さな小さなカーペットのように、ぺちゃんこになっているのが見えた。
 どこが頭部かわからない、もしかしたら頭部だけ衝撃でどっか飛んでいったんじゃないかと思うほど、頭蓋骨を感じさせない、ぺちゃんこの茶色い染み。
 近づく気には……まったくなれなかった。
「死……」
 人は、犬は、生きとし生けるものは、必ず死ぬ――というよりも、この地球にいる全生命は、あと十日とちょっとの命なのだ。もしかしたら粉々に砕け散った地球の破片にこびりついた微生物などが生きている可能性もあるかもしれないが、少なくともほ乳類は生きていないはずだ。
 げえええ! おげっ、おげっ!
 わたしは吐いた。
 げろが、赤い轍を、汚い色に染めあげる。
 それは、まるで彼女の死を穢してしまったかのようで悔やまれた。
 が。
 涙が出るほどのどが痛い吐き気は……一向に収まらない――むしろ強まるばかり。
 両ひざを汚物の中につき、祈るように手を組みあわせて、何度も地面を叩いた。
 神などいないと何度思ったことだろう。仏もないと何度ののしったことだろう!
 わたしは……その日一日、汚物の中で過ごした。
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