第31話
いや。
ぎりりっとにぎりしめるこぶしの中で、数珠が鳴る。なぜかロザリオをひきちぎり、大声をあげて海に向かって投げつけたい衝動にかられた。
わたしは、日記を、地面に投げ捨てた。
ヒカルはそれを拾いあげ、丁寧にほこりを払った。いつも笑顔の彼女も神妙な顔。汚れが染みつき、払った程度では取れないと知ると、彼女の顔がこわばった。取れない汚れの最たるものは、乾ききった血だと気づいたのだ。
その血染めの日記帳を開き、彼女も読んだ。
「ふ、ふふふふ…………」
始め、彼女が笑っていることに、わたしは気づかなかった。
上唇と下唇の間から、リコーダーでも吹くように、ヒカルは空気を断続的に漏らしていた。なにかの発作かと思った。
だが、こらえようのないように笑い始め、
「アハハハハ…………ハーッハッハッハッハァ――ッ!」
腹をよじるようにして笑い始めた。
「……この人、文才は欠片もありませんけど、〝繰り返す〟ってまさにそうかもしれませんね。……わたしも、ずっとずっと繰り返してきたから」
「……なにを……」
わたしは、あまりにも彼女の一変した表情に、態度に、驚いていた。
彼女の目には、涙が――嬉し涙とも、悲しみの涙ともつかないものが浮かぶ。
「死体のそばで読んだからか、それともこれが遺書のたぐいだとわかるからか、なぜか胸に迫りました」
彼女のいいたいことはわかる。わたし自身、いい知れない衝撃を受けた。
そのひとつは、おそらく彼女は言及しなかったが、終末世界となった崩壊直前のいま、〝普通の人々の普通でない一面〟がたくさん現れ、見せつけられてきたためかもしれない。
「あーーーーー」
彼女は、間延びした声を出していった。
「もう……やめにします」
彼女は、もう、笑わなかった。
「やめるってなにを?」
「ヒカルを、です」
「ヒカル? どういう……」
「わたし、こういう性格じゃないんです。むしろ逆!」
吐き捨てるように、ヒカルをやめた少女が、死体を前に語る。
「ずっといじめられっ子でした。子供の頃から病気がちで、薬を飲んでいて、その薬の副作用でブクブクと太っていたんです。中学まで続きました。高校デビューはうまくできたんですけど、結局、わたしは、わたしが理想とするような少女にはなれなかった、内面的には」
こういってはなんだが、中学教師をしていたわたしにとって、いじめなんかのネタはありふれた話だった。
と同時に、彼女がどれほど苦しみ抜いたかもわかった。
なにせ、わたしは、職員室で教師からもいじめられていたのだ。生徒たちにいじめはいけないという教師たちが、同僚の教師をいじめていた。世も末だったのだ、終末となる以前から。
彼女の愚痴をわたしはただ黙って聞いた。荒行に耐える修行僧のように。彼女の罵倒を。彼女の恨みを。彼女の、同級生と教師にぶつける、ありったけの憎しみを――――。
わたしは、ただ滝に打たれるかのごとく、耐えきった。
すべて聞き終えたわたしと、
すべて話し終えた彼女は、
あらためて向き合った。
いつのまにか夕暮れだ。
「たぶん、よくも悪くも、それがどうしたってことなんだろうな」
わたしは、海とは反対方向に出ている夕陽を見つめる。
きれいだ。
「この夕暮れだって、あと数えるほどしか見られない。――だからみんなのたうちまわって、暴動を起こしたり、殺人を起こしたり、強盗したりしている。……別に、普通なんだ」
「…………普通?」
しゃべり疲れた彼女は、思いのほか素直だった。
「ああ、普通。……きっとこの世界にいま生きている人間の怨嗟を集めれば、夕暮れだって血のように赤く染まるよ」
「夕暮れはもともと赤いですよ」
彼女は笑う。
わたしも笑ってみせた。
自然と、なぜか数珠とロザリオを捨てることに決めた。
「南無阿弥陀仏」
そういって、そのふたつを、相澤マナとその父とおぼしき男の胸にのせる。
ついでに、父親の開いたままの目を閉じさせ、相澤マナの手足をまっすぐにしてあげる。
「目的地ができた」
わたしは静かに、彼女にそう宣言した。オレンジ色の光の中。
「奇遇ですね。わたしも目的地ができました」
せまる夕闇にそっと告げるように、彼女も答える。
「この日記の住所に。――そして、届ける」
ふたりの声が重なった。
*
ふたりと一匹の快調な旅が始まった。
あの犬――テツは元気に動く四本の足のあいだを走りまわり、しっぽをよく振っている。
あの少女、相澤マナに、この犬もお別れを告げることができたのだろう。それとも、少女の願いが日記を届けることにあると超常的な力で理解しているのだろうか。そんなどうでもいいことを考えつつも、わたしの顔には笑みが浮かぶ。
海沿いの道は、つねに続いているわけではない。港があればうかいし、コンビナートがあれば遠回りしというように、決してまっすぐではない。
けれど――
いまのわたしには、目的地がある。
たとえ、途中にどんな困難があったとしても、わたしはやり遂げる。
そう、自信がついてきた。
ぎりりっとにぎりしめるこぶしの中で、数珠が鳴る。なぜかロザリオをひきちぎり、大声をあげて海に向かって投げつけたい衝動にかられた。
わたしは、日記を、地面に投げ捨てた。
ヒカルはそれを拾いあげ、丁寧にほこりを払った。いつも笑顔の彼女も神妙な顔。汚れが染みつき、払った程度では取れないと知ると、彼女の顔がこわばった。取れない汚れの最たるものは、乾ききった血だと気づいたのだ。
その血染めの日記帳を開き、彼女も読んだ。
「ふ、ふふふふ…………」
始め、彼女が笑っていることに、わたしは気づかなかった。
上唇と下唇の間から、リコーダーでも吹くように、ヒカルは空気を断続的に漏らしていた。なにかの発作かと思った。
だが、こらえようのないように笑い始め、
「アハハハハ…………ハーッハッハッハッハァ――ッ!」
腹をよじるようにして笑い始めた。
「……この人、文才は欠片もありませんけど、〝繰り返す〟ってまさにそうかもしれませんね。……わたしも、ずっとずっと繰り返してきたから」
「……なにを……」
わたしは、あまりにも彼女の一変した表情に、態度に、驚いていた。
彼女の目には、涙が――嬉し涙とも、悲しみの涙ともつかないものが浮かぶ。
「死体のそばで読んだからか、それともこれが遺書のたぐいだとわかるからか、なぜか胸に迫りました」
彼女のいいたいことはわかる。わたし自身、いい知れない衝撃を受けた。
そのひとつは、おそらく彼女は言及しなかったが、終末世界となった崩壊直前のいま、〝普通の人々の普通でない一面〟がたくさん現れ、見せつけられてきたためかもしれない。
「あーーーーー」
彼女は、間延びした声を出していった。
「もう……やめにします」
彼女は、もう、笑わなかった。
「やめるってなにを?」
「ヒカルを、です」
「ヒカル? どういう……」
「わたし、こういう性格じゃないんです。むしろ逆!」
吐き捨てるように、ヒカルをやめた少女が、死体を前に語る。
「ずっといじめられっ子でした。子供の頃から病気がちで、薬を飲んでいて、その薬の副作用でブクブクと太っていたんです。中学まで続きました。高校デビューはうまくできたんですけど、結局、わたしは、わたしが理想とするような少女にはなれなかった、内面的には」
こういってはなんだが、中学教師をしていたわたしにとって、いじめなんかのネタはありふれた話だった。
と同時に、彼女がどれほど苦しみ抜いたかもわかった。
なにせ、わたしは、職員室で教師からもいじめられていたのだ。生徒たちにいじめはいけないという教師たちが、同僚の教師をいじめていた。世も末だったのだ、終末となる以前から。
彼女の愚痴をわたしはただ黙って聞いた。荒行に耐える修行僧のように。彼女の罵倒を。彼女の恨みを。彼女の、同級生と教師にぶつける、ありったけの憎しみを――――。
わたしは、ただ滝に打たれるかのごとく、耐えきった。
すべて聞き終えたわたしと、
すべて話し終えた彼女は、
あらためて向き合った。
いつのまにか夕暮れだ。
「たぶん、よくも悪くも、それがどうしたってことなんだろうな」
わたしは、海とは反対方向に出ている夕陽を見つめる。
きれいだ。
「この夕暮れだって、あと数えるほどしか見られない。――だからみんなのたうちまわって、暴動を起こしたり、殺人を起こしたり、強盗したりしている。……別に、普通なんだ」
「…………普通?」
しゃべり疲れた彼女は、思いのほか素直だった。
「ああ、普通。……きっとこの世界にいま生きている人間の怨嗟を集めれば、夕暮れだって血のように赤く染まるよ」
「夕暮れはもともと赤いですよ」
彼女は笑う。
わたしも笑ってみせた。
自然と、なぜか数珠とロザリオを捨てることに決めた。
「南無阿弥陀仏」
そういって、そのふたつを、相澤マナとその父とおぼしき男の胸にのせる。
ついでに、父親の開いたままの目を閉じさせ、相澤マナの手足をまっすぐにしてあげる。
「目的地ができた」
わたしは静かに、彼女にそう宣言した。オレンジ色の光の中。
「奇遇ですね。わたしも目的地ができました」
せまる夕闇にそっと告げるように、彼女も答える。
「この日記の住所に。――そして、届ける」
ふたりの声が重なった。
*
ふたりと一匹の快調な旅が始まった。
あの犬――テツは元気に動く四本の足のあいだを走りまわり、しっぽをよく振っている。
あの少女、相澤マナに、この犬もお別れを告げることができたのだろう。それとも、少女の願いが日記を届けることにあると超常的な力で理解しているのだろうか。そんなどうでもいいことを考えつつも、わたしの顔には笑みが浮かぶ。
海沿いの道は、つねに続いているわけではない。港があればうかいし、コンビナートがあれば遠回りしというように、決してまっすぐではない。
けれど――
いまのわたしには、目的地がある。
たとえ、途中にどんな困難があったとしても、わたしはやり遂げる。
そう、自信がついてきた。
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