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アネモネをキミに

ジャンル: その他 作者: koronn
目次

アネモネをキミに

気の遠くなるような悠久の時を生きる。
それは有限のある者にとって羨望の的となるだろう。
仙人は決して老いぬわけではない、ただゆっくりと周囲の人の一生を老いとして生きていくのだ。
死なぬわけではない、ただ人より老衰が遠すぎるだけ。

「それは悲しいことだな…」

病床につく老人が寂し気に言った。
こやつの名は姫昌。西伯候として殷に仕えていた者だ。
決して若くはないがトラウマのせいで今では小鳥のえさ程でしか食事が喉を通らず、衰弱は日ごとに目に見えてきている。

「姫昌は仙道を羨ましくは思わぬのか?」

ふいに口にしてしまった質問にわしは一瞬で後悔した。
残酷な質問ではないか。姫昌にはその適正はない。
ただでさえ死が差し迫っている者に叶わぬ希望を抱かせてしまうのは、残酷以外の何ものでもないだろう。
仮に適性のないものにそんな力を宿せる力を得たとしても、それはもう自然の摂理から大きく外れた者にしかなりえない。そんなこと姫昌は決して望まないと目に見えていた。
『すまぬ』と言おうとした時、姫昌は穏やかな笑顔でこう言った。

「私は…家族とともに生きたいと思っています。」

胸にずしりと重たいものが乗った気がした。
それでよいと頭でわかっているのにも関わらず、なぜ自分がショックを受けたのかわしにはわからなかった。
姫昌はそんなわしの気持ちを知ってか知らずか、弱々しいながらも穏やかな声で語るように言った。

「私がもっと若ければ…答えは違っていていたかもしれません。しかし私には多くの妻や子供、そして民がいます。その者たちと共に歩み育ってきました。
私は弱い。伯邑考が私を置いて先に旅立ってしまった事だけでも、気丈にしていなければすぐにでも後を追ってしまいそうになるのだ。
今更仙道になったとして、この気持ちが晴れるわけではないだろう。寧ろより一層、共に生きた者に置いて行かれるというのは辛く悲しくなるだけ…」

風が緩やかに間を過ぎ去っていく。
わしは、わしには経験したことのない想いや経験が詰まった姫昌の言葉に冗談をいう口すら挟めなかった。
わしよりも生きた時間は短い姫昌。しかしその時間の濃さはわしの何倍もあるように思えた。
仙道じゃない者の命は有限。
だからこそ精一杯人は生きると誰かが言っていたような気がする。

ちらりと姫昌がこちらに目を向けた。その視線にやましい事は何一つないはずなのにドキリとしてしまう。
まるで親が子に対して向けるような眼差し。わしが遠い昔に向けられていた懐かしいものだった。

「きっと太公望も妻や子を持つようになればわかるだろう。いや妻子ではなくとも共に生き、情を、愛を交わしたものが現れれば…。私は贅沢者だ。今でも十分だ。仙道になるには私の人生は恵まれ過ぎた。もっとも黄飛虎のような天然道士に生まれていれば、もっとモテていたかもしれんな。」
「もっと妻子を増やす気か、姫昌。すでに100人もおるのだからそれは贅沢すぎであろう?世の男に恨まれても知らんぞ。
それにわしにはもう色も恋もなかろうて、年寄りをからかうでないぞ姫昌。不器用すぎて李靖のように家族も夢もとは生きられぬよ、今は西岐と使命で手一杯だ。」
「いやいや、太公望は十分若い道士と聞きました。先は長い、いつかそんな相手が現れるやもしれませんよ。」

姫昌の冗談のおかげでその場の雰囲気はだいぶ柔らかくなったが、わしの喉には乾いた笑いが張り付いているように感じられた。
なぜ?いっそ姫昌が望んでくれたならと思えてしまうのか。
確かに姫昌という器は王として素晴らしい。
この者なら良い統治をしてくれるだろう。わしの望みでもある仙道のいない世界になったとしても…。
しかしその為に姫昌が仙道になったとしたら、わしの目標にとって本末転倒でしかない。
有限である人が人の世界を作る、それが最善なのだ。だからこれは気の迷いから来た過ちだとわしは自分を戒めた。

その後は姫昌の体調を見つつ、他愛のない会話を更に二、三度交わした。
もう遠出の出来ぬ姫昌にとって外の変化は家臣からの会話でしか推し量れぬので、出来るだけ巷の様子などを話した。
先ほどの気まずい質問をかき消すように、塗りつぶすように。

最後に悪い冗談を言ってすまなかったと言って部屋を出たが、重いものが外れることはなかった。
扉を閉めた向こうでかすかに姫昌の声が聞こえた。風の音ではっきりと聞く事はできなかったが、『すまない、太公望…。』と言われたような気がした。
何を謝ることがあるのだろうか。しかしその声の意味にわしは何も言えず、ただ聞こえぬふりをする事しかできなかった。

この数か月後、姫昌は息を引き取った。
わしは次の道を姫発に示しながらも、どこかぽっかりと気持ちに穴が空いた気持ちになっていた。
悲しくないわけではない。かといって涙を流せるほど感情的にもなれなかった。姫昌から託された想いを必ず成し遂げようという気概はあるものの、この虚無感が拭われることはなかった。
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