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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第28話

「それほど難しい資格じゃないわ。そりゃ、もちろんある程度の勉強は必要だけど、難関ってわけじゃないから。よかったら、私の私物だけど、市販のテキストを貸しましょうか?」
「必要ないッス。もうやめますから」
「やめるって、やめてどうするの? 次の仕事はあるの? 介護の仕事の現場なんてどこもそう変わらないわよ?」
「そうじゃないッス」
 他の四人もうなずく。
「介護の仕事って、だりーから、もう二度とやんねぇってことッス」
 その後、いろいろと事務長は話しかけていたが、ほとんど生返事が返ってくるだけで、もう話し合いにはならなかった。
 そっと寿美花はその場を離れようとした。そのとき、自分のすぐそばにもう一つ人影があったことに気づいた。
 留吉老人だ。車椅子に乗っているため、視界から外れていた。
「最後まで聞かんのか?」
「……はい。……おおよその見当がつきますし」
 介護の仕事の離職率は高い。これまでに寿美花は何人もの人間がやめていくところを見てきた。ああいうふうな雰囲気になって、踏みとどまって、きちんと仕事をこなした人というのを寿美花は知らない。
 ふたりは静かにその場を離れた。充分離れた後、留吉老人がぽつりと呟いた。
「名称が変わっても、仕事は変わらんからな」
 どうやらホームヘルパー2級が、介護職員初任者研修と名称を変えたことを言っているらしい。一本化することで、介護の仕事を目指す人にとってわかりやすくするという意図があるようだが、内容が変わるというものではないので、留吉老人の指摘は正しいといえた。
「そんなこと……わかってるんです」
 寿美花は力なく呟き、留吉老人を見た。。
「そう睨むな……それより、ちょいと注意しておいたほうがいいぞい?」
「えっ?」
「あの五人がやめたことの影響が他に出んとも限らんからのう」

 この留吉老人の有り難い忠告は、活かすことはできなかった。あまりにも早くに、五人が退職するということの余波が出たためだった。
「あの五人はやめてよくて、どうして私達はダメなんですかっ?」
 唾を飛ばすように勢い込んで、離職を希望する介護職員の代表者の女性が言う。今まで、なだめてなだめて、仕事をしてもらっていた職員たちだ。
 その彼女の背後には、彼女と意見を同じくする介護職員たちが集まっている。いつぞや退職届を片手にしているのを、寿美花が見かけた者たちだった。
「……で、ですから……」
 事務長は、いつもの謹厳実直な態度を崩さず、理論的な話し合いに持ちこもうと奮闘していた。だが、成功しているとは言い難い。
 まるであのたくさん入ってやめていった男たちのせいで、勢いがついてしまったかのようだ。決壊したダムを寿美花は連想した。堤防となろうと、事務長や施設長は懸命になっているが、もうすでに五名という退職者を出し、とっくの昔にダムは壊れてしまっていたのだ。
 完全に裏目に出た。寿美花は、青くなった。もし、あの五人のことがなければ、小康状態を保って、やめる、続けるの押し問答で、まだしばらくどうにかなったかもしれない。
 だが、五人一度にやめたことで、勢いがついてしまった。
 そもそも、もうすでにあの五人の退職を受け入れている状態で、彼女たちだけを無理に引き止めるというのは無茶な話だ。
 事務長もここまでは予想できていなかったらしく、悔しそうに唇を噛みしめている。おそらくこうなることを予想していたら、あの五人をもっと引き止めて、一人ずつやめさせていったことだろう。
 結局、五人の退職をすでに受理していたことが、決め手となり、退職を希望していた彼女たちの意見をすべて受け入れることになってしまった。
「もう……この老人ホームはおしまいですよ……施設長……」
 嘆くよりも呆れるかのように、事務長は呟いた。
 施設長も、放心したように、ぼうっとしている。
 寿美花は、どうすることもできず、ただそんな様子を見ているだけだった。
 更衣室の前に行くと、ドアが開いていた。中には誰もいない。不用心だったが、そんなことを気にも止めないほど、荒廃してきているのかもしれない。
 何気なく見ると、そこにはあのやめていった五人のロッカーの名札が見えた。
 その名札を貼ったのは寿美花だった。
 これから少しでも悠寿美苑がよくなりますように、と願いを込めて、一枚一枚名札をつけていったのを思い出した。
 ふらりと、力なく幽霊のような足取りで、更衣室に入ると、自分がつけた名札をひとつずつ剥がしていった。
 手の中には五枚のもう必要のなくなった名札が、目の前には名札のないロッカーがずらりと並んだ。
 寿美花は、更衣室の鍵を内側から掛けると、しゃがみ込み、声を殺して泣きだした。手に握ったくしゃくしゃになった名札が、涙に濡れた。

 ここ最近、といってもほんの数日のことだが、日向直次と、その母、日向栄の関係は良好になりつつあるように思えていた。ひとつは、寿美花と出会い、老人ホームに通うことで、直次が成長したため。もうひとつは、そんな直次の成長を好ましく思い、栄は師範としてうるさく言うことをしなかったためだ。
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