願い
大きな目覚まし音が、マンションの一室に響き渡る。
御幸一也は分厚い羽毛布団から右手を出し、掌で目覚まし時計を上から叩きつけた。「チン」と小さい音を最後に、目覚まし音は鳴りやみ、御幸はベッドスタンドに置いてある眼鏡を探し当てて、体を起こしながら時計を見た。
年月日も書かれているそのデジタル時計に向かい、ふと、口角をあげる。ひやりとする朝の部屋に、体を凍えさせながら暖房の電源を入れ、自室を出て廊下を通り、玄関近くにある洗面台に向かった。顔を洗い、歯磨きもひと通り終わらせ、リビングに向かおうと廊下に出る。向かって左が自室。そのはす向かいにある、部屋扉を見た。
まだ、同居人は起きていないようだ。
御幸はその部屋扉を勝手に開け、羽毛布団に埋もれた同居人を見つめた。
この同居人と共に暮らし始め5年目の日を、今日、迎えた。
御幸は相変わらず口角をあげたまま、同居人の名を呼んだ。
「沢村、起きろ。朝だ」
「ん~」と目覚め悪く布団の中でごねる同居人は、高校時代に出会った、沢村栄純である。
「沢村、今日、家で飯用意してるから、晩飯食べて帰ってくんなよ」
沢村は、御幸の見送り言葉に、玄関のドアノブを握りしめ、「え?」と振り返った。
「今日なんかありましたっけ?」
きょとんとした後輩の表情に、御幸はため息をつく。
「お前は本当、むかしからそうだよな。今日は俺らの記念日だよ」
「あ」
口を大きく開け、沢村は慌てて下駄箱上に置いてある卓上カレンダーを見た。
「そうだ、今日って……」
―― 記念日だ ――
沢村が出かけた後、御幸は自室に戻り、机上に置いてあるアクセサリボックスからリングを取り出した。きらりと光るそれを、右手薬指に通す。
留守にする支度を終え、マフラーを首に巻き、手荷物を手に、家を出た。
「相変わらず、演技下手だな」
そう一人でほくそ笑む彼の薬指に光るそのリングは、5年前に沢村と一緒に買った、ペアリングだった。
沢村と御幸は、プロ野球選手になり、同じチームに所属していた。今はオフシーズンのため、選手たちは各々自主トレーニングに励む。沢村も自分のトレーニングを終え、滅多に行かない酒量販店へ立ち寄った。
「すみません、5千円くらいでワイン思ってるんですけど」
「いらっしゃいませ。赤をお探しですか?」
ワインのことは店員に聞くのが一番だ。そう思いながら、店員に好みを伝える。店員が選んでくれたワインにラッピングを頼み、レジの近くで待ちながら、陳列されているワインを眺めた。
我ながら、演技も上手くなったなと、思う。朝に御幸から「記念日」ということを告げられ、とぼけたようにしていたが、嘘だ。言われなくても、わかっていた。今日ということぐらい。
沢村と御幸が付き合いをはじめて、今日で10年。共に暮らし始めて、5年目。忘れるわけがなかった。毎年、カレンダーを見ては楽しみにしていた。
10周年なんて、1日中、2人で過ごすものじゃないのかと思っていたが、御幸からそういったコンタクトはなかったので、普通にトレーニングに行く予定を入れていた。御幸も用事があると言ってトレーニングには来なかったが、夜は例年通り、予定してくれいたようだ。
毎年、「記念日」という日はやってくる。付き合い始めて1年目、初めての記念日は自分で「記念日だな」と言うことが恥ずかしくて、言い出せずにいた。そのようなことが何年か続き、気が付けば毎年同じ反応をするようになっていた。
御幸はそんな自分を決して責めず、いつも笑いながら予定を組んでくれていた。そして、近年は家で豪華な御幸の手作りディナーと共に、ゆっくり寛ぐことが通例になっていた。
そもそも男同士の恋愛なんて、何が正しいのかよく判っていない。付き合った記念の日にどういう反応をするのが正しいのか、自分自身判っていなかった。否、経験としては女性経験もないのだが。
「大変お待たせいたしました、こちらで包ませていただいております」
「あざっす」
会計を終わらせて、店を出た。記念日に相応しいワインが買えたと、口角を上げる。いつもワインを買うのは、自分の役割だった。同居するようになって1年目の時は御幸が用意してくれていたが、手作り料理も用意してくれているなら、せめてワインくらいは買うよと、自分で買うようになった。
既に日は暮れ、時刻は18時を指そうとしている。ここから歩いて約20分、丁度いいくらいだろうと思い、足を踏み出した。
白い息が宙を舞う。本当は心の底から嬉しいこの記念日。だが、年を重ねるにつれ、潜在的にある不安を拭いきれない自分がいることも、自覚していた。
何年もこの関係は続かないかもしれない。もしかすると、この記念日を迎えるのは、今日で最後かもしれない。この数年、いつ終わりを告げるかもわからないこの関係が、少しだけ怖かった。御幸が、「好きな女ができたから」と告げてくるのが、怖かった。
自分たちはゲイではない。いつの間にか互いに惹かれ、付き合っただけだ。将来を決めないといけない年齢にも近付いてきている。御幸に似合う女性が彼の前に現れたら、きっと関係は終わってしまうだろう。
男同士の関係には、何も保証がつかない。結婚もないし、確かな確証を持たずに付き合いは続く。5年前、一緒に指輪は買いに行ったが、所詮、右手薬指にはめる恋人同士のお遊び指輪。
「さむ……」
ずれかけたマフラーをしっかり口元まで引き上げ、俯きながら自分の左胸に右手を当てた。
「10年かぁ」
どうか、今日という日が、永遠に続きますように。
沢村は心の中で祈りをつぶやき、顔を上げる。見えてきた自宅のマンションを目指して、歩幅を広げた。
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