ネット喫茶.com

オリジナル小説や二次創作、エッセイ等、自由に投稿できるサイトです。

メニュー

三途の川を渡る電車

ジャンル: その他 作者: そばかす
目次

第1話

 ぼくは電車に乗っているときが、一番好きな時間だ。
 それはもう掛け値なしに。学校にいるときよりも、家にいるときよりも。もっとも落ち着くし、一番体もリラックスできる。
 だからといって、ぼくは鉄道愛好家、いわゆる〝テツ〟と呼ばれる人々ではない。電車の写真を撮りたいとも思わないし、時刻表を意味もなく眺めたりもしないし、あまり人の乗らない単線路線にわざわざ休日に出掛けたりもしない。……ただ、この通学帰りの電車の中がもっとも落ち着くんだ。朝も嫌いじゃないけど、ちょっと人が多すぎる。適度な喧噪に包まれたセピア色の世界。そこがぼくが世界で一番落ち着く場所だった。
 だからかな。
 その日の夕方、電車に乗ってうとうとしてしまい、気づくと車内には人気がすっかりなくなっていたらしい。まったくのゼロ。ぼくの乗る車両にはぼくだけ。
 乗り過ごしたのか?
 最初そう思った。
 同時に、
 昔なにかのギャグで読んだ、すごく寝たつもりだったのに一駅しか寝ていなかった――と思ってたら、じつは山手線で一周していた。
 そんな話を思い出した。
 そのくらいぐっすりと眠って、どこか遠くまで来た気分になっていた。
 けど――

 外はまだ夕暮れのまま。
 ぼくの一番好きな時間帯。学校が終わり、家に帰るまでの隙間のような時間。

 ガタゴト、と。
 鉄橋を渡る音がかすかに響く。なにげなく外を見ると

 ――広い――海のように広い川が、夕陽を浴びてキラキラとどこまでも輝いていた。中州に葦の茂みなどもなく、というか、そもそもどこまでも広がっていて、川幅がわからない。

 ガタゴト。ガタゴト。
 あまりの雄大な光景にしばらく意識を奪われていて、ぼくはふと気づいた。たぶん優に五分はこの川を眺めていただろう。だが川は途切れることなく、電車はただ橋の上を走っている。ぼくの通学路にこんなとてつもなく大きな川も橋もなかった。対岸の見えないほど広い川を走る電車があるなど、ぼくは聞いたこともない。青函トンネルはそもそもトンネルだし、瀬戸大橋だって島や対岸くらい見えるだろう。見渡しても小船一隻見えない。

「いったい、この川はなんなんだ……?」

 さらに五分。ぼくは時間を無駄にした。
 放心したように、ぼくは眼下のオレンジ色の川と、薄い雲に隠れている夕陽を眺めていた。
 夕陽は、全然位置を変えてないように思える。
 日の光に黄色いものが混じり始めてから、太陽が沈むまでは意外と早い。なのに一向に沈む気配がない。
 それに――。
 海を見慣れているため、この波がまったくない太い川が川だとはわかるのだが、こちらもまったく表情を変えていない。
「このままここにいても仕方ないよな」
 別の車両に移ることにする。連結部の窓二枚を通して隣の車両を見たが、……誰もいない。もしかしてこの電車にはぼくだけしか乗ってないんじゃないかと嫌な想像をしてしまったが、悩んでも仕方ないのでドアを開けた。自動ドアのように開けたドアは勢いよく閉まる。ちょっと乱暴に二枚のドアを開け閉めして、隣の車両に移った。
 ……見慣れた……とてもよく見慣れた電車の車内だった。
 赤茶色の床に、同系色だがもう少し鮮やかな座席。吊り広告に、額に入った広告。どれもこれもつい最近見たものばかり。拍子抜けしてしまいそうになる。
 だが、そんなあたりまえの物に囲まれているからこそ、ひたすら続くこの鉄橋の振動も、車窓から見える川も、沈まない夕陽も異常さが際立っていた。
 ちょっと早足になって、次の車両に移る。
 ほとんど期待していなかった。
 いや。まったく期待していなかったといったほうが正解だろうか。
 ……これはきっと悪夢のたぐい。そうに違いないとぼくは思い始めていたのだから。

 隣の車両の座席には、近隣の高校の制服を着た女子高生が、顔を両手で覆って泣いていた。

 この異常事態におびえて泣いているというよりも、なにか……そう、とても悲しいこと、辛いことがあって、泣いている……そういう泣き方に思えた。
 もし異常な状態が怖くて泣くなら、もっと周囲に助けを求めるように子供のように泣きじゃくると思う。
 決して顔を覆って、声を抑えて泣いたりはしないだろう。
 ぼくは彼女に近づいた。
 黒い制服に黒い髪。垢抜けていない印象を受ける。スカートの丈だけはこの辺の女子高生らしく短いのだが。
「あの……すみません」
 ぼくは丁寧に声をかけた。
 泣いていた彼女は、顔を上げた。
 泣きはらした目に、涙で濡れた頬。化粧っ気のない顔だったので、化粧が崩れるということもないかわりに、赤くなった頬の印象からかひどく幼い、純朴な印象を受けた。
「なに?」
 少女の声は鋭い。
 今すぐにでもまた泣きたい、悲しみに沈みたいと思っているみたい。
「ぼくは――」
 名乗ろうとして、はたと気づく。
 ――名前が思い出せない? あれ……?
 いくら思い出そうとしても思い出せなかった。
 そうして記憶を振り返ってみると、いま学校帰りなのかどうかさえ曖昧になってきた。
目次

※会員登録するとコメントが書き込める様になります。