第拾漆話
「そう、幻なの。全部」
突拍子もないヒルダの発言に、目の前のジークフリードは表情を一転させ瞠目する。
「今のあなたが、私の力を借りようとするわけがないもの」
パラリ、パラリ、と。望んだ世界が剥離していく。
常人とは一線を画す英雄ジークフリードが誰かの力を借りるはずはない。だから彼は彼女に頼ることは二度となく、もう背中を預けられるような仲間ではない。前方の瞳はそう語っている。
最初から理解なんてできるはずがなかった。英雄となった彼は不老不死となり人知を超えたのだ。同じ理由から、彼が彼女のもとへ戻れるはずもない。
彼と彼女を隔てる境界線は理屈ではない。ただ変えられぬものとしてそこに存在してしまった。本能で悟った、絶対的な壁。
「何言ってるんだ、ヒルダ! 目を覚ましてくれ!」
霞はもう心を覆わなかった。
代わりに乾いた悟りが彼女の身体に染み渡っていく。
「願っても無駄。頑張っても無駄。二度とシグルスは帰ってこない」
そう呟いたところで、ヒルダの肩を掴んでいたジークフリードから表情が抜け落ちた。見慣れた顔が泥のように崩れ、優しい瞳が溶けていく。醜い顔をした赤黒い魔物が瞼のない瞳を光らせて、ジークフリードだったものから顔を覗かせる。
もはや人の顔とは呼べないそれは、力の抜けたヒルダの身体を引き寄せ大口を開いた。粘着質な音が聴覚を占めて、同時に喉元からむわっと押し寄せた血生臭い吐息が彼女の鼻を掠める。今にも自分が食われるという瞬間を他人事のように観察しながら、ヒルダは理解した。
シグルスが帰ってくるなんてありえない。
「シグルスはもう、どこにもいないから」
何かが斬られる鋭い音がした。
いつの間にか距離を詰めていたジークフリードが彼に化けていたピクシーを後ろから斬り捨てた。奇声を上げて地面に倒れこんだピクシーに突き飛ばされるような形で、ヒルダは二、三歩後ずさった。
ジークフリードはまだ息の根があるピクシーを見下ろすと、再び剣を握りなおした。規則的な音を立ててその肉を切り裂き、踏みつけていく。汚らしい赤黒い血飛沫を浴びながら、その表情はやはり異様なほど冷たかった。
その光景をぼぅっと見つめながら、ヒルダは改めてゆっくりと辺りを見渡してみる。
何もなかった。ジークフリードが倒した魔物達の死骸も、二人で協力してやっとの思いで倒したピクシー達の死骸も、その戦いで負った生傷も。彼との境界線を乗り越えた証が跡形もなく。
最初から最後まで、ヒルダはピクシーの幻影に嵌っていた。彼女の願いを具現化させ、幸せ気分で森の奥までついてきたところを頃合良く殺すつもりだったらしい。ピクシーの常套手段だった。
そんな姑息な罠に嵌った平凡な人間と、幻影に惑わされず一人森を歩きピクシーを一瞬で切り捨てた非凡な存在。
彼に近づくことなどできなかった。
「……」
ヒルダはいつの間にか地面に転がっていた槍を手に取っていた。
ふらふらと頼りない足取りでジークフリードの隣に並ぶと、ピクシーの肉片に向かって無心に槍を振り下ろす。ジークフリードは一度だけヒルダを横目で眺めただけで、何かを語りかけてくることはなかった。
彼女の願いの成れの果てが、不愉快な感触と共にグチャリと潰れた。
突拍子もないヒルダの発言に、目の前のジークフリードは表情を一転させ瞠目する。
「今のあなたが、私の力を借りようとするわけがないもの」
パラリ、パラリ、と。望んだ世界が剥離していく。
常人とは一線を画す英雄ジークフリードが誰かの力を借りるはずはない。だから彼は彼女に頼ることは二度となく、もう背中を預けられるような仲間ではない。前方の瞳はそう語っている。
最初から理解なんてできるはずがなかった。英雄となった彼は不老不死となり人知を超えたのだ。同じ理由から、彼が彼女のもとへ戻れるはずもない。
彼と彼女を隔てる境界線は理屈ではない。ただ変えられぬものとしてそこに存在してしまった。本能で悟った、絶対的な壁。
「何言ってるんだ、ヒルダ! 目を覚ましてくれ!」
霞はもう心を覆わなかった。
代わりに乾いた悟りが彼女の身体に染み渡っていく。
「願っても無駄。頑張っても無駄。二度とシグルスは帰ってこない」
そう呟いたところで、ヒルダの肩を掴んでいたジークフリードから表情が抜け落ちた。見慣れた顔が泥のように崩れ、優しい瞳が溶けていく。醜い顔をした赤黒い魔物が瞼のない瞳を光らせて、ジークフリードだったものから顔を覗かせる。
もはや人の顔とは呼べないそれは、力の抜けたヒルダの身体を引き寄せ大口を開いた。粘着質な音が聴覚を占めて、同時に喉元からむわっと押し寄せた血生臭い吐息が彼女の鼻を掠める。今にも自分が食われるという瞬間を他人事のように観察しながら、ヒルダは理解した。
シグルスが帰ってくるなんてありえない。
「シグルスはもう、どこにもいないから」
何かが斬られる鋭い音がした。
いつの間にか距離を詰めていたジークフリードが彼に化けていたピクシーを後ろから斬り捨てた。奇声を上げて地面に倒れこんだピクシーに突き飛ばされるような形で、ヒルダは二、三歩後ずさった。
ジークフリードはまだ息の根があるピクシーを見下ろすと、再び剣を握りなおした。規則的な音を立ててその肉を切り裂き、踏みつけていく。汚らしい赤黒い血飛沫を浴びながら、その表情はやはり異様なほど冷たかった。
その光景をぼぅっと見つめながら、ヒルダは改めてゆっくりと辺りを見渡してみる。
何もなかった。ジークフリードが倒した魔物達の死骸も、二人で協力してやっとの思いで倒したピクシー達の死骸も、その戦いで負った生傷も。彼との境界線を乗り越えた証が跡形もなく。
最初から最後まで、ヒルダはピクシーの幻影に嵌っていた。彼女の願いを具現化させ、幸せ気分で森の奥までついてきたところを頃合良く殺すつもりだったらしい。ピクシーの常套手段だった。
そんな姑息な罠に嵌った平凡な人間と、幻影に惑わされず一人森を歩きピクシーを一瞬で切り捨てた非凡な存在。
彼に近づくことなどできなかった。
「……」
ヒルダはいつの間にか地面に転がっていた槍を手に取っていた。
ふらふらと頼りない足取りでジークフリードの隣に並ぶと、ピクシーの肉片に向かって無心に槍を振り下ろす。ジークフリードは一度だけヒルダを横目で眺めただけで、何かを語りかけてくることはなかった。
彼女の願いの成れの果てが、不愉快な感触と共にグチャリと潰れた。
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