変化
「なんかな……」
「……栄純君、何か気にかかるの?」
夕飯中、ふと漏らした沢村の呟きに、右隣にいた春市が反応した。
「ん?あー、いや、なんとなーく、この辺がもやもやしてな」
沢村は箸を持った左手で、自身の左胸を軽くたたいた。
「ふーん、何か悩んでる?最近好調なのに」
「いや、日々、投げ方については悩んでたりするけど、このもやもやは、よく判らん」
2杯目のご飯を口の中にかきこみ、3杯目をもらいに立ち上がる。春市もそれに続いた。
「まぁ、降谷君のことも、後輩のことも、……背番号のことも……色々あるし、それが積み重なってるのかな?みんな日々、色々もやもやしてるしね」
席につきながら、少し声を潜めて答えを出してくれる春市に、沢村は曖昧な相槌を返すことしかできなかった。
新入生が入部してから、1か月が経過していた。
生意気な後輩や、心配な後輩など、さまざまな部員が入部した。それと同時に、自分のことだけでなく、後輩のことも考えないといけなくなった。
そして何より、背番号争い。つい先日、すべての背番号は白紙に戻され、エースであり、沢村のライバルである降谷も同様に、エースナンバーを失った。そして、続いて起きた、降谷の全治2週間の故障。
ライバルの故障を受けて、自分は止まろうと思わないし、人並みにチャンスだとも思う。どうせ次のエースも降谷に選ばれるだろうが、心の根底にある、エースを目指す心持ちは腐っていない。
だが、そういった悩みを日々抱えつつも、その「もやもや」は、まったく違うところで起きているような気がした。原因はおそらく、後輩でもなく、ライバルの存在でもない。
「栄純君」
夕飯を済ませ、部屋に戻ろうとしたとき、後ろから春市に声をかけられた。
「ん?」
振り返ると、春市は、珍しく遠慮気味の表情をしていた。
「今日も御幸塾?」
「え?いや違うけど」
不定期に、御幸の部屋で開かれる、通称「御幸塾」。普段、その塾には行かない春市からの問いかけに、何故聞いてくるのだろうと疑問の表情を浮かべる。
春市は、真っすぐ沢村の目を見て、いつになく慎重に口を開いた。
「……栄純君はさ、まぁ、みんなそうなんだけど、感情がプレーに出やすいから、もし何か、誰にも共有できないような、もやもやが、あるんだったらさ、誰かに相談してみるのもいいと思うよ」
「え?」
「俺でも聞けることは聞けるし、んー、先輩だったら、御幸先輩とか?バッテリー組んでるし、聞きやすいんじゃないかな」
春市の口から、「御幸先輩」の名前が出たとき、急に心がざわついた。
「あ、あぁ、そうだな。でも、大丈夫!大したことねーって。ありがとな!」
何故だか、即刻その場を立ち去りたくなった。心を見られたような、そんな恥ずかしさと、気まずさ。
「あ、そういや俺、ちょっと用事思い出した。戻るわ」
「うん、わかった。またね」
部屋に向かおうとしていた足を、再び食堂へと向けた。春市と別れ、途方もなく歩く。チームメイトや先輩、後輩とすれ違いながら、ひたすら足を進めた。
一体、自分の足はどこへ向かっているのか。誰もいないところに行きたかった。たどり着いたのは室内練習場裏手の、一番角地だった。
裏手角地には少しの植え込みがあり、その一帯を過ぎると、進行方向左手にフェンスが現れる。フェンス向こうは、誰ともなく自主トレーニングをしている広場、その先には小高い堤防が広がっている。
沢村は自分の足元を見た。この場で、植え込みに隠れて、2週間に1度、御幸と2人きりで会っていた。そして、彼の「チャージ」に付き合っていたのだ。
「原因……わかってる」
気が付かないふりをしていた、自分の内に秘める「もやもや」。原因は、その先輩にあった。
後輩が入ってきたからか、秋大会以降しばらく続いていた恒例の「チャージ」が、この1か月間、めっきり無くなった。
最後にあったのは、エイプリルフールの4月1日。たったの1か月しか過ぎていない。
野球以外のことで心がざわつくなんて、沢村にとっては滅多にないことだった。
「くそ」
自分の感情を上手く語源化できない。そんな自分にジレンマをおぼえる。
少しそこで立ち止まっていると、先輩である前園の声が、室内練習場内から響いてきた。この中でも、みんな各々集まって自主トレーニングをしている。
「……なにしてんだ、俺。練習しないと」
こんなことで春市に背を向けるなどおかしな話だと、植え込みを通り過ぎて、寮へ向かう道を歩き始める。
フェンスを横切っていると、左目の端に堤防上で動く、小さな黒い影が飛び込んできた。
誰かが一人でバッティング練習を行っているのか、見慣れた光景だ。
「あ……」
目を疑った。その見慣れたスイングをする影は、御幸だった。
また立ち止まり、ごくりと唾を飲みこむ。
御幸は一心に、スイングを繰り返している。その姿を見られるのも、あとたったの3か月。
何度も思う。
――もっと先輩と。ずっとずっと、野球がしたい。
また、「もやもや」した感情が、沢村の胸を襲いかかる。
切ないような、苦しいような。
この場に自分がいるのに、なんで、先輩もいないんだ。いつもは、目の前にいるのに。俺だけを見てくれているのに……
沢村は軽く首を振り、自分の内に秘める、訳もわからない感情を、吐き出すように口にした。
「……チャージは、もういらないんすか」
自分の内に隠れていた「もやもや」を、少しだけ語源化できた。なのに、すっきりするどころか、更に左胸が締め付けられるような気がする。
「あー、なんだこれ……。もう、悩んでてもしゃーねーし、聞いてみるか」
ぐぅ、と背伸びをする。決意をしたら、あとはまっしぐらだ。この「もやもや」を彼にぶつければ、少しは気持ちも楽になるだろうか。
沢村は口角を上げ、自主トレーニングに向かうために足を踏み出した。
野球も、感情も、
前に、
もっと前に
進むんだ ――
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