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彼が恋する理由

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: 中野安樹
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雨が彼から奪い去る

声がする。穏やかで心地よく、でも時に厳しく響く張りのある声だ。時々、生徒らしき若い声も聞こえるが、彼の声は生命力に溢れ、全くひけをとらないくらい伸びやかな声をしている。賑やかな生徒の足音と話声が階段あたりに響くようになると、午前の部が終了だ。若者らしい賑やかな笑い声が一段落付くと、さっきまで厳しくやさしい声の主があくびをしながら、やってくる。俺がこの一年間、片思いをしている塾講師は、毎日昼休憩をとりにやってくるのが日課なのだ。
「お疲れ、先生」
「もう、先生はやめてくださいっていってるでしょう」
怒っているような口調だか、目元は笑っている。
「マスター、いつもの」
彼はニコニコしながら、席に着き、こちらのようすをうかがっている。彼の指定席と化しているカウンターの隅は、コーヒーを入れていると自然と目が合う位置にある。さっそくランチプレートの注文だ。よく聞く言葉なのに彼に言われるとなんだかくすぐったい気持ちになり、照れてしまう。せっかく、カウンター席で話ができる位置にいるのにバカみたいに無言になってしまって、もったいない。
…いつもの、ね。大体いつも、ホットケーキに、コーンスープ。甘さがたまらないお子さまメニューだ。んで生クリーム多めっと。
しっかり温めたフライパンにバターを入れる。焦がさないように、バターを溶かし、タネを入れる。すると焦げ付きやすいがバターの香りがたまらないホットケーキが出来上がる。料理を作っていると自然といつもの調子が出てきて、息が出来るようになる。顔、やっと見れるかも。
「はいよっ」
トレイに行儀よくいつものメニューを押し込める。
「ほんと、これ絶品。しかも、波多野さん絶対笑わないでくれるから、気兼ねなく甘いもの食べれるしさ。ガキどもにばれたらネタにされるって。」
「食べるか、話すかどちらかにしなって。俺もソレも逃げないからさ。あぁでも、冷めたら旨さ半減か。」
…他愛ない話が出来たってだけでこんなドキドキするなんて。ほんと、どこの乙女なんだか。
そうして、しっかり彼とじゃれながら、今日も見張っている左手の薬指に目をやる。
……はいはい。今日もお宅の旦那さんは潔白ですよ。
つい、見たこともない奥さんへ報告してしまう。そう、オレは、気がついたときにはすでに他人のものだった既婚者に、片思いなんていう不毛な恋に堕ちているのだ。一年前に、喫茶店の上の階にやって来た、爽やかな笑顔の青年に年甲斐もなく一目惚れをしてしまったのが運のつきだ。彼の左手の薬指に気づいてなかった1、2ヶ月はそりゃもう幸せだった。ノンケかも知れないが、もしかしたらという甘い欲望がチラチラよぎった。彼と親しげに話すようになり、カウンター越しの距離になれた頃、たまたま指をテーブル上に組んでいて、光るソレに、気づいたのだ。普通なら、速攻で俺なんてどう?なんてネタにするわけだけど。相手が真面目そうな彼じゃ、ふられたも当然で。つい、口に出来ず今に至る。今までいい加減な恋愛ばっか選んで来た、ツケがいっぺんに来た、って気がする。こんなに真面目に恋心募らせるなんてどうしていいかわからない。

…ノンケと不倫なんてオレの王道じゃないか。相手はいつだって、刺激的な恋愛をさせてくれるワンナイト。彼らにとっては、オレは遊び相手にしか過ぎない。ちょっと、普通をわすれさせる火遊びだ。今さら、遊びがイヤな訳じゃないけどさぁ、爽やかなこの笑顔をひどく歪ませたい衝動が、今だってひどく甘くそして強く駆け巡るのだから。

「波多野さん疲れてるみたいだから、オレ行きますね。ごちそうさま。」
話の途中から、妄想で上の空だった俺に気を使ってか、いつもより少し早く職場に戻って行った。軽快な足音が、ドアベルと共に上へとかけ上がって行く。
…今日も逢瀬は終わりか。ちえっ。
なんだか、かえって物足りないが、たまにごほうび感覚でもらえる優しい気遣いが、甘く胸を焦がすのを感じる。思わず、思いの丈を伝えたくなるけど、苦しくてもどかしい、ナニよりむず痒い。まさに今、俺。中坊みたいな恋をしている。
「やべっ、計算忘れてた」
喫茶店の経営は、好きな調理や接客だけじゃないのが、めんどくさいところだ。モタモタしてたらあっという間に一年がたって確定申告の季節が来てしまう。だからコツコツ毎日夜、営業時間が終わるとこうして収支の計算をしている。自宅でしなくなったのは、上の階の塾から帰る彼の足音がわかるようになったから。今日もお疲れさまって心の中で呟くのが日課だ。今日もお疲れ様と、心で呟くのと同時に突然の激しい雨が降ってきた。そして、盛大にこける音。びっくりしてドアを開けると、雨に濡れた階段から、滑った彼が苦笑いしているところだった。
「カッコ悪いところ見られちゃいましたね」
あまりにも無惨に濡れ鼠になっている彼が気の毒でタオルと着替えを渡しながら入るように促した。
「すげぇ雨だしな」
外はまだ、激しく雷と雨を降らせていて止む気配はない。お陰で沈黙が気にならないぐらいだ。
「奥さん心配するんじゃない?」
それでもやっぱり薬指が気になるセイでとっさに口からこぼれ出てしまった。即答するのかと思ってたのにやけに遅いしばらくしてあぁと、間延びした答えが帰ってきた。
「そっか。コレ、言ってなかったよね。」
ヒラヒラ降ってる顔は、いつもの好青年と少し雰囲気が違って、意地悪そうに歪んだ。
「コレね。虫除けと、箔付け」
さらに、ニヤリと歪ませた。
「女子高生人気が高くて、ヤバイこと起こす前に、適当なのつけとけって塾長に」
ケタケタ楽しげに笑う。
「ま、間違えは起こんないですけどね」

つづく。
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