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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第29話

 だが、ここのところは毎日一緒に摂っていた朝食の席で、不穏な空気が流れた。
「そんなに俺は道場に不要なのかよっ?」
 直次が「今日は久しぶりに一日中稽古をする」と言ったので、栄が「老人ホームへ行かないのか?」と訊ねたことに対する返事だった。
「稽古をサボって、他所に行っていて良かったのかっ?」
 直次は、自分でもここまで怒ることではないと、心のどこかでは思っているのだが、止まらなかった。後から後から言葉が溢れてくる。
「何のために、子供の頃から、みんながテレビを観たり、遊んだりしている時に、ただひたすら稽古に打ち込んできたんだよ!」
 直次の脳裏には、冬にあかぎれした手足や、夏に全身汗まみれになったことが焼きついていた。
 いつもならただ黙ってやり過ごす直次の母だったが、今日は違った。
 巌のように固い印象の、男性的な顔立ちを歪めて、
「ただ訊ねただけではないかっ! なんだその態度はっ!」
 女性とは思えない一喝だった。
 直次は、一瞬、気圧されるされたものの、言い返した。
「なんだよ、やけに機嫌が悪いじゃないか? もしかして資金繰りがまったく上手くいってないのか?」
 資金繰りのことは、売り言葉に買い言葉で言ったに過ぎない。好地山涼子がそのことを何度か指摘していたし、頭に残っていたから、そのまま言っただけだった。
 だが、それは、図星だったらしい。
 日向栄は沈痛な面持ちをした後、無言で席を立った。
 直次は決してそこまで罵倒する意図はなかったが、後の祭りだった。

 古武術道場で、型の稽古をしていた直次は、動きを止めた。汗の雫が、とめどなく顔を流れ落ちていく。
 あの朝食での口論からもう一時間以上経っている。いつもなら、何を置いても稽古を始める母が、よりによって直次がいるのにやって来なかった。
(こんなこと初めてなんじゃないか?)
 これまでの記憶をひっくり返してみた。そして、気づいた。
(いや……違う。初めてじゃない。……そうだ。資金繰りに困り初めてからは、あの日向風姿流古武術の師範であることが第一である母がたびたび稽古を休むようになっていた……)
 女だてらに、武術、まして古武術という、かつては男性にしか許されていなかったものを、学び、師範という立場になったのは容易なことではない。未だに古武術の師範ともなれば、流派を問わず、普通は男だ。
 だからこそ、実力をつけた。女であっても男に負けないように。事実、かつて道場にいた空手経験者の男を、あっさりと破っている。
 謝るべきかな。いやしかし……。直次は、型の稽古を再開しつつも、その悩みが常に浮かんでしまっていた。
「あら? 今日も不在かしら? ……ほんとにもうそろそろ、この道場も終わりね。師範が稽古そっちのけで、金集めに奔走してるなんて」
 声に振り向くと、好地山涼子だった。もうこうやって会うのは三回目になるが、相変わらず癇に障るしゃべり方だった。
「母ならいるぞ」
「あ、そう……」
 まったく直次個人には興味がないらしく、さっさと道場を離れて母屋のほうに歩いていった。母屋で呼ばずに、すぐにこちらに来たのは、この道場の日常をよく知っているといっていい。本当なら今日もこの道場には師範も直次と一緒にいたはずなのだ。
 直次はしばらく汗も拭かずに、ただ立ち尽くしていた。
 自然と足は、道場の奥にある、母屋に繋がる渡り廊下に向かって進んだ。進むうちに、自分が自然といつのまにか足音を殺していることに気づいた。
 玄関に行くまでもなく、手前の角で、ふたりの言い争う声が聞こえてきた。
「この日向風姿流の古武術道場はお売りしないといったはずです」
「あまりそっけない態度ばかり取ってると、痛い目を見るかも知れないわよ? 今の買取価格は、こちらが頼む側だからこの価格なの? わかる? ――つまり、あなたが逆に『どうかうちの古武術道場の土地を買い取って下さい』ってうちに頭を下げて来ても、こんな辺鄙な土地、誰もこんな価格で買わないわよ? わかってるぅ?」
 いつにもまして高圧的な態度だ。
 それに対して、母は、
「この土地も道場も、いいえ、門さえも、古くからある由緒正しいものなのです。売るわけにはまいりません」
 直次はかすかに違和感を覚えた。
 母が本気で追い返す気なら一喝するはずだ。なのに、そうしない。どこか弱腰な態度だった。
 相手もそれがわかっているらしく、雑談を振ってくる。
「長男は世界武者修行の旅から帰って来ないし、弟は根性なしのヘタレ……こんな道場に未来があると思ってるの?」
 さすがにこのあからさまな挑発に対して、母は一喝した。
「お引き取り下さいっ!」
 思わず直次の背筋がぴんと伸びそうになるほど怖い声だった。
 好地山涼子のほうはそれでも余裕の態度を崩さず、
「わかったわ、今日は引き上げる」
 玄関の戸を開ける音がしたが、途中で止まった。
「そうそう、わたしの名刺、ちゃんと持ってる? 以前、渡したやつ」
「名刺を持っていようと持ってなかろうと関係ありません」
「いいの? いざという時、わたしを頼れないと困るんじゃない?」
 それから無言だったが、しばらくすると戸を開けて閉める音がした。おそらく数秒間は睨み合っていたのだろう。
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