欠片
沢村が自身の「もやもや」に頭を悩ませ、御幸に直接聞いてもらおうと決意した翌日、早速好機は訪れた。
「自分は捕手です。一軍に上がっても捕手しかできません」
沢村の後輩である奥村が、監督の命令を断ったのだ。チームメイトはその時の状況に、恐れおののいたが、沢村は思わず笑ってしまった。
御幸はこの場にはいない。これは面白いネタが出来たと、心が躍った。
練習が終わり、いつも通り夕飯をかき込む。そして今日も隣にいた春市が問いかけてきた。
「栄純君、悩みは解消された?なんだか、すっきりしてるね」
「ん?あぁ、解消はしてないけど、もやもやの正体が判ったってかんじかな」
「うん。ならよかった」
「昨日はありがとな!悪い、ちょっと先に行くな」
そう春市に断りを入れ、食堂を飛び出した。
御幸は既に食堂におらず、彼と同室である沢村の同級生と奥村は、まだ夕飯を取っていた。
「今だ」と内心呟き、一旦自室に戻って最近読んでいる野球の知識本を手に取る。そのまま慌ただしく、御幸の部屋に向かった。
自分が手に取った本は、野球の勉強本だが、もし御幸と話題が尽きたときに、助けになるかもしれない。
なにせ、今日は面白い話を終えたら、自分の「もやもや」を、打ち明けるのだから。
「あ、先輩、いたいた」
「おう、どうした」
御幸は自分のキャスター椅子に座って、スコアブックを開いていた。
いつも通りの笑顔で迎えてくれる彼に、沢村は許可もなく部屋に上がり込む。そしてその辺りに転がっていた座布団に座り、自分の部屋のように寛ぎながら、今日あった出来事を御幸の背中に向かって報告した。
「アイツの姿にはみんなビビってましたよ!俺もう笑っちゃって!」
「へぇ、そんなことがねぇ」
「そうっすそうっす!……」
話がひと段落すると同時に、沢村は急に、少しの緊張に襲われた。この話を終えたら、「もやもや」の正体を彼にぶつけてみようと意気込んでいたところだ。
「……」
後姿を見せている御幸に、話を振ろうとするが、喉に何かがつっかえるような感覚に襲われ、迂闊にも、黙り込んでしまった。
「……ん?」
不意に落ちた沈黙に、違和感をおぼえたのか、御幸が首だけを動かし、振り返ってくる。
「あ、ん、いや……」
「どうした?」
狼狽える沢村に、御幸はキャスター椅子をくるりと回し、体ごとこちらに向けた。
話を聞いてやるという先輩の姿勢に、沢村は冷や汗をかきながら、妙な緊張を振り払うために、空笑い声を上げる。御幸は不思議そうに、だが微笑みを湛えて、沢村の答えを待った。
沢村が目を泳がせていると、彼は手持ち無沙汰にミットを手に取った。手入れをするようだ。
「沢村、もし、何か悩んでることとか、思ってることがあったら、言えよ。お前には借りがあるからな」
少し横に向き、ミットを見つめながら言う先輩の表情は、どこか優しげだ。沢村は彼の表情に、軽く引き込まれた。まったく、端正な顔をしている。
しばらく見つめていると、気が付いたらその言葉を口にしていた。
「――先輩、もう、チャージはいらないんすか……」
滑るように喉から出てきた、「もやもや」の正体。少し驚いたようにこちらを見る御幸の表情。
何故か、自分の心臓の音が、耳に響いて煩かった。
「……あぁ。そういえば最近してもらってなかったもんな。もう、大丈夫だ。俺も3年だしな」
先輩の目をまっすぐ見つめていると、すい、と視線を逸らされた。
「……そっか」
そのまま自分の机に向き直る御幸に、沢村は一定の距離を瞬間的に感じた。
「あ、そういえば、そろそろ奥村、戻ってくるんじゃないすかね」
「そうだな」
意識的に話題を逸らし、その場に寝そべる。手元の本を持ってきておいて正解だった。
「つか、御幸先輩、この本難しいんすけど」
「あー?あぁ、バカにはちょっと難しかったか」
またいつも通りの会話に戻ったことに、とりあえず胸を撫でおろす。他愛もない話をしているうちに、後輩が返ってきて、また空気も一変したのだった。
「ふぅ」
御幸の部屋を後にした沢村は、軽くため息をついた。
どこかで、突き放されたような気がした。もう、ただの先輩と後輩の関係に戻るぞと、目の前に一線を引かれたような気分だ。
別に、自分たちは何の関係もない。ただの先輩と後輩、それ以上でもそれ以下でもない。
「はい、この件は終わり!」
気になっていたことは聞いた。そして答えをもらった。もうこれで心の「もやもや」は無くなったじゃないか。
「よーし、明日からまたガンガンいっちゃうぞー!」
自室に入る前に、中庭で大きく背伸びをする。
「……」
でも何故だろう。先ほど振り切ったはずの「もやもや」は、まだ欠片を残しているようにも感じた。そして、その欠片は先ほど持っていた「もやもや」と、違う色を帯びているようにも思う。
「くそ……!」
慌てて頭を横に振る。
そんな欠片、気にしている場合ではない。
一刻一刻と、夏は近付く。野球以外のことで立ち止まってなんて、いられない。
沢村は、左手で心臓付近を勢いよく叩き、自分に気合を入れた。それと同時に、「もやもや」の欠片も、心の奥底にある宝物入れに封じ込めた。
沢村が部屋を出た後、御幸は上着を羽織って外に出た。バットを片手に、建屋裏手沿いの堤防を、階段を使って上る。
いつもひとりでバットを振れるこの場所が、一番集中できるのだ。
「ったく。アイツ……」
先ほどのことを思い出してひとり呟く。
まさか、「チャージ」を最近していないということに触れてくるなんて、思いもしなかったのだ。
「本当、ストレートすぎて、困る……」
やっと、自分の想いを封印して、3年生を迎えたというのに、まったく彼の素直なところに感心する。
御幸は堤防上から、室内練習場裏手、角地にある植え込みを見つめた。
ここら辺りからは、丁度死角になる場所。あの植え込みの陰は、いつも自分と沢村の、特等地だった。
「もう、しねぇって、決めたからな」
今は、この貴重な時間を、大切に過ごすしかない。自分の気持ちにケジメをつけるのは、夏を終えてからでいいでいいのだ。
自分にそう言い聞かせ、御幸はいつも通りの自主トレに励むため、バットを構えた。
――きっと、この気持ちが風化するその時まで。今は、彼と最後の夏を、全力で過ごそう……
「自分は捕手です。一軍に上がっても捕手しかできません」
沢村の後輩である奥村が、監督の命令を断ったのだ。チームメイトはその時の状況に、恐れおののいたが、沢村は思わず笑ってしまった。
御幸はこの場にはいない。これは面白いネタが出来たと、心が躍った。
練習が終わり、いつも通り夕飯をかき込む。そして今日も隣にいた春市が問いかけてきた。
「栄純君、悩みは解消された?なんだか、すっきりしてるね」
「ん?あぁ、解消はしてないけど、もやもやの正体が判ったってかんじかな」
「うん。ならよかった」
「昨日はありがとな!悪い、ちょっと先に行くな」
そう春市に断りを入れ、食堂を飛び出した。
御幸は既に食堂におらず、彼と同室である沢村の同級生と奥村は、まだ夕飯を取っていた。
「今だ」と内心呟き、一旦自室に戻って最近読んでいる野球の知識本を手に取る。そのまま慌ただしく、御幸の部屋に向かった。
自分が手に取った本は、野球の勉強本だが、もし御幸と話題が尽きたときに、助けになるかもしれない。
なにせ、今日は面白い話を終えたら、自分の「もやもや」を、打ち明けるのだから。
「あ、先輩、いたいた」
「おう、どうした」
御幸は自分のキャスター椅子に座って、スコアブックを開いていた。
いつも通りの笑顔で迎えてくれる彼に、沢村は許可もなく部屋に上がり込む。そしてその辺りに転がっていた座布団に座り、自分の部屋のように寛ぎながら、今日あった出来事を御幸の背中に向かって報告した。
「アイツの姿にはみんなビビってましたよ!俺もう笑っちゃって!」
「へぇ、そんなことがねぇ」
「そうっすそうっす!……」
話がひと段落すると同時に、沢村は急に、少しの緊張に襲われた。この話を終えたら、「もやもや」の正体を彼にぶつけてみようと意気込んでいたところだ。
「……」
後姿を見せている御幸に、話を振ろうとするが、喉に何かがつっかえるような感覚に襲われ、迂闊にも、黙り込んでしまった。
「……ん?」
不意に落ちた沈黙に、違和感をおぼえたのか、御幸が首だけを動かし、振り返ってくる。
「あ、ん、いや……」
「どうした?」
狼狽える沢村に、御幸はキャスター椅子をくるりと回し、体ごとこちらに向けた。
話を聞いてやるという先輩の姿勢に、沢村は冷や汗をかきながら、妙な緊張を振り払うために、空笑い声を上げる。御幸は不思議そうに、だが微笑みを湛えて、沢村の答えを待った。
沢村が目を泳がせていると、彼は手持ち無沙汰にミットを手に取った。手入れをするようだ。
「沢村、もし、何か悩んでることとか、思ってることがあったら、言えよ。お前には借りがあるからな」
少し横に向き、ミットを見つめながら言う先輩の表情は、どこか優しげだ。沢村は彼の表情に、軽く引き込まれた。まったく、端正な顔をしている。
しばらく見つめていると、気が付いたらその言葉を口にしていた。
「――先輩、もう、チャージはいらないんすか……」
滑るように喉から出てきた、「もやもや」の正体。少し驚いたようにこちらを見る御幸の表情。
何故か、自分の心臓の音が、耳に響いて煩かった。
「……あぁ。そういえば最近してもらってなかったもんな。もう、大丈夫だ。俺も3年だしな」
先輩の目をまっすぐ見つめていると、すい、と視線を逸らされた。
「……そっか」
そのまま自分の机に向き直る御幸に、沢村は一定の距離を瞬間的に感じた。
「あ、そういえば、そろそろ奥村、戻ってくるんじゃないすかね」
「そうだな」
意識的に話題を逸らし、その場に寝そべる。手元の本を持ってきておいて正解だった。
「つか、御幸先輩、この本難しいんすけど」
「あー?あぁ、バカにはちょっと難しかったか」
またいつも通りの会話に戻ったことに、とりあえず胸を撫でおろす。他愛もない話をしているうちに、後輩が返ってきて、また空気も一変したのだった。
「ふぅ」
御幸の部屋を後にした沢村は、軽くため息をついた。
どこかで、突き放されたような気がした。もう、ただの先輩と後輩の関係に戻るぞと、目の前に一線を引かれたような気分だ。
別に、自分たちは何の関係もない。ただの先輩と後輩、それ以上でもそれ以下でもない。
「はい、この件は終わり!」
気になっていたことは聞いた。そして答えをもらった。もうこれで心の「もやもや」は無くなったじゃないか。
「よーし、明日からまたガンガンいっちゃうぞー!」
自室に入る前に、中庭で大きく背伸びをする。
「……」
でも何故だろう。先ほど振り切ったはずの「もやもや」は、まだ欠片を残しているようにも感じた。そして、その欠片は先ほど持っていた「もやもや」と、違う色を帯びているようにも思う。
「くそ……!」
慌てて頭を横に振る。
そんな欠片、気にしている場合ではない。
一刻一刻と、夏は近付く。野球以外のことで立ち止まってなんて、いられない。
沢村は、左手で心臓付近を勢いよく叩き、自分に気合を入れた。それと同時に、「もやもや」の欠片も、心の奥底にある宝物入れに封じ込めた。
沢村が部屋を出た後、御幸は上着を羽織って外に出た。バットを片手に、建屋裏手沿いの堤防を、階段を使って上る。
いつもひとりでバットを振れるこの場所が、一番集中できるのだ。
「ったく。アイツ……」
先ほどのことを思い出してひとり呟く。
まさか、「チャージ」を最近していないということに触れてくるなんて、思いもしなかったのだ。
「本当、ストレートすぎて、困る……」
やっと、自分の想いを封印して、3年生を迎えたというのに、まったく彼の素直なところに感心する。
御幸は堤防上から、室内練習場裏手、角地にある植え込みを見つめた。
ここら辺りからは、丁度死角になる場所。あの植え込みの陰は、いつも自分と沢村の、特等地だった。
「もう、しねぇって、決めたからな」
今は、この貴重な時間を、大切に過ごすしかない。自分の気持ちにケジメをつけるのは、夏を終えてからでいいでいいのだ。
自分にそう言い聞かせ、御幸はいつも通りの自主トレに励むため、バットを構えた。
――きっと、この気持ちが風化するその時まで。今は、彼と最後の夏を、全力で過ごそう……
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