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ペパーミント

原作: 名探偵コナン 作者: 新名かおり
目次

それはまるで絵本のように

「毛利小五郎を探れ」
 ジンからそう命じられたのは、ある5月のことだった。ジンはシェリーを探しているはずだ。どうやらあの有名な名探偵の毛利小五郎がシェリーと関係しているらしい。
 そういう事であれば、このネズミのような男ことバーボンにお任せください、ジン。それに、僕は何としてもシェリーの居場所を見つけ出し、公安で身柄を保護する必要がある。このジンからの命令は、またとないチャンスだった。

 毛利小五郎からシェリーの情報を引き出すには、まず頻繁に事務所に出入りできるくらいの親しい関係を作る必要がある。
 そのためには、疑惑を抱かせないごく自然な出会いが必要だろう。情報を引き出すには、相手を警戒させないことが重要だ。

 僕は張り込みを開始し、毛利小五郎の行動パターンを探ることにした。彼はかなりの頻度で事務所の下に店を構える『喫茶ポアロ』へ通っているようだ。
 休日の朝は家族でモーニングを食べに。平日の昼下がりはコーヒー1杯でマスターとだべりに。娘の帰りが遅い夜は夕食を済ませることもある。ツケも相当溜まっているようだ。

 毎日よく飽きないねー…と半ば呆れていた3日目の夕方。ポアロで談笑する毛利小五郎を張り込み中に、ふと妙案を思いついた。喫茶ポアロに潜入すれば、毛利小五郎に近づく良い口実ができるではないか。

 毛利小五郎は常連客であり、いつもポアロではゆったりとくつろいでいる。窓ガラス越しに見える限りでは、マスターやもう1人の女性店員とも親しげに話している様子だ。リラックスしている環境下では相手の懐に入り込みやすくなる。おしゃべりが弾む相手に対して口を滑らせるということもあるだろう。
 ここでアルバイトして2階の様子を探りつつ、毛利小五郎に探偵弟子入りを志願するのはどうだろうか。我ながら名案だ。

 
 名案を思いついたそのとき、ポアロのドアベルが静かに鳴り、内側から扉が開いた。

 音の方へ目を向けると、出てきたのは店内で毛利小五郎と親しげに話していた女性店員だった。20代前半だろうか。シンプルなタートルネックのサマーニットにスキニーデニムを着用している。年齢の割に服は地味目だ。栗色のセミロングの髪におでこを広く出している。どこにでもいそうな、平凡で素朴な感じの子だ。

 潜入するなら情報が多いに越したことはない。彼女と親しくしておけば毛利小五郎にも近づきやすいだろう。何か有用な情報が拾えないだろうか。とっさに考えをめぐらせ、彼女を鋭く観察しようとした。
 しかし、すぐに僕の脳細胞は機能しなくなった。まぶたの内側も、周りの世界も、一切の動きを止めてしまった。


 その光景は、絵本の1ページのようだった。


 まるで僕に開かれるためだけにずっと前から用意されていたような、肌触りの良い布で大切に包まれていたような、優しく紡がれた情景がそこにあった。

 女性店員は、少し前からそこで待っていた野良の三毛猫にミルクをやり、背中を撫でて微笑んでいる。この距離ではよく聞こえないが、何か話しかけているようだ。
「たい…今日は遅…マスターが…バニラアイス…ふふっ…」
 何故か瞬きさえできず、目を離せなかった。その1ページが脳裏に焼き付いて、頭が真っ白になり何も考えられなかった。
 ずっと昔、胸の奥に抑えつけた苦味が込み上げてくる感覚があった。頼む、やめてくれ。それは見えないところに固めておいたはずなんだ。


 先ほどより大きな音でドアベルが鳴り、世界の秒針が再び動き始めた。
「じゃあなーアズサちゃん!ごちそうさまー」
 毛利小五郎が手をひらひらさせながら、2階の自宅へと上がっていく。
「はい!ありがとうございました!」
 猫を撫でてしゃがんだまま顔を上げた『アズサちゃん』は、夏の花のような笑顔を上階に住む常連客の背中へ送っていた。


*


 自宅で熱いシャワーを浴びながら、毛利小五郎への接触について考えていた。よし、毛利小五郎に近づくため喫茶ポアロに潜入しよう。
 …そうすると『アズサちゃん』は同僚になるのか。あの時どうして僕は不覚にも、あんな感覚に陥ってしまったのだろう。彼女は猫が好きなのだろうか、すげー話しかけてたしな。バニラアイスがどうとか。猫は絶対理解していないのにな。毛利小五郎の後ろ姿にずいぶん屈託のない笑顔を送っていたな…。

 無意識に『アズサちゃん』の笑顔を思い出していた。頬が緩んでいる自分に気づき、乾いた笑いがこぼれる。先入先の人間の趣味嗜好などに思いを馳せるなど、馬鹿馬鹿しい。それはただの情報であって、決して口角が上がる類のものではない。

 …まさかな。

 彼女の柔らかい心が眩しすぎて、まだ世界が優しかった頃の感覚を少し思い出しただけだ。きっと少しだけで変わってしまうだろう、こんな夢のような気持ちは。すぐに嘘まみれの世界に飲み込まれてしまう。

 なんだか勝手に弱いところをえぐられたような気がして、妙にむしゃくしゃした。まとわりつく膜のようなものを少しでも落としたくて、身体を洗うスポンジに力を込めた。
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