第30話
「そうか?」
わたしは犬をおろし、気のない返事をした。
わたしと彼女は歩きだす。
すると、いきなりテツが、わたしのズボンのすそに噛みついてきた。
海の家の近くだ。
「なんだ? 海の家になにか食べ物でもあるのか?」
「死体かもしれませんよー?」
おばけのように両手を前にだしてポーズを取るヒカル。
が、すぐに、ちょっと前に見た死体を思いだしたらしく、自分の冗談のたちの悪さに苦笑いした。
「……すみません」
「いいさ」
わたしと彼女はしかたなく、このうるさい犬についていくことにした。
テツはてっきり海の家に行くのかと思ったら、階段の一段目をひっかいている。
おりたはいいが、のぼれない。そういうことらしい。なんだか猫みたいな犬。
わたしと彼女は、階段半ばで足をとめた。わたしの腕の中で吠えるテツの声が、より一層激しくなる。
「ちっ――死体かよ」
わたしは思わず口汚くののしった。
それも一体や二体ではなさそうだ。この濃密な死臭。潮風にまぎれていても、よくわかる。
彼女の顔も顔面蒼白。
一度死体を見たことで、想像できるようになってしまったためだろう。
人類はあと二週間で滅亡します。そういわれても実感はわかないし、六十億の死体とかも想像できない。けど、だからこそ、むしろ数人の死体などというものが、もっともリアルに死を予感させる。数百、数千、数万と重なる死体は、死体というよりも、〝死体〟と名づけられたもののような印象になるというか。
犬は吠える。
吠え続ける。
まるで、ここで自分ののどが裂けても構わないというように。
ひたすら吠える。
「ああ! うるさい!」
わたしは犬を捨てたくなった。
だが、自分の腕にまかれた数珠を思いだす。宗教家として、その行動はどうか? 〝続ける〟と誓ったのなら、どうせあと二週間足らずなのだ、続けようじゃないか。
わたしは、しかたなく重くなった足をうえに運ぶ。
*
海沿いの道に出た。
犬をおろす。
犬っころよ、これで満足か?
わたしは冷めた心持ちで、目の前の凄惨な状況を眺める。
あとからおそるおそる顔を出したヒカルも息を飲んだ。
「これは、いったい……?」
「……わたしにも、わからん」
ただわかるのは、この犬っころが舐めている幼女の死体――それがおそらく飼い主の相澤マナであろうということだけ。
「普通に考えるなら、この拳銃自殺している男が、相澤マナの父親かなんかだろう。でもって、こっちに転がる銃殺された海パン男たちに娘が襲われた……とかかな」
適当に想像してみる。
とすると、この犬は唯一の生き残りだったわけか。
この犬はたぶんなんらかの事情で海岸に取り残された。
もしくは、がんばっておりたはいいが、のぼれずに立ち往生していた。そこでわたしたちを見つけて助けを求めたわけか。
ぺろぺろ。
犬は必死に幼女の指先を舐めているし、顔の血も舐めているが。
「死んで……ますよね?」
「確認は必要か?」
わたしの冷たい声。
幼女は、両手両足をへし折られている。いったいなにをどうすれば、こんな凶行に走れるのか。……わたしは、自分が異常だとずっと思っていたが、普通の人も異常なのかもしれない。近くに倒れている男たちは、夏の海辺にいけば、いくらでもいるごく普通の若者たちだ。普通とはなんなのか……。
拳銃自殺したと思われる男は、脳漿をぶちまけている。口に銃をくわえたまま倒れていた。
その手に――――
「日記?」
わたしは、思わずその血で染まった手ににぎられている日記にふれていた。しゃがみこみ、それを取る。
波佐間真一という男性名が登場し、この壮年の男性の名前かと思ったが、どうやら思ったよりも自体は複雑だったらしい。
わたしは読み進めて、推論を交えて、ヒカルに語った。
「この日記を書いたのは、波佐間真一という、母と姉と生き別れたフリーターの青年らしい。彼は、この少女――相澤マナの勧めで、日記を執筆し、手紙代わりに渡すことを思いついたらしい。……ほら、この裏表紙の住所。ここにいるという母と姉にこの日記を渡そうとしていた」
「けど」
彼女は口を開いたが、それ以上言葉を続けなかった。
「ああ。……けど、亡くなった」
わたしが代わりに続ける。
「最後のほうはごたごたしていて、日記にも書かれていないからよくわからないが、おそらくこの海パン連中は無法者どもの集団で、――あの少し離れたところにある遺体が波佐間真一青年で、彼は相澤マナを助けるために死闘を演じた」
「結局マナさんは殺されてしまったけど、ぎりぎりのところで父親が到着し、彼らを撃ち殺したということですか?」
「おそらく」
わたしは、どっと疲れたような気がした。
それは――――
〝人はあやまちを繰り返す〟
というような言葉が、日記の中で力強く主張されていたためだ。
わたしは…………、わたしも……〝繰り返し〟ているのだろうか? いや、繰り返しこそ、わたしの望むべきものなんじゃないか。
わたしは犬をおろし、気のない返事をした。
わたしと彼女は歩きだす。
すると、いきなりテツが、わたしのズボンのすそに噛みついてきた。
海の家の近くだ。
「なんだ? 海の家になにか食べ物でもあるのか?」
「死体かもしれませんよー?」
おばけのように両手を前にだしてポーズを取るヒカル。
が、すぐに、ちょっと前に見た死体を思いだしたらしく、自分の冗談のたちの悪さに苦笑いした。
「……すみません」
「いいさ」
わたしと彼女はしかたなく、このうるさい犬についていくことにした。
テツはてっきり海の家に行くのかと思ったら、階段の一段目をひっかいている。
おりたはいいが、のぼれない。そういうことらしい。なんだか猫みたいな犬。
わたしと彼女は、階段半ばで足をとめた。わたしの腕の中で吠えるテツの声が、より一層激しくなる。
「ちっ――死体かよ」
わたしは思わず口汚くののしった。
それも一体や二体ではなさそうだ。この濃密な死臭。潮風にまぎれていても、よくわかる。
彼女の顔も顔面蒼白。
一度死体を見たことで、想像できるようになってしまったためだろう。
人類はあと二週間で滅亡します。そういわれても実感はわかないし、六十億の死体とかも想像できない。けど、だからこそ、むしろ数人の死体などというものが、もっともリアルに死を予感させる。数百、数千、数万と重なる死体は、死体というよりも、〝死体〟と名づけられたもののような印象になるというか。
犬は吠える。
吠え続ける。
まるで、ここで自分ののどが裂けても構わないというように。
ひたすら吠える。
「ああ! うるさい!」
わたしは犬を捨てたくなった。
だが、自分の腕にまかれた数珠を思いだす。宗教家として、その行動はどうか? 〝続ける〟と誓ったのなら、どうせあと二週間足らずなのだ、続けようじゃないか。
わたしは、しかたなく重くなった足をうえに運ぶ。
*
海沿いの道に出た。
犬をおろす。
犬っころよ、これで満足か?
わたしは冷めた心持ちで、目の前の凄惨な状況を眺める。
あとからおそるおそる顔を出したヒカルも息を飲んだ。
「これは、いったい……?」
「……わたしにも、わからん」
ただわかるのは、この犬っころが舐めている幼女の死体――それがおそらく飼い主の相澤マナであろうということだけ。
「普通に考えるなら、この拳銃自殺している男が、相澤マナの父親かなんかだろう。でもって、こっちに転がる銃殺された海パン男たちに娘が襲われた……とかかな」
適当に想像してみる。
とすると、この犬は唯一の生き残りだったわけか。
この犬はたぶんなんらかの事情で海岸に取り残された。
もしくは、がんばっておりたはいいが、のぼれずに立ち往生していた。そこでわたしたちを見つけて助けを求めたわけか。
ぺろぺろ。
犬は必死に幼女の指先を舐めているし、顔の血も舐めているが。
「死んで……ますよね?」
「確認は必要か?」
わたしの冷たい声。
幼女は、両手両足をへし折られている。いったいなにをどうすれば、こんな凶行に走れるのか。……わたしは、自分が異常だとずっと思っていたが、普通の人も異常なのかもしれない。近くに倒れている男たちは、夏の海辺にいけば、いくらでもいるごく普通の若者たちだ。普通とはなんなのか……。
拳銃自殺したと思われる男は、脳漿をぶちまけている。口に銃をくわえたまま倒れていた。
その手に――――
「日記?」
わたしは、思わずその血で染まった手ににぎられている日記にふれていた。しゃがみこみ、それを取る。
波佐間真一という男性名が登場し、この壮年の男性の名前かと思ったが、どうやら思ったよりも自体は複雑だったらしい。
わたしは読み進めて、推論を交えて、ヒカルに語った。
「この日記を書いたのは、波佐間真一という、母と姉と生き別れたフリーターの青年らしい。彼は、この少女――相澤マナの勧めで、日記を執筆し、手紙代わりに渡すことを思いついたらしい。……ほら、この裏表紙の住所。ここにいるという母と姉にこの日記を渡そうとしていた」
「けど」
彼女は口を開いたが、それ以上言葉を続けなかった。
「ああ。……けど、亡くなった」
わたしが代わりに続ける。
「最後のほうはごたごたしていて、日記にも書かれていないからよくわからないが、おそらくこの海パン連中は無法者どもの集団で、――あの少し離れたところにある遺体が波佐間真一青年で、彼は相澤マナを助けるために死闘を演じた」
「結局マナさんは殺されてしまったけど、ぎりぎりのところで父親が到着し、彼らを撃ち殺したということですか?」
「おそらく」
わたしは、どっと疲れたような気がした。
それは――――
〝人はあやまちを繰り返す〟
というような言葉が、日記の中で力強く主張されていたためだ。
わたしは…………、わたしも……〝繰り返し〟ているのだろうか? いや、繰り返しこそ、わたしの望むべきものなんじゃないか。
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