私が死のうと思ったのは、
平成三十年の自殺者の数は二万八百四十人だった。
この人数は昭和五十六年以来、三十七年振りに二万一千人を下回ったと言う。
当たり前の事だが、この世界では毎日新たな命が誕生し、尊い命が消えていく。
喜びの涙、悲しみの涙が流れているのだ。
人間は「死」をある種タブーな話題として扱っている様に私は感じている。
人間はいつの日か必ず死を迎えるのに…。
今日も、私は病院へ向かう。精神科だ。
私は鬱病と摂食障害、強迫性障害を患っている。不眠症でもあるから薬を飲まないと眠れない身体となってしまっている。
先ずはカウンセリングだ。
私がカウンセリングを受け様と思ったのは家族や親しい友人ではなく、専門家に私の話、考えを聞いて欲しいと思ったからだ。
「ここ最近の調子はどう?」
「睡眠は取れていますが、食べ吐きが酷くて辛かったです。」
「それは過食しちゃったから?」
「いえ、普通の食事の量でも吐きたくなってしまって…」
「こんなに医学が発達しているのに摂食障害に効く薬は無いですよね。」
「そうだね。心の問題が大きい病気だからなかなかね…」
私は人間の三大欲求である、食欲、睡眠、性欲どれも満足に満たせない人間だ。
食欲に関しては半ばもう諦めている。
上手く食事が摂れないから誰かと付き合う事も諦めた。
一緒に楽しく食事が出来ない彼女なんて付き合いたくないだろうから。
診察は簡易なものだ。カウンセリングと同じく最近の様子を伝えて薬を処方して貰う。
そして私は独りの部屋へと帰る。
私の心の中を具現化したかの様な汚く荒れた部屋へ。
私はこの空間が落ち着く。
抱えている病気とは関係ないと思うが私は他人に心を開けない。開き方も知らない。
自分の内面のテリトリーに入られる事に酷く嫌悪感を感じる。
だから誰かと付き合っても長く続いた試しがない。
友達は多い方だが本音では話していない。
普通ならば寂しい、辛いと感じる孤独が私にとっては唯一心を許せる友達なのだ。
周りの友達もやっているし流行っているから始めたSNS。
久し振りに開いてみた。
其処には所謂。リア充投稿ばかり。
キラキラとした笑顔で映る友達。あどけない顔の友達の子供。仲良く肩を寄せ合って映っている夫婦や彼氏彼女の写真。美味しそうな食べ物…。
私とは余りにも世界が違い過ぎてそっとアプリを閉じた。
私はこのSNSがきっかけとなり自殺未遂をした経験がある。
当時は未だ実家暮らしで家族と一緒に住んでいた時だ。
私は当時主流だったSNSに書かれている友達の楽しそうな日記を読んでいたら「自分はみんなみたいに普通に生活出来ない。友達に見せる笑顔は偽りだ。そんな自分には生きている価値なんて無い」と思い処方されていた薬を全て飲んだ。オーバードーズだ。
気が付いたら病院の病室だった。
点滴を打たれ、尿管にはカテーテルが繋がれていた。
記憶には全く無いが朝ご飯の時間に起きてきた時に余りにも様子がおかしかったので「どうしたの?」と尋ねた母に「薬を全部飲んだ。」と言ったらしい。
処方されている薬をオーバードーズしたところで死ねる筈がない。
丸一日入院して退院した。
そうか、薬を大量に飲んでも死ねないんだ。
未だ命があるのに私には悲しい現実だった。
話を聞きたいからと予定日以外に精神科の外来に行った。
主治医は「どれくらいの量の薬を飲んだの?」と尋ねた。
私は特に数は気にしていなかったが「百錠近く飲みました。」と答えた。
「どうして死のうとしたの?」と核心に迫られたので「私には生きてる価値なんてないからです。」と正直に答えた。
「もし本当にこのまま死んじゃっても良かったと思っている?」「はい。」
辛いときはいつでも来て良いから自分を追い詰めないで、生きてる価値が無いなんて事は絶対にない。とてっきり自殺未遂をした事怒られると思ったが優しい言葉と共に送り出してくれた。
冷静になって考えてみた。もし私が本当に死んでいたらどれだけの人が悲しんで涙を流していただろうかと。
家族は勿論、友達、親戚、学校の先生達、もしかしたら私の事を少し知っている人さえも…。
そう考えると私は、私に関わって来てくれた全ての人達へ申し訳なくなり自分が犯してしまった過ちの罪悪感で一杯になった。
そして薬を大量に飲んでも死ねないという事、以前は悲しい現実だと感じてしまっていたが今度は良かったと思えた。
暫くは薬の管理をされたが一人暮らしをする際に家族にもう絶対に同じ過ちは犯さないと血かい、一人暮らしの許しを得た。
そして私は今日も生きている。確かに幸せな人生とは言えないけれど「今」を生きている。
そしていつか幸せを少しでも感じられたら良いな、と思っている。
私は孤独を味方に付けている。
だから心は病んでしまっていても誰よりも強い心を持てたのではないかと思っている。
後ろ向きにでも私は自分が信じている道を兎に角突き進むのだ。
このポジティブかネガティブなのか分からない感情と気持ちは、今の私にとっては心強い。
そして今日も私は朝を迎える。
この人数は昭和五十六年以来、三十七年振りに二万一千人を下回ったと言う。
当たり前の事だが、この世界では毎日新たな命が誕生し、尊い命が消えていく。
喜びの涙、悲しみの涙が流れているのだ。
人間は「死」をある種タブーな話題として扱っている様に私は感じている。
人間はいつの日か必ず死を迎えるのに…。
今日も、私は病院へ向かう。精神科だ。
私は鬱病と摂食障害、強迫性障害を患っている。不眠症でもあるから薬を飲まないと眠れない身体となってしまっている。
先ずはカウンセリングだ。
私がカウンセリングを受け様と思ったのは家族や親しい友人ではなく、専門家に私の話、考えを聞いて欲しいと思ったからだ。
「ここ最近の調子はどう?」
「睡眠は取れていますが、食べ吐きが酷くて辛かったです。」
「それは過食しちゃったから?」
「いえ、普通の食事の量でも吐きたくなってしまって…」
「こんなに医学が発達しているのに摂食障害に効く薬は無いですよね。」
「そうだね。心の問題が大きい病気だからなかなかね…」
私は人間の三大欲求である、食欲、睡眠、性欲どれも満足に満たせない人間だ。
食欲に関しては半ばもう諦めている。
上手く食事が摂れないから誰かと付き合う事も諦めた。
一緒に楽しく食事が出来ない彼女なんて付き合いたくないだろうから。
診察は簡易なものだ。カウンセリングと同じく最近の様子を伝えて薬を処方して貰う。
そして私は独りの部屋へと帰る。
私の心の中を具現化したかの様な汚く荒れた部屋へ。
私はこの空間が落ち着く。
抱えている病気とは関係ないと思うが私は他人に心を開けない。開き方も知らない。
自分の内面のテリトリーに入られる事に酷く嫌悪感を感じる。
だから誰かと付き合っても長く続いた試しがない。
友達は多い方だが本音では話していない。
普通ならば寂しい、辛いと感じる孤独が私にとっては唯一心を許せる友達なのだ。
周りの友達もやっているし流行っているから始めたSNS。
久し振りに開いてみた。
其処には所謂。リア充投稿ばかり。
キラキラとした笑顔で映る友達。あどけない顔の友達の子供。仲良く肩を寄せ合って映っている夫婦や彼氏彼女の写真。美味しそうな食べ物…。
私とは余りにも世界が違い過ぎてそっとアプリを閉じた。
私はこのSNSがきっかけとなり自殺未遂をした経験がある。
当時は未だ実家暮らしで家族と一緒に住んでいた時だ。
私は当時主流だったSNSに書かれている友達の楽しそうな日記を読んでいたら「自分はみんなみたいに普通に生活出来ない。友達に見せる笑顔は偽りだ。そんな自分には生きている価値なんて無い」と思い処方されていた薬を全て飲んだ。オーバードーズだ。
気が付いたら病院の病室だった。
点滴を打たれ、尿管にはカテーテルが繋がれていた。
記憶には全く無いが朝ご飯の時間に起きてきた時に余りにも様子がおかしかったので「どうしたの?」と尋ねた母に「薬を全部飲んだ。」と言ったらしい。
処方されている薬をオーバードーズしたところで死ねる筈がない。
丸一日入院して退院した。
そうか、薬を大量に飲んでも死ねないんだ。
未だ命があるのに私には悲しい現実だった。
話を聞きたいからと予定日以外に精神科の外来に行った。
主治医は「どれくらいの量の薬を飲んだの?」と尋ねた。
私は特に数は気にしていなかったが「百錠近く飲みました。」と答えた。
「どうして死のうとしたの?」と核心に迫られたので「私には生きてる価値なんてないからです。」と正直に答えた。
「もし本当にこのまま死んじゃっても良かったと思っている?」「はい。」
辛いときはいつでも来て良いから自分を追い詰めないで、生きてる価値が無いなんて事は絶対にない。とてっきり自殺未遂をした事怒られると思ったが優しい言葉と共に送り出してくれた。
冷静になって考えてみた。もし私が本当に死んでいたらどれだけの人が悲しんで涙を流していただろうかと。
家族は勿論、友達、親戚、学校の先生達、もしかしたら私の事を少し知っている人さえも…。
そう考えると私は、私に関わって来てくれた全ての人達へ申し訳なくなり自分が犯してしまった過ちの罪悪感で一杯になった。
そして薬を大量に飲んでも死ねないという事、以前は悲しい現実だと感じてしまっていたが今度は良かったと思えた。
暫くは薬の管理をされたが一人暮らしをする際に家族にもう絶対に同じ過ちは犯さないと血かい、一人暮らしの許しを得た。
そして私は今日も生きている。確かに幸せな人生とは言えないけれど「今」を生きている。
そしていつか幸せを少しでも感じられたら良いな、と思っている。
私は孤独を味方に付けている。
だから心は病んでしまっていても誰よりも強い心を持てたのではないかと思っている。
後ろ向きにでも私は自分が信じている道を兎に角突き進むのだ。
このポジティブかネガティブなのか分からない感情と気持ちは、今の私にとっては心強い。
そして今日も私は朝を迎える。
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