ささやき
内海の穏やかな波打ち際に何度も打ち寄せられながら、私は何かを思い出そうとした。
「……私はどこにいるのだっけ」
そう思った瞬間、視界が開けた。
私は浮遊し、明らかに病室と分かる場所でベッドに横たわる私自身と、それに付き添う両親の姿を天井近くから見下ろしていた。
「佳代。階段から滑って落ちて、もう二ヶ月になるわ。早く起きて」
母の鈴子の気弱な声に、私は自分の耳を疑った。
きつい性格の母からは考えられない声、そして衝撃的な内容だった。
「こ、これは。もしかして死にそうになっているのでは」
私は焦り、病室の天井を右往左往した。
「どうしよう、どうしよう。そうだ。自分の体に戻れば」
うまく行くか不安だったが、やってみると簡単に戻ることができた。
私は急いで目覚めようとしたが、考えを変えた。
起きるのはいつでもできそうだから、もう一度飛んでみたい。
心配している母には申し訳なかったが、こんな経験は滅多にできるものではなかった。私はまた体から抜け出した。
幽体離脱も二度目となると、今度は落ち着いて病室を眺めることができた。
二ヶ月も入院していたとは。付き合いで過剰とも思える医療保険に加入しておいたのが、不幸中の幸いだった。会社は休職扱いにしてくれているだろうか。私はすっかり痩せてしまっているようだ。後遺症は大丈夫だろうか。
考えを巡らせながら母の隣に立つ父の博人を見ると、普段通りに無表情で寡黙だった。
その父が母に声をかけた。
「おい、もう行くぞ」
「博人さん、もう帰るの。少しぐらい佳代に声をかけてやって」
「いい」
深刻そうな母の態度や私の状況をものともしない様子は、父らしいといえば父らしかった。
「もう、博人さん……」
引き止める母も荷物を手に取り、結局は父を追いながら病室を出てしまった。
私は焦りを覚えた。
もう起きないと。私は体に戻って目を開けようとし、ふと、階段から落ちた理由が気になった。
母は私が階段から落ちたと言っていた。
いつ、どこで、どうやって。
思い出せない。
遠ざかっていた波の音が大きくなった。
集中を妨げられ、私は苛立った。
するとどこからか、若い男性同士の会話が聞こえ始めた。
「孝、あの人、どうなったかな」
「……あの人って、誰だよ」
「あの、ほら。お前が……押した女の人」
「え。俺、何にもやってねえし」
孝と言う青年のふてぶてしい返事に、突如、私の記憶が怒りと共によみがえった。
目の前に、駅の薄暗い階段の光景が湯気のように立ち上った。
そうだ。
私はあの日、階段ですれ違ったこの孝という青年と肩が当たった。
梅雨の最中の蒸し暑い日で、雨に濡れた青年のシャツからは洗濯を怠っているような臭いがしていたことも覚えていた。
そして、母譲りで気が強く、友人と飲んだ後で少し酔ってもいた私は、舌打ちをしたのだ。
すると突然背中を押され、私は階段を落ち、今日までの記憶がなくなっていた。
「あんた、突き落としたのね!」
私の叫びはこの孝達には届かないらしかったが、孝は、一瞬遠くを見た。
「こらあんた! 自首しやがれ」
首を締め上げようとしたが、私の体は霧のように彼の体を突き抜けてしまった。
それでも孝はまた、辺りを見回した。
「どうした、孝」
「いや。何だろ」
(気配程度は感じるのね。これは許してなるものか)
私は孝の右肩にのしかかり、「自首、自首」とつぶやき始めた。
翌日も、母は私の傍らで泣いた。
「佳代。体が弱っていくわ。早く起きて」
この嘆きは私に頭痛をもたらし、私は危うく目覚めるところだった。
だがこの母は、私が目覚めたら目覚めたで、「階段から滑って落ちたどじ」と一生言い続けるような人だ。そうならない為にも、私は犯人に自首をさせたかった。
私は孝に自首するようつぶやき続けた。
母は毎日のように傍らで泣いていたが、私は無視し続けた。
「孝。お前最近、顔色悪くなったな。目の下黒いぞ」
友人に聞かれた孝が首を傾げた。
「そうか。なんか、こっちの肩が重くて」
「ギャハハ、それ、悪霊だろ」
「ギャハハ、んなわけねえだろ」
(くそう。何が何でも自首させてやる)
諦めの悪いところも、私は母に似ていた。私は執念深く「自首、自首」と唱え続け、孝は少しずつ弱っていった。
(もう少しだ。相打ちになってでもこいつを……)
そんなある日、病室に父がやって来た。
そして、無口な父にしては珍しく私の耳元で長々とささやきはじめた。
「君はまだまだ起きそうにないな。そう言えば、君が追いかけていたあの騒がしいバンドな。『滅茶苦茶』だったか、ニュースで言っていたが、解散するそうだぞ。案外人気のバンドだったんだな。解散ライブのチケットは明日発売だ。こういうものはすぐに売り切れるそうだから私が申し込んでやっても構わないが、でもまあ、こんなに弱っているし、君が行くのはもう無理かな」
「『メツレツ』よ! 無理なことがあるもんか!」
私はうっかり飛び起きてしまった。
眠っていた間のことは全て忘れて。
「……私はどこにいるのだっけ」
そう思った瞬間、視界が開けた。
私は浮遊し、明らかに病室と分かる場所でベッドに横たわる私自身と、それに付き添う両親の姿を天井近くから見下ろしていた。
「佳代。階段から滑って落ちて、もう二ヶ月になるわ。早く起きて」
母の鈴子の気弱な声に、私は自分の耳を疑った。
きつい性格の母からは考えられない声、そして衝撃的な内容だった。
「こ、これは。もしかして死にそうになっているのでは」
私は焦り、病室の天井を右往左往した。
「どうしよう、どうしよう。そうだ。自分の体に戻れば」
うまく行くか不安だったが、やってみると簡単に戻ることができた。
私は急いで目覚めようとしたが、考えを変えた。
起きるのはいつでもできそうだから、もう一度飛んでみたい。
心配している母には申し訳なかったが、こんな経験は滅多にできるものではなかった。私はまた体から抜け出した。
幽体離脱も二度目となると、今度は落ち着いて病室を眺めることができた。
二ヶ月も入院していたとは。付き合いで過剰とも思える医療保険に加入しておいたのが、不幸中の幸いだった。会社は休職扱いにしてくれているだろうか。私はすっかり痩せてしまっているようだ。後遺症は大丈夫だろうか。
考えを巡らせながら母の隣に立つ父の博人を見ると、普段通りに無表情で寡黙だった。
その父が母に声をかけた。
「おい、もう行くぞ」
「博人さん、もう帰るの。少しぐらい佳代に声をかけてやって」
「いい」
深刻そうな母の態度や私の状況をものともしない様子は、父らしいといえば父らしかった。
「もう、博人さん……」
引き止める母も荷物を手に取り、結局は父を追いながら病室を出てしまった。
私は焦りを覚えた。
もう起きないと。私は体に戻って目を開けようとし、ふと、階段から落ちた理由が気になった。
母は私が階段から落ちたと言っていた。
いつ、どこで、どうやって。
思い出せない。
遠ざかっていた波の音が大きくなった。
集中を妨げられ、私は苛立った。
するとどこからか、若い男性同士の会話が聞こえ始めた。
「孝、あの人、どうなったかな」
「……あの人って、誰だよ」
「あの、ほら。お前が……押した女の人」
「え。俺、何にもやってねえし」
孝と言う青年のふてぶてしい返事に、突如、私の記憶が怒りと共によみがえった。
目の前に、駅の薄暗い階段の光景が湯気のように立ち上った。
そうだ。
私はあの日、階段ですれ違ったこの孝という青年と肩が当たった。
梅雨の最中の蒸し暑い日で、雨に濡れた青年のシャツからは洗濯を怠っているような臭いがしていたことも覚えていた。
そして、母譲りで気が強く、友人と飲んだ後で少し酔ってもいた私は、舌打ちをしたのだ。
すると突然背中を押され、私は階段を落ち、今日までの記憶がなくなっていた。
「あんた、突き落としたのね!」
私の叫びはこの孝達には届かないらしかったが、孝は、一瞬遠くを見た。
「こらあんた! 自首しやがれ」
首を締め上げようとしたが、私の体は霧のように彼の体を突き抜けてしまった。
それでも孝はまた、辺りを見回した。
「どうした、孝」
「いや。何だろ」
(気配程度は感じるのね。これは許してなるものか)
私は孝の右肩にのしかかり、「自首、自首」とつぶやき始めた。
翌日も、母は私の傍らで泣いた。
「佳代。体が弱っていくわ。早く起きて」
この嘆きは私に頭痛をもたらし、私は危うく目覚めるところだった。
だがこの母は、私が目覚めたら目覚めたで、「階段から滑って落ちたどじ」と一生言い続けるような人だ。そうならない為にも、私は犯人に自首をさせたかった。
私は孝に自首するようつぶやき続けた。
母は毎日のように傍らで泣いていたが、私は無視し続けた。
「孝。お前最近、顔色悪くなったな。目の下黒いぞ」
友人に聞かれた孝が首を傾げた。
「そうか。なんか、こっちの肩が重くて」
「ギャハハ、それ、悪霊だろ」
「ギャハハ、んなわけねえだろ」
(くそう。何が何でも自首させてやる)
諦めの悪いところも、私は母に似ていた。私は執念深く「自首、自首」と唱え続け、孝は少しずつ弱っていった。
(もう少しだ。相打ちになってでもこいつを……)
そんなある日、病室に父がやって来た。
そして、無口な父にしては珍しく私の耳元で長々とささやきはじめた。
「君はまだまだ起きそうにないな。そう言えば、君が追いかけていたあの騒がしいバンドな。『滅茶苦茶』だったか、ニュースで言っていたが、解散するそうだぞ。案外人気のバンドだったんだな。解散ライブのチケットは明日発売だ。こういうものはすぐに売り切れるそうだから私が申し込んでやっても構わないが、でもまあ、こんなに弱っているし、君が行くのはもう無理かな」
「『メツレツ』よ! 無理なことがあるもんか!」
私はうっかり飛び起きてしまった。
眠っていた間のことは全て忘れて。
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