第29話
わたしは彼女の顔を見て、議論しようとして、はたと気づいた。
彼女の名前を、わたしは知らないんじゃないか?
彼女もわたしの背中を呼び止めようとして、名前を聞いていなかったことを思いだしたらしい。
「……あの、そういえば、お互いに名前、知りませんよね?」
「そういえば、そうだな」
名もなき青年の死体の横で自己紹介もないと思うが、しかたない。
「本居だ」
「モトオリさんですか? 名字ですよね?」
「ああ。どうせ名前で呼びあうこともないし、フルネームは必要ないだろう」
フルネームが必要なのは、たくさんの人間がいて、名字や名前だけではかぶるからだ。
ここにはふたりしかいないし、おそらくそれは変わらないだろう。
「じゃあ、わたしは、ヒカルって名乗っておきますね」
「ヒカル?」
「ええ、まあ……」
彼女の歯切れは悪い。
そもそも、本名を名乗るときに、名乗っておきますねなどというだろうか?
……まあ、どうでもいいか。
「では、お兄さん」
結局彼女はこれまで通りわたしをお兄さんと呼ぶことに決めたらしく、聞いてきた。
「あらためて聞きますが、いいんですか、あの死体、ほうっておいても」
「いいも悪いもない」
「宗教家さんなら、お経のひとつでも唱えてあげれば……」
「あいにくわたしは南無阿弥陀仏くらいしか知らない。それに、わたしみたいなエセ宗教家に弔われても、弔われる側が困るだけだ」
「まあ、お兄さんがそうおっしゃるなら……」
死体をそのままにすることに忌避を覚えるものの、だからといってどうすることもできなかったらしく、コンクリの階段をおりるわたしのあとについてくる。
砂浜におりた。
いまはちょうど海風で、海から風が吹いてくる。よって死体の臭いなどもしない。
「静かなものですねえ」
「ああ……」
波の音しかしない。足跡もない。風で風化したのか、波で洗われたのか。どちらにしろ、ちょっとした穴場か、プライベートビーチのようにきれいで静かだ。
まるで人類は一足早く絶滅したかのように。
そんなくだらないことを考えつつ、わたしは彼女とともに黙々と歩いた。
心持ち、また互いの心理的距離が開いたような気がする。
こうして歩いているとわかるが、決して、彼女はわたしに心を許しているわけではないと感じる。話しかければ笑顔を浮かべるし、食料を分けてくれたこともあるし、あの口移しで水を飲ませてくれたこともある。……だが。じゃあ、彼女はわたしを心から信頼し、好意を抱いてくれているのか? といえば、答えはノーだろう。
客観的に見て、わたしは決して人に好かれる性格ではない。
死体を放置する。宗教家を名乗りつつも、弔いひとつしてやらない。かってにつくった自分のルールに固執し、そのくせ他人のつくったレールの上を走ることしか知らない列車。あげく途中で脱線事故を起こして、教師も早々に辞めて、いまではなんだかよくわからない者になりさがっている……。
こんなわたしに好意を抱く者などいるはずがない。
なのに――――。
わたしは、うしろを振り向いた。
陽射しを浴びた滑らかな砂浜は、鏡のように真上からの陽射しを反射し、彼女の陰影を際立たせ、背後の砂浜は彼女にさす後光のように見えた。
もし天使がいたら、こんな少女かもしれないなどと意味不明なことを思う。
「ワンワン!」
突如。まるでわたしの妄想のつまらなさを叱責するように、鋭い鳴き声が聞こえてきた。
視線を向けると、小さな犬。
犬だろうな、とは思っていたが、ここまで小さいとは予想外だった。
室内犬というのだろうか? そういったイメージの、茶色い毛玉のおばけのような犬が、一生懸命、砂に足をとられながらも一直線に走ってくる。
「わんわん、わん!」
甲高い声は、身体に比べてずいぶんと大きい。
砂ぼこりにまみれてずいぶんと汚れている。
――野良犬だろう。
首輪こそしているが、いまどき野良犬などめずらしくもない。
その犬――首輪の金属プレートに彫られた名前だと、「テツ」という名前のそいつは、わたしの足のまわりをぐるぐるとまわった。うざい。
わたしはその犬を両手でにぎった。
持ちあげると、その金属プレートに「相澤マナ」という名前といっしょに、住所が書かれている。ここからはけっこう距離がある。この足の遅そうな犬がひとりできたとは思いづらい。
「マナ、か」
わたしは、もしかしたらあの死体となっていた青年の犬かと思ったのだが、男でマナという名前はないだろうと思った。
「その犬、どうしたんですか?」
わたしが立ち止まっていると、急いでヒカルが駆けよってきた。
ヒカル。そう彼女は名乗ったが、ファーストネームで年下のかわいい少女を、心の中で呼ぶだけとはいえ、ちょっとドギマギした。
正直、中高生は、教師時代のトラウマを思いださせるので苦手だが、一泊したことで少しだけ慣れてきて、心に余裕が生まれてきたらしい。
わたしは、犬の名とその飼い主とおぼしき名前と住所を伝えた。
「へえ、テツっていうんですね。かわいい名前」
彼女の名前を、わたしは知らないんじゃないか?
彼女もわたしの背中を呼び止めようとして、名前を聞いていなかったことを思いだしたらしい。
「……あの、そういえば、お互いに名前、知りませんよね?」
「そういえば、そうだな」
名もなき青年の死体の横で自己紹介もないと思うが、しかたない。
「本居だ」
「モトオリさんですか? 名字ですよね?」
「ああ。どうせ名前で呼びあうこともないし、フルネームは必要ないだろう」
フルネームが必要なのは、たくさんの人間がいて、名字や名前だけではかぶるからだ。
ここにはふたりしかいないし、おそらくそれは変わらないだろう。
「じゃあ、わたしは、ヒカルって名乗っておきますね」
「ヒカル?」
「ええ、まあ……」
彼女の歯切れは悪い。
そもそも、本名を名乗るときに、名乗っておきますねなどというだろうか?
……まあ、どうでもいいか。
「では、お兄さん」
結局彼女はこれまで通りわたしをお兄さんと呼ぶことに決めたらしく、聞いてきた。
「あらためて聞きますが、いいんですか、あの死体、ほうっておいても」
「いいも悪いもない」
「宗教家さんなら、お経のひとつでも唱えてあげれば……」
「あいにくわたしは南無阿弥陀仏くらいしか知らない。それに、わたしみたいなエセ宗教家に弔われても、弔われる側が困るだけだ」
「まあ、お兄さんがそうおっしゃるなら……」
死体をそのままにすることに忌避を覚えるものの、だからといってどうすることもできなかったらしく、コンクリの階段をおりるわたしのあとについてくる。
砂浜におりた。
いまはちょうど海風で、海から風が吹いてくる。よって死体の臭いなどもしない。
「静かなものですねえ」
「ああ……」
波の音しかしない。足跡もない。風で風化したのか、波で洗われたのか。どちらにしろ、ちょっとした穴場か、プライベートビーチのようにきれいで静かだ。
まるで人類は一足早く絶滅したかのように。
そんなくだらないことを考えつつ、わたしは彼女とともに黙々と歩いた。
心持ち、また互いの心理的距離が開いたような気がする。
こうして歩いているとわかるが、決して、彼女はわたしに心を許しているわけではないと感じる。話しかければ笑顔を浮かべるし、食料を分けてくれたこともあるし、あの口移しで水を飲ませてくれたこともある。……だが。じゃあ、彼女はわたしを心から信頼し、好意を抱いてくれているのか? といえば、答えはノーだろう。
客観的に見て、わたしは決して人に好かれる性格ではない。
死体を放置する。宗教家を名乗りつつも、弔いひとつしてやらない。かってにつくった自分のルールに固執し、そのくせ他人のつくったレールの上を走ることしか知らない列車。あげく途中で脱線事故を起こして、教師も早々に辞めて、いまではなんだかよくわからない者になりさがっている……。
こんなわたしに好意を抱く者などいるはずがない。
なのに――――。
わたしは、うしろを振り向いた。
陽射しを浴びた滑らかな砂浜は、鏡のように真上からの陽射しを反射し、彼女の陰影を際立たせ、背後の砂浜は彼女にさす後光のように見えた。
もし天使がいたら、こんな少女かもしれないなどと意味不明なことを思う。
「ワンワン!」
突如。まるでわたしの妄想のつまらなさを叱責するように、鋭い鳴き声が聞こえてきた。
視線を向けると、小さな犬。
犬だろうな、とは思っていたが、ここまで小さいとは予想外だった。
室内犬というのだろうか? そういったイメージの、茶色い毛玉のおばけのような犬が、一生懸命、砂に足をとられながらも一直線に走ってくる。
「わんわん、わん!」
甲高い声は、身体に比べてずいぶんと大きい。
砂ぼこりにまみれてずいぶんと汚れている。
――野良犬だろう。
首輪こそしているが、いまどき野良犬などめずらしくもない。
その犬――首輪の金属プレートに彫られた名前だと、「テツ」という名前のそいつは、わたしの足のまわりをぐるぐるとまわった。うざい。
わたしはその犬を両手でにぎった。
持ちあげると、その金属プレートに「相澤マナ」という名前といっしょに、住所が書かれている。ここからはけっこう距離がある。この足の遅そうな犬がひとりできたとは思いづらい。
「マナ、か」
わたしは、もしかしたらあの死体となっていた青年の犬かと思ったのだが、男でマナという名前はないだろうと思った。
「その犬、どうしたんですか?」
わたしが立ち止まっていると、急いでヒカルが駆けよってきた。
ヒカル。そう彼女は名乗ったが、ファーストネームで年下のかわいい少女を、心の中で呼ぶだけとはいえ、ちょっとドギマギした。
正直、中高生は、教師時代のトラウマを思いださせるので苦手だが、一泊したことで少しだけ慣れてきて、心に余裕が生まれてきたらしい。
わたしは、犬の名とその飼い主とおぼしき名前と住所を伝えた。
「へえ、テツっていうんですね。かわいい名前」
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