第肆話
英雄ジークフリードは昔、明るく屈託のない真っ直ぐな青年だった。どんな絶望的な状況でも彼は嘆かず、常に前を向いて生きていた。そんな姿にヒルダも感銘を受け、凶悪なドラゴンが存在する世界に生まれても、決して未来を諦めず前向きに生きてきたのである。
ヒルダにとって、彼はもとからこの町のヒーローだった。いつだって笑顔で、少なからずこの町に明るさを与えていた。だから、ジークフリードがドラゴンを倒し世界を救ったと聞いた時は安堵と共に妙に納得したものである。彼は私達だけではなく、世界の英雄になったのだと。
『あいつ、ドラゴンを倒したんだって!』
ヒルダはその朗報を聞いた日から毎日、日が昇ってから暮れるまで、町の入り口でジークフリードの帰りを待つという生活を続けた。一回り大きくなり輝きを増したであろう彼の帰還を待ち望んでいた。
(……でも)
昔を思い出しながらフラフラと歩き続けていたヒルダは、町はずれの小さな家の前で足を止める。その周辺からは人の気配はまるでしなかった。あの日から、ずっとこうだ。
あの日、ジークフリードはここに帰ってきた。ひどく憔悴した様子で。
『ど……どうし……た、の』
おかえり、なんて呑気に言えるような雰囲気ではなかった。異様なまでに淀んだ瞳をしたジークフリードにギョッと目を剥いて、ヒルダは慌てて彼に近づく。
何かあったのか、と必死に問いかけるヒルダに対してジークフリードは黙りこんでいた。十数年を共に生きてきたヒルダでさえ、こんなジークフリードは見たことがない。暗く、重い。まるで別人だ。
『と、とにかくうちにおいで。一緒に行こう』
『……いい』
『よくない! こんなにボロボロなのに』
そう言って伸ばした手は振り払われた。
他でもない、ジークフリード自身によって。
『お前には関係ないだろ』
それは酷く冷たい瞳だったと記憶している。
「……っ」
そこまで思い出して息がつまった。ドクドクと心臓が脈打って、ヒルダの眉間に皺が寄る。
あれからジークフリードは滅多に顔を見せない。ヒルダの手を振り払った後、自分の家に篭ってしまった。最初、英雄の帰還を聞いた町人達はジークフリードの家に押しかけて何とかジークフリードに話しかけようと躍起になっていたが、一切応答はなく成果もなし。次第に町人達は無駄を悟り、ジークフリードの家に押しかけることもなくなっていった。今やジークフリードの家に定期的に通いつめるのはヒルダだけである。
それからはたまに外に出ているのか、稀にジークフリードを目撃したという情報が寄せられた。ヒルダ自身も何度かジークフリードを見たことがある。しかし誰が声をかけても一瞥するか適当に返事をするだけで、すぐどこかへ行ってしまう。
その様子はまるで周りと距離を置こうとしているようだった。
特にヒルダが話しかけようとした時の対応は、一層酷いものだった。名を呼んでも完全に無視。話しかければ心底迷惑そうな顔をして、視線すら合わせようとはしなかった。
「……何で」
ヒルダは目の前の家を……ジークフリードの家を見つめながら悔しそうに拳を震わせた。
前なら、その扉を叩けば彼ががひょっこり顔を出した。それからニカリと笑って嬉しそうにヒルダの名前を呼ぶのだ。そんなに経っていないはずなのに、もう随分と昔のことのように感じた。
ヒルダはふらりとその家に近づき、扉には向かわずその横にあった小さな窓へ視線をやる。半端に閉められたカーテンの隙間から暗い室内が見えた。しかし、やはり人の気配はない。
「出かけてるのかな」
呟いてから今度は木製の小さなポストに付けられた表札に目をやる。古めかしくてボロボロのそれは、昔と何も変わらない。主人はあんなにも変わってしまったというのに。
ヒルダはぼんやりとした瞳で、その表札を見つめた。
「ジークフリード、か」
彼の呼び名を呟く。
ジークフリード。それは彼の名前であり、彼の名前ではない。ドラゴンを倒した者へ敬意を表して贈られた英雄としての名、それが今の彼の名前、ジークフリードなのだ。不老不死の英雄になったあの日から、彼はジークフリードとなった。だから、今では誰もが彼をかつての名ではなくジークフリードと呼ぶ。
ヒルダは表札に視線を落としながらそこに書かれた名を、英雄になる前の彼の名を呼んだ。
「シグルス」
縋るような声。返事を返してくれる者はここにはいない。……もしかしたら、どこにもいない。
シグルスは、どこだろう。ヒルダが背中を預け、ヒルダに背中を預けた唯一無二のパートナーは、大切な親友は、今どこにいるのだろう。
いるのは英雄ジークフリード。もう彼女の理解も及ばぬ遠い存在になった彼は彼女を拒絶する。もう彼は彼女の背中を必要とはしていないのか、それとも、本当に彼は人々と一線を画そうとしているのか。
そこまで考えが至った瞬間、心の中の霞がザワザワと彼女の身体を侵食し始めた。少し汗ばむような陽気だというのに、ヒルダの肌が粟立つ。
……嫌だ。
ヒルダは素早く踵を返した。息は荒く頭は真っ白。近衛としての本日の任が終わり休息をとっていた背中の長槍を乱雑に抜き、町とは逆の方向へ草花を薙ぎ払いながら歩み出した。
どうすればいい。どうすれば彼に近づける?
彼との絆を過去の物にはしたくない。
もう戻れないなんて信じない。
英雄となった彼が遠のいてしまったというなら自ら近づけばいい。
まだ間に合うと、彼女は自分に言い聞かせた。
ヒルダにとって、彼はもとからこの町のヒーローだった。いつだって笑顔で、少なからずこの町に明るさを与えていた。だから、ジークフリードがドラゴンを倒し世界を救ったと聞いた時は安堵と共に妙に納得したものである。彼は私達だけではなく、世界の英雄になったのだと。
『あいつ、ドラゴンを倒したんだって!』
ヒルダはその朗報を聞いた日から毎日、日が昇ってから暮れるまで、町の入り口でジークフリードの帰りを待つという生活を続けた。一回り大きくなり輝きを増したであろう彼の帰還を待ち望んでいた。
(……でも)
昔を思い出しながらフラフラと歩き続けていたヒルダは、町はずれの小さな家の前で足を止める。その周辺からは人の気配はまるでしなかった。あの日から、ずっとこうだ。
あの日、ジークフリードはここに帰ってきた。ひどく憔悴した様子で。
『ど……どうし……た、の』
おかえり、なんて呑気に言えるような雰囲気ではなかった。異様なまでに淀んだ瞳をしたジークフリードにギョッと目を剥いて、ヒルダは慌てて彼に近づく。
何かあったのか、と必死に問いかけるヒルダに対してジークフリードは黙りこんでいた。十数年を共に生きてきたヒルダでさえ、こんなジークフリードは見たことがない。暗く、重い。まるで別人だ。
『と、とにかくうちにおいで。一緒に行こう』
『……いい』
『よくない! こんなにボロボロなのに』
そう言って伸ばした手は振り払われた。
他でもない、ジークフリード自身によって。
『お前には関係ないだろ』
それは酷く冷たい瞳だったと記憶している。
「……っ」
そこまで思い出して息がつまった。ドクドクと心臓が脈打って、ヒルダの眉間に皺が寄る。
あれからジークフリードは滅多に顔を見せない。ヒルダの手を振り払った後、自分の家に篭ってしまった。最初、英雄の帰還を聞いた町人達はジークフリードの家に押しかけて何とかジークフリードに話しかけようと躍起になっていたが、一切応答はなく成果もなし。次第に町人達は無駄を悟り、ジークフリードの家に押しかけることもなくなっていった。今やジークフリードの家に定期的に通いつめるのはヒルダだけである。
それからはたまに外に出ているのか、稀にジークフリードを目撃したという情報が寄せられた。ヒルダ自身も何度かジークフリードを見たことがある。しかし誰が声をかけても一瞥するか適当に返事をするだけで、すぐどこかへ行ってしまう。
その様子はまるで周りと距離を置こうとしているようだった。
特にヒルダが話しかけようとした時の対応は、一層酷いものだった。名を呼んでも完全に無視。話しかければ心底迷惑そうな顔をして、視線すら合わせようとはしなかった。
「……何で」
ヒルダは目の前の家を……ジークフリードの家を見つめながら悔しそうに拳を震わせた。
前なら、その扉を叩けば彼ががひょっこり顔を出した。それからニカリと笑って嬉しそうにヒルダの名前を呼ぶのだ。そんなに経っていないはずなのに、もう随分と昔のことのように感じた。
ヒルダはふらりとその家に近づき、扉には向かわずその横にあった小さな窓へ視線をやる。半端に閉められたカーテンの隙間から暗い室内が見えた。しかし、やはり人の気配はない。
「出かけてるのかな」
呟いてから今度は木製の小さなポストに付けられた表札に目をやる。古めかしくてボロボロのそれは、昔と何も変わらない。主人はあんなにも変わってしまったというのに。
ヒルダはぼんやりとした瞳で、その表札を見つめた。
「ジークフリード、か」
彼の呼び名を呟く。
ジークフリード。それは彼の名前であり、彼の名前ではない。ドラゴンを倒した者へ敬意を表して贈られた英雄としての名、それが今の彼の名前、ジークフリードなのだ。不老不死の英雄になったあの日から、彼はジークフリードとなった。だから、今では誰もが彼をかつての名ではなくジークフリードと呼ぶ。
ヒルダは表札に視線を落としながらそこに書かれた名を、英雄になる前の彼の名を呼んだ。
「シグルス」
縋るような声。返事を返してくれる者はここにはいない。……もしかしたら、どこにもいない。
シグルスは、どこだろう。ヒルダが背中を預け、ヒルダに背中を預けた唯一無二のパートナーは、大切な親友は、今どこにいるのだろう。
いるのは英雄ジークフリード。もう彼女の理解も及ばぬ遠い存在になった彼は彼女を拒絶する。もう彼は彼女の背中を必要とはしていないのか、それとも、本当に彼は人々と一線を画そうとしているのか。
そこまで考えが至った瞬間、心の中の霞がザワザワと彼女の身体を侵食し始めた。少し汗ばむような陽気だというのに、ヒルダの肌が粟立つ。
……嫌だ。
ヒルダは素早く踵を返した。息は荒く頭は真っ白。近衛としての本日の任が終わり休息をとっていた背中の長槍を乱雑に抜き、町とは逆の方向へ草花を薙ぎ払いながら歩み出した。
どうすればいい。どうすれば彼に近づける?
彼との絆を過去の物にはしたくない。
もう戻れないなんて信じない。
英雄となった彼が遠のいてしまったというなら自ら近づけばいい。
まだ間に合うと、彼女は自分に言い聞かせた。
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