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三途の川を渡る電車

ジャンル: その他 作者: そばかす
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第16話

「立ちなさい!」
 ぼくは自分でも驚いたことに駆け戻っていた。
 シンヤの手を持つ。
 が――同時に、あの例の黒い触手を伸ばしてきたのだが同時だった。
 その攻撃は、ぼくの腕にまとわりついた。
「痛っ!」
 強烈な痛み。
 あの近所に生えていたよく指を切った草にそっくりな痛み。なぜかナイフで切ったよりも痛かった不思議な痛み。
 その気配が、右手首に走る。
 ぐるりとぼくの腕を掴むようにしている触手を、ぼくは振り払う。
 それは触手というよりは、ロープかなにかのように力は別段こもっておらず、簡単にはずれた。
 だが。ぼくの手首には赤い傷ができていた。
「逃げるんだ!」
 ぼくは珍しく口調が乱れ、少年の手を左手で掴んだ。右手は痛みに震えている。……なるほど。あの筋骨隆々としたギャングが恐れるわけだ。正体不明の怪物から一撃をもらうと、心まで縮み上がるものらしい。
「うん!」
 ことのほか素直に、シンヤはうなずいた。
 ドアを固定しているのはギャング。
 さらにその向こうのドアはクロスが押さえてくれている。
 ぼくらは二重の扉を連続して抜けた。
 クロス、ギャング、ぼくとシンヤの四人は、隣の車内の床にぶっ倒れた。それくらい無茶な走り方と通り抜け方をした。
 次に、ストリートが連結部のドアを閉じた状態で押さえた。
「まあ無駄じゃろうがなあ」
 そうぼやきながら。
「あ! 消えてく!」
 ピュアの声がして、ぼくは顔を上げたが、倒れた状態からは駆け抜けた通路にいるであろう怪物がどうなったのかは見えない。
 両手をついて、首をうしろにひねっているギャングもクロスも、怪物は見えていないだろう。だがピュアの声を聞いて安堵したらしかった。
「ふぅ……どうやらあのモンスターには出現時間に制限でもあるらしいなあ」
 ギャングの声。彼の顔を見ると、スキンヘッドの頭から額にかけて、汗がびっしりとはりついている。怪物が現れているにも関わらず、扉を開けた状態で固定して連結部にいたのだ。たいした胆力だった。
「なるほどなあ……ありゃ、めっちゃ怖いわ! この『ロリコンどもめ!』って感じで」
 クロスのジョークの意味がわからなかったらしき、ストリートは両手で押さえていたドアから手を離した。そのままふらふらと座席にまで歩くと、どっかりと奥深く腰を下ろした。よっぽど緊張して疲れたらしい。

「……ありがとう。お兄ちゃん」

 ふいに、ぼくの右隣から声がした。ぼくが左手で手を引き、右手を回してかばうように抱きかかえて、床に倒した子供だ。
 彼はぼくの右手首に走る傷を見て、顔をしかめた。
「すごく痛そうだね」
「…………」
 ぼくは――
 ぼくはさ……
 このとき、ただ茫然としていた。
 『ありがとう』
 たった一言。
 その一言に感動していた。
 はたしてぼくのこれまでの人生に、心から「ありがとう」などといわれたことはあっただろうか?
 〝サンクス〟なんてあだ名をつけられるほど、ぼく自身はたくさんの人に、毎日のように、毎時間のように、毎分のように、「ありがとうございます」と繰り返していた。
 けど。
 いうばかりで、いわれたことなどなかった。たぶんこれまでに一度も。
 ありがとう。
 そういい続けたぼくは――もしかしたら、「ありがとう」と逆にいって欲しかったのかもしれないと今気づいた。
 ほんのさっき気づけた。
 ずっと気づかなかった。
 ありがとうと繰り返すたびに、まるでちょっとずつ自分の頭の中に靄がかかり、自分の感情に霧がかかるような、曖昧になったいく〝自分〟がいた。
 その霧が晴れた。
「こっちこそ、ありがとう、シンヤ」
 きっとなにがありがとうなのか、シンヤはわからなかったろうけど、分厚い眼鏡をかけているのがもったいなく思えるほど、少年らしい、小学生らしい、いい笑顔を浮かべた。
「立てるかい?」
「うん」
 ひざをすりむいたようだったが、シンヤは気にした様子もなく、立ち上がろうとした。
 ――その瞬間、あれ? とぼくは違和感を覚えた。
 彼の体に回していた右腕――あのケガをした手首のほうの腕が、だらん、とまるで物のように動いたのだ。ぼくは自分では腕を彼からあげようとしたつもりだったが。
「……あ、あれ……?」
 ぷらぷらと揺れるぼくの腕は、普通だ。ただ赤いリストバンドのように手首に傷があるだけ。けど、痛みもないそこには、感覚さえもなかった。まるで神経が通っていないかのように。痛みを感じる神経も、運動するための神経も。骨折したり、麻酔したときに似たような感覚を味わったことがあるが、ここまで自分の肩からつながった部位が、まるで他人のものか、ただの物のように感じたのは初めてだった。
「……あの、みんな……。ぼく、腕が動かないんだけど」

「これで、悪意ってのは証明されちゃったね」
 気の毒そうな顔でぼくを見つめるシンヤ。
「本当ならぼくがそうなっていたのかもしれないのに」
 ぼくら六人は座席に座っていた。三人と三人。
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