ネット喫茶.com

オリジナル小説や二次創作、エッセイ等、自由に投稿できるサイトです。

メニュー

アイリスは背伸びがしたい

原作: その他 (原作:アイドルマスターSideM) 作者: 和久井
目次

アイリスは、背伸びがしたい。

非日常の朝食


龍は絶望していた。

白飯を楽しみに起きたのに、蓋を開けると米が水面下に沈んでいたからだ。
食べる事が大好き、特に今日は朝から大好物の納豆ご飯を食べるのだと夜から息巻いて眠りについた龍にとっては死活問題だ。
一瞬母親を恨んだが、木村家は先日から家族ぐるみで旅行に出かけている。
それに米を研いで炊飯器にセットしたのは留守番を任された昨夜の自分だったので、すぐに心の中で謝った。

悲しい気持ちで炊飯ボタンを押す。

電子音が軽快に童謡を流す。一時間待ってくれよ、という炊飯器からのメッセージに、龍は腹の音で返事をした。


どうしても心と腹を満たしたくて台所を見渡せば、袋に一枚だけ入った食パンが目に入った。
袋を見ると消費期限は今日になっている。
捨てる神あれば拾う神ありだと次に冷蔵庫を開けると、未開封のスライスチーズと牛乳を見つけた。
奥には白い壁に擬態するように静かに佇むマーガリンもいる。
今度は母親に感謝した。

ボロボロにならないよう注意しながら、焼く前の食パンにマーガリンを塗る。
少し毛羽立った内相にゆっくりとスライスチーズを乗せる。
そしてオーブントースターに入れ、目盛りを「3」に合わせて手を離した。

トースターが稼働したのを確認し、コップに牛乳を注ぐ。
二杯目をおかわりした所でトースターがチンと音を立てた。

扉を開けると、煙と共にチーズの香りが龍の鼻孔をくすぐった。
食パンだけでなくチーズにも薄く焦げ目がついており、我ながら上手に焼けている、と料理に苦手意識を持つ龍は胸を張った。
火傷に注意しながら皿に移し、コップと共にテーブルに運ぶ。
着席する前から腹の虫が「早く早く」と急かす。

座るや否や、龍はチーズトーストにかぶりついた。

「熱っ」

龍の今日の第一声だった。
皿に移す時にはあれだけ注意したのに、なぜ食べる時には忘れるのだろう。
苦笑しながらチーズトーストに息を吹きかける。
次に口に運んだ時には、パンとチーズの味を十分に楽しむことが出来た。

「うん、美味い」

たまにはパンを楽しむのも良いな、と牛乳を口に含み二口目を食べる。

チーズがパンからずるりと剥がれた。

柔らかくとろけたチーズを噛み切る事が出来ず、龍はこぼさないように受け入れるので精一杯だった。
口一杯にチーズの美味しい酸味が広がったが、龍は無表情で咀嚼した。

やっとの思いで飲み込んでみれば、手元に残ったトーストが「自分の番だ」と訴えかけていた。
気にするな、味ならついている。
そうまだらに塗られていたマーガリンが話しかけるように黄色く輝いた。
龍は思わず炊飯器に助けを求めたが、彼は炊き上がり音をまだ鳴らさなかった。


---
濤声が聞こえる


クリスさんの言葉を借りるなら、「海が見えます!」だろうか。

きっとクリスさんならこの状況にテンションが上がるのだろうけど、今の俺にはクリスさんみたいに振る舞う事は到底無理だった。
今日はオフで、けれど天気が良くて、だから久しぶりに自転車に乗ってみようと思っただけだった。

まさか、まさか海に来てしまうなんて。

ここまで来る予定など俺にはなかったのに。
無意識というのは恐ろしい。

砂浜の向こうにある海は、快晴のおかげもあって空の水色と海の青がくっきりと分かれている。
波も穏やかで浜辺に打ちつける音も小さくて優しい。

もう少し音が欲しくて、俺は今日の相棒である赤い自転車のベルをゆっくりと引く。

ベルはチ、リンと不格好な音を鳴らしてすぐに存在を消した。また波の音が小さく聞こえる。

疲労が太ももに重くのしかかり始めた事に気づいて、改めて長時間自転車を漕いでいた事に驚く。
こんなに天気が良いのに、俺の心は土砂降りだった。

どうしよう、クリスさん。

俺は改めて名前を呼んだ。
彼なら、目の前の海から上がってきてもおかしくない。そう思っていた。


---
アイリスは背伸びがしたい


幼い頃、親に「傘を買う時は目立つ色にしなさい」と言われた。
盗難対策――俺の場合は不運対策だろうか――その為に親は言ったのだろうけど、大人になった今でもそれをなんとなく守り続けている。

大人になってから自分のお金で買ったオレンジ色の傘は、十六本骨なのに細身で軽い。
オレンジは自分の好きな色で、見つけた時からの一目惚れだ。
レジに立っていたお姉さんに「プレゼント用ですか?」と聞かれて「自分用です!」と元気よく答えたら不思議そうな顔をされた事を、今ふと思い出した。

これまで車に泥水をかけられたり、軽い気持ちで入った水たまりが思いの外深かったという経験は人よりも倍以上あるが、それでも雨の中を前向きに歩けたのは、きっとこの丈夫で素敵な色をした傘のおかげだと俺は信じている。
こうやって事務所の傘立てに置いてもすぐに見つけられる。
こんな素敵な傘が他にあるだろうか。

「おい、龍」

それが女物だと知ったのは、英雄さんに指摘されてからだった。


誠司さんに、肩車をしてほしいとおねだりしてみた。
ライブ終わりの打ち上げで事務所が盛り上がる中、俺自身も浮かれていた。
口に出してすぐに無茶なお願いだと気づいた。
誠司さんは驚いて目を丸くしている。

なんちゃって、嘘ですごめんなさい

――そう言おうと思ったのに、誠司さんは俺に背を向け、片膝をつき「よし来い!」と言った。
その頼もしい声と背中に、俺は思いっきり甘える事にした。

大の大人二人の肩車は、当然注目を浴びた。
どこかから歓声が聞こえる。
いつも上から聞こえる誠司さんの笑い声が下から聞こえた。
英雄さんの呆れ顔も見えた。
天井に頭をぶつけるかと思ったが、そんな事は杞憂だった。
けれど手を伸ばすと容易に天井に触れる事が出来る。誰よりも高い景色を独り占めしている。
まるで今日のステージで歌ったソロの景色のようだった。
目を閉じると、暗闇から緑とオレンジのペンライトが光り出した瞬間を思い出す。
ファンの歓声と二色で染まった海を見て感動して鳥肌が止まらなくて、最初のステップを忘れそうになった。

目を開けると、もふもふえんの三人がこちらに駆け寄って来る所が見えた。

「いいなー」「オレもオレも!」

はしゃぐ声と、それをたしなめる優しい低音がまた下から聞こえた。

俺はもう一度目を閉じる。
もう少し、もう少しだけ楽しませてほしい。

この景色を、あの感動を。

目次

※会員登録するとコメントが書き込める様になります。