第43話
「直次くんに古武術の型や体の動かし方の稽古をつけてもらうと、なんとなく仕事が楽になる、って」
事実そういう話がじょじょに伝わっていっているらしい。
「介護の人が腰に負担のかかる持ち方をしていたから、何か新しい方法はないかって、古武術の視点から提案してみただけだけどな」
直次は謙遜した。とはいえ、「古武術道場の坊主」は悠寿美苑では有名になってきた。ちなみにその呼び名は留吉老人が広めたものだ。介護職員もそれ以外の人々も面白がって話を聞いてくれる。
それだけではなく、介護職員をお年寄りに見立てた実際の移乗介助も直次は行っていた。これが想像以上に何度も繰り返すといい運動になり、介助する人を変え、見る人が変化し、そのまま延々と続けていると、かなりいい汗をかいた。
この直次が古武術の要素を取り入れて、実践と研究を重ねる移乗介助のコーナーは、特に大人気だった。
そんなふうに充実した毎日を送る中、今まで交流のなかった人々と交わったり、見たりするのは楽しかった。例えば、ある時こんな場面に出くわした。ストーンウオッシュの破れたジーンズを穿いている若い男性の介護職員を見て、いつも真面目な事務長が、廊下で厳しく注意をした。「そんな格好は介護に相応しくない」と。そこにたまたま通りかかった九十歳くらいのおばちゃんが、あの事務長を叱ったのだ。
「そんなことを言ってはいけませんよ……。貧しい家の子供というのはいるんですから」
どうやらそのおばあちゃんは、その叱られている彼と同じ年頃の娘時代、戦争を経験したらしい。そして、破れた服だけしか着れないほど貧しかったそうだ。それで、どうやらこのおばあちゃんは破れたジーパンがファッションではなく、お金がなくて新しいズボンが買えないためだと誤解したらしい。それぞれの年齢はだいたい二十歳、四十歳、九十歳くらいで、若い介護職員、事務長、老婆は、二倍、四倍と年が離れている。そんな年の離れた人たちが真剣に、時にはユーモアさえ感じさせる会話を見ているのは、直次には楽しかった。
そんなある日、
「タノモー!」
片言の外人の大音声が、玄関のほうから聞こえてきた。直次と寿美花が顔を見合わせていると、慌てた様子で受付の事務員が駆けてきた。
「日向さん、お知り合いだという方が見えましたよ?」
ふたりが玄関に行ってみると、柔道着に袴の金髪碧眼の大柄なカナダ人女性が立っていた。まさに仁王立ちといった感じで、いつもの愛嬌のある表情ではない。
「ノリツグ、ホウノウジアイ、キいたかだってばよっ?」
気迫のこもった眼差しで、アビゲイルがそう言った。
「え……ああ、聞いてるよ。夕飯の席で西園寺初依さんからさ。なんでもお袋から電話で聞いたらしいが、なにせ俺はもう道場を出た人間だし、関係ないから聞き流してたけど……。それがどうかしたのか?」
「シュツジョーはフタリだってばよ! シハンはジタイした。シハンダイはシュツジョーきめた。ノリツグとワタシ、どっちかだってばよっ!」
どうやら日向風姿流古武術道場の奉納試合の出場枠は、二つしかなく、師範代である直一が出場するため、残り一つは門下生である直次かアビゲイルかのどちらかになるらしい。
「だったら、アビー。お前が出たらいい。俺はもう……」
「Come on! Noritsugu!」
アビゲイルは真剣な表情で、いつもの片言の日本語ではなく、英語の発音で叫んだ。それほどアビゲイルの目は真剣だった。かかってこい、とでも言うように手招きをする。
「そっちがかかってこないなら、こっちからいくだってばよっ!」
アビゲイルが下駄を蹴るように脱ぎ捨て、のし掛かるように襲いかかってくるのを、太刀奪りの要領で横に躱し、直次は彼女の足に足を引っかけて投げ飛ばした。
勝負は一瞬で決した。
大音量と共に、老人ホームの玄関で大の字になって横たわる、稽古着姿のカナダ人。
その横に立つ直次は驚いたように呟いた。
「さっきのはマジで危なかったな……。まさか……この現代社会で太刀奪りの原理が役に立つなんてな……」
投げ飛ばされたのになぜか清々しい顔をしたアビゲイルは、
「シショーのケイコにマチガイはないってばよ!」
と威勢良く言った。それから涙が浮かびそうになった目元をごしごしと柔道着の袖で顔を拭うと、悔しげな表情を隠すようにして下駄を履いて、やって来た時同様に唐突に去っていった。
「直次くん、奉納試合頑張ってね」
寿美花の台詞に、直次は、はっとした。さっきの勝負とその勝利はそういう意味に違いない。今さらさっきのはなしだ、などと言ってアビゲイルを追いかけるわけにもいかない。
たまたま近くにいた利用者や職員たちが、やんややんやと喝采しながら口々に、「みんなで応援に駆けつけるね!」と言ってくれた。「毎日ボランティアをしてくれているお礼だ」と。そんな暖かい台詞の中、厳しい事務長の声が響いた。
「日向さん、遊ぶなら外でして下さい。老人ホームの玄関で取っ組み合いなんて二度としないで下さいね! いいですねっ?」
「……はい」
直次は、アビゲイルにも勝るとも劣らない事務長の気迫に押されてしゅんとなった。
事実そういう話がじょじょに伝わっていっているらしい。
「介護の人が腰に負担のかかる持ち方をしていたから、何か新しい方法はないかって、古武術の視点から提案してみただけだけどな」
直次は謙遜した。とはいえ、「古武術道場の坊主」は悠寿美苑では有名になってきた。ちなみにその呼び名は留吉老人が広めたものだ。介護職員もそれ以外の人々も面白がって話を聞いてくれる。
それだけではなく、介護職員をお年寄りに見立てた実際の移乗介助も直次は行っていた。これが想像以上に何度も繰り返すといい運動になり、介助する人を変え、見る人が変化し、そのまま延々と続けていると、かなりいい汗をかいた。
この直次が古武術の要素を取り入れて、実践と研究を重ねる移乗介助のコーナーは、特に大人気だった。
そんなふうに充実した毎日を送る中、今まで交流のなかった人々と交わったり、見たりするのは楽しかった。例えば、ある時こんな場面に出くわした。ストーンウオッシュの破れたジーンズを穿いている若い男性の介護職員を見て、いつも真面目な事務長が、廊下で厳しく注意をした。「そんな格好は介護に相応しくない」と。そこにたまたま通りかかった九十歳くらいのおばちゃんが、あの事務長を叱ったのだ。
「そんなことを言ってはいけませんよ……。貧しい家の子供というのはいるんですから」
どうやらそのおばあちゃんは、その叱られている彼と同じ年頃の娘時代、戦争を経験したらしい。そして、破れた服だけしか着れないほど貧しかったそうだ。それで、どうやらこのおばあちゃんは破れたジーパンがファッションではなく、お金がなくて新しいズボンが買えないためだと誤解したらしい。それぞれの年齢はだいたい二十歳、四十歳、九十歳くらいで、若い介護職員、事務長、老婆は、二倍、四倍と年が離れている。そんな年の離れた人たちが真剣に、時にはユーモアさえ感じさせる会話を見ているのは、直次には楽しかった。
そんなある日、
「タノモー!」
片言の外人の大音声が、玄関のほうから聞こえてきた。直次と寿美花が顔を見合わせていると、慌てた様子で受付の事務員が駆けてきた。
「日向さん、お知り合いだという方が見えましたよ?」
ふたりが玄関に行ってみると、柔道着に袴の金髪碧眼の大柄なカナダ人女性が立っていた。まさに仁王立ちといった感じで、いつもの愛嬌のある表情ではない。
「ノリツグ、ホウノウジアイ、キいたかだってばよっ?」
気迫のこもった眼差しで、アビゲイルがそう言った。
「え……ああ、聞いてるよ。夕飯の席で西園寺初依さんからさ。なんでもお袋から電話で聞いたらしいが、なにせ俺はもう道場を出た人間だし、関係ないから聞き流してたけど……。それがどうかしたのか?」
「シュツジョーはフタリだってばよ! シハンはジタイした。シハンダイはシュツジョーきめた。ノリツグとワタシ、どっちかだってばよっ!」
どうやら日向風姿流古武術道場の奉納試合の出場枠は、二つしかなく、師範代である直一が出場するため、残り一つは門下生である直次かアビゲイルかのどちらかになるらしい。
「だったら、アビー。お前が出たらいい。俺はもう……」
「Come on! Noritsugu!」
アビゲイルは真剣な表情で、いつもの片言の日本語ではなく、英語の発音で叫んだ。それほどアビゲイルの目は真剣だった。かかってこい、とでも言うように手招きをする。
「そっちがかかってこないなら、こっちからいくだってばよっ!」
アビゲイルが下駄を蹴るように脱ぎ捨て、のし掛かるように襲いかかってくるのを、太刀奪りの要領で横に躱し、直次は彼女の足に足を引っかけて投げ飛ばした。
勝負は一瞬で決した。
大音量と共に、老人ホームの玄関で大の字になって横たわる、稽古着姿のカナダ人。
その横に立つ直次は驚いたように呟いた。
「さっきのはマジで危なかったな……。まさか……この現代社会で太刀奪りの原理が役に立つなんてな……」
投げ飛ばされたのになぜか清々しい顔をしたアビゲイルは、
「シショーのケイコにマチガイはないってばよ!」
と威勢良く言った。それから涙が浮かびそうになった目元をごしごしと柔道着の袖で顔を拭うと、悔しげな表情を隠すようにして下駄を履いて、やって来た時同様に唐突に去っていった。
「直次くん、奉納試合頑張ってね」
寿美花の台詞に、直次は、はっとした。さっきの勝負とその勝利はそういう意味に違いない。今さらさっきのはなしだ、などと言ってアビゲイルを追いかけるわけにもいかない。
たまたま近くにいた利用者や職員たちが、やんややんやと喝采しながら口々に、「みんなで応援に駆けつけるね!」と言ってくれた。「毎日ボランティアをしてくれているお礼だ」と。そんな暖かい台詞の中、厳しい事務長の声が響いた。
「日向さん、遊ぶなら外でして下さい。老人ホームの玄関で取っ組み合いなんて二度としないで下さいね! いいですねっ?」
「……はい」
直次は、アビゲイルにも勝るとも劣らない事務長の気迫に押されてしゅんとなった。
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