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ランドセルを買いに。

ジャンル: その他 作者: 吾妻千聖
目次

ランドセルを買いに。

何ヶ月ぶりかに髭を剃った。
不揃いに伸びきった髭は見ていて忌々しく、しばし辟易しながら鏡と睨めっこをした。それからさらに髪を切った。ボサボサに散らかった、乾燥したワカメのような頭で出歩くわけにはいくまい。ただ俺は散髪の方法を心得てはいなかった。だから思い切って丸坊主にした。襟足と耳のあたりを剃るのに苦戦した。鏡を二枚使って仕上がりを確認してみる。髪で覆われていた頭の造形が、初めて見た知らない人間の頭のように思えた。隠されていた自分の形を暴かれるようでなんともこそばゆい気持ちになった。
坊主にするのは、少年草野球チームに入っていた時以来だ。ただあの時の面影は全く無い。俺の顔つきがここまで変わってしまったのは、ひとえに時間のせいだけではない気がした。
バリカンを洗面所の洗顔フォームの横に置くと同時にクシャミが出た。今日は念の為マスクをしていこう。坊主頭は少し恥ずかしいのでハンチング帽も被っていこう。玄関を開けて外に出た。冬は昼間でも寒さが身に染みる。剃刀でなぞられているかのような鋭い冷気に刺された。

俺には来年六歳になる息子がいる。もっとも一緒に住んではいない。二年前離婚し、妻が息子を連れて出ていってしまった。離婚の原因は俺にある為、親権についてどうこう言う資格は当時の俺には無かった。最後に会った時の息子の顔はあまり覚えていない。ただなんとなく、目元が妻似で、鼻と口元が俺の母親に似ていた気がする。俺は目元以外は父親似だから、俺の息子と俺はうまい具合にそんなに似ていなかった。幸いだ。
息子との記憶で、一番思い出に残っているのは運動会だ。二人で参加した親子二人三脚は、息子を回想する時、今でも真っ先に思い出す。二人三脚といっても足と足を紐で結んで走るのでなく、手と手を繋いで走るというとても可愛らしいルールだ。大人しいわりに負けん気の強い息子は、親友の遠藤君に一番を譲ってしまったことをひどく悔しがっていた。2番という結果に落ち込んでいた息子を見て、小さくてももう男なんだなと思った。そんな成長が嬉しかった。
来年小学生になる息子は、もうどれほど大きくなっているのだろうか。たった二年という時間は、子供を恐ろしく早く成長させる。立派に育っていくであろう息子に似合うランドセルを想像した。俺は今日、息子のためにランドセルを買いに来たのだ。


十五分ほど歩くとショッピングモールの赤い看板が目に入った。ここのショッピングモールは二年前とほとんど変わっていないようだった。懐かしさに嬉しくなって、少し浮ついた気分でお店の中に入った。入ってすぐの食品売り場を素通りしてエスカレーターで二階へ向かう。
エスカレーターを上ると電気製品売り場があった。そういえば家電の一掃セールの時期だなあと並べられている製品を横目で見ながら歩く。大きな薄型テレビの前を通り過ぎる。教育番組が流れていた。薄く大きく、高画質のテレビにはやはり憧れる。同じものを見るにしても、上等な液晶テレビで見るものには違った意味が映されている気がする。近づいて見ても、目が痛くならなかった。特別な光が出ているんだろうか。よくわからない。
テレビの前にリモコンが立てかけてあった。チャンネルを変えられるようになっていた。適当にボタンを選ぶとニュース番組が映った。アナウンサーが深刻な顔でニュースを読み上げる。「昨夜都内の刑務所で囚人が脱走し、今もまだ犯人は逃走中。囚人は三十代男性、身長は一七〇センチメートルほどで頬に大きな傷があるのが特徴です。警察庁で情報が集まり次第またお伝えするとのこと…」
後ろでテレビを見ていた主婦二人が「こわぁい」「嫌ねぇ」と口々に言いながら通り過ぎた。徐にチャンネルを教育番組に戻し、ランドセル売り場に向かう。防犯ブザーも買っておこうかと考えたが、妻の顔が浮かんでやめた。ランドセルはさておき、これ以上俺からの贈り物は、きっと妻が厭がる。

色とりどりに並ぶランドセルはさながら色鉛筆のようだった。今はこんなに何色も売られているのかと驚いた。俺が小学生の頃は赤か黒、珍しい色ならせいぜい茶色がいたぐらいだ。それぞれが気に入った、自分だけの色を持って学校に行く。
息子は確か青色が好きだったはずだ。幼稚園のお弁当箱も、靴も、水筒も、青系統の色で統一されていたのを覚えている。
青いランドセルを探す。青だけでも3種類も色のバリエーションがあった。
薄い、天色と呼ばれる可愛らしい青は名前通り空の色に近い。ふたつめは、空を剥がして海に落とし、被せて煮詰めたような蒼色。それから、蒼よりもさらに濃く、夜の要素を少しづつ吸い取って静かな力強さを含んだような、海軍の青と呼ばれるネイビーブルー。
性格の違う3種類の青のうち、息子に似合うのはネイビーブルーだと思った。直感で、この色を背負う息子の姿が見えた気がしたのだ。きっと気に入ってくれるだろうと手に取る。思ったよりもランドセルは重たかった。

後は支払いを済ませ、息子の家に届け、帰るべきところに帰るだけだ。それで俺の目的は達成される。
立ち止まっていた足で歩きだした途端足が痛んだ。昨夜久しぶりに走ったせいだろうか。不思議なもので、一つ痛いところを見つけると、またひとところが痛み出す。
頬の大きな古傷をマスク越しに撫でる。遠くでサイレンの音が響いた気がした。
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