第7話
「人ね。ヒューマンならまだよかったんだが……」
母国語なのか、英語の発音は日本語よりもよほどスムーズ。
彼の目は、一心に、扉――連結部の扉に向かっている。
ぼくも――ぼくの背後にいる老人と少女も――全員の視線がそこに集中しているのがわかる。
「……ん?」
ぼくは一瞬、見間違えかと思った。
踏切ひとつなく、電車は常に軽快に走り続けている。まったく減速せず、鉄橋が車内に投げかける格子模様は急速にうしろへと流れていく。
その中にひとつ、黒い影が映ったのだ。それも……巨大な……大きさを例える言葉がいまいち浮かばない。実際は巨大な熊程度、三メートルほどだったのかもしれないが――もっとも近い実感をこたえるなら、
どこともしれない海に流されて漂流し、その底にいるという巨大な海洋生物が――クジラとかダイオウイカとか、そういったものが現れそうになった――ような表現のしようのない恐怖。おばけもそうだが、現れそうで現れないほうが怖い。
このとき、ぼくが感じた黒い影は、夕陽を切り取ったそれは――まさにそういった恐怖の類だった。
目をそちらに向けるのが怖い。
どう考えても、……連結部ではなく、窓の外にる。高速で走っている電車にへばりついている〝なにか〟。
ぼくより数瞬遅れてだが、ハーフも、ピュアもストリートもそれに気づいた。
気づいたのに、全員固まったように、まだ連結部を見つめている。
もう明らかに、これは見間違えなどではない。
ずっと朱色の光が差しこんでいた、赤茶色とベージュの色彩の車内に、真っ黒い影が落ちている。窓をいくつかふさぐほどの大きさ。
「……来やがったか……」
頬の傷跡で血と汗がまじり、それが流れるのが見えた。
とても白目の目立つ顔をした隣に立つ男はいった。
「逃げるぞ……」
男はそういうと、来た方向とは逆向きに走りだした。
ぼくも思わず従う。ストリートも走りだした。
が。
「ま、待って……!」
ピュアの声がした。
振り向くと――――
ぼくは、思わず固まった。
いつのまにかしゃがみ込んでしまった女子高生の背後には、黒い巨大な影――霧? 実体をもたないような、もやもやとしたものが固まっていた。その底なし沼を思わせるような不気味な怪物は、巨大な目を見開き、じっとこちらを観察していた。
ピュアは背後にいるそいつには気づいてないらしいが、もうやつと彼女との距離はほんのわずかしかない。
「ピュアさん! 走って! うしろに!」
ぼくのその声で、泣きそうな顔をしていた彼女の顔が凍りつく。
余計なことをいってしまったらしい。
もう彼女は動けまいと、ぼくが直感したとき、横を黒い影が走った。それはあの黒い肌をした男。
「掴まれ!」
「は、はい!」
刺青の入った腕を伸ばし、ピュアの手を掴む。
腰が抜けたような彼女は、それでなんとか腰を浮かす。
が、男も焦っているらしく、なかなか彼女を引っ張って走り出せない。
そうこうしているうちに、巨大な怪物は黒い触手のようなものを伸ばしてきた――最初はウニのように尖っていたのに、そのうちの一本が紐のようになって彼女の足首にまとわりついた。
「痛っ!」
彼女の悲鳴。
触手はすぐに元に戻ったが、そこにはくっきりと、血の跡がのぞいていた。破かれた紺のソックスの下には、男の頬にあるのと同じ切り傷。
どうやらやっぱりこの切り傷をつけたのは、あの怪物の仕業だったらしい。
足をケガした彼女は、そのケガの重さ以上に、恐怖で足がすくんだらしい。
目にいっぱいの涙が溜まり、泣き叫ぶ。
「助けて! 誰か助けて!」
目の前にいる男は必死に引っ張っているが、彼自身、あの怪物に恐怖を感じているらしく、うまく手足が動かせていない。力もあまり入らないようだった。
単純な大きさもそうだが、こんな見たこともない怪物に、日常風景である車内で襲われたら、誰だって混乱することだろう。
ぼく自身、恐怖に足がすくんでいた。
「ほれ! わしの手も掴め!」
いつのまにか老人も駆け寄り、男が握っていないほうの手を握って、同時に引っ張った。
少女の足は一歩動くと、あとは軽快に走りだした。
三人は急いでこちらに向かって走ってくる。
連結部の前で棒立ちしていたぼくは、そのまま、恐怖に歪んだ顔をした彼らと正面衝突した。
「ば……ばかぁ……っ!」
彼女の泣き声。ぼくの上に乗っかった彼女と、左右に倒れた老人と男。
ぼくが逃げもせず、よけもせずに立っていたため、ぶつかってしまったのだ。
「なんであんた逃げないのよ! せめて避けなさいよ!」
怒鳴り続けるが、彼女は泣いていた。怒鳴るというよりも泣き喚くといったほうが正解だろう。
「……シット! まさかこんな訳わからない状態で死ぬのか、おれは」
頬から血を流す男がわめく。
「……まずいのぅ。……せめてあんたらだけでも逃げなさい。わしは一度倒れると起き上がるのに時間がかかる。腰を痛めているからな」
ストリートがぼくの顔を見る。
ぼくは…………
恐怖に歪む彼らの顔を見て、
すっとした。
今まで溜まっていた鬱憤が晴れるように。
母国語なのか、英語の発音は日本語よりもよほどスムーズ。
彼の目は、一心に、扉――連結部の扉に向かっている。
ぼくも――ぼくの背後にいる老人と少女も――全員の視線がそこに集中しているのがわかる。
「……ん?」
ぼくは一瞬、見間違えかと思った。
踏切ひとつなく、電車は常に軽快に走り続けている。まったく減速せず、鉄橋が車内に投げかける格子模様は急速にうしろへと流れていく。
その中にひとつ、黒い影が映ったのだ。それも……巨大な……大きさを例える言葉がいまいち浮かばない。実際は巨大な熊程度、三メートルほどだったのかもしれないが――もっとも近い実感をこたえるなら、
どこともしれない海に流されて漂流し、その底にいるという巨大な海洋生物が――クジラとかダイオウイカとか、そういったものが現れそうになった――ような表現のしようのない恐怖。おばけもそうだが、現れそうで現れないほうが怖い。
このとき、ぼくが感じた黒い影は、夕陽を切り取ったそれは――まさにそういった恐怖の類だった。
目をそちらに向けるのが怖い。
どう考えても、……連結部ではなく、窓の外にる。高速で走っている電車にへばりついている〝なにか〟。
ぼくより数瞬遅れてだが、ハーフも、ピュアもストリートもそれに気づいた。
気づいたのに、全員固まったように、まだ連結部を見つめている。
もう明らかに、これは見間違えなどではない。
ずっと朱色の光が差しこんでいた、赤茶色とベージュの色彩の車内に、真っ黒い影が落ちている。窓をいくつかふさぐほどの大きさ。
「……来やがったか……」
頬の傷跡で血と汗がまじり、それが流れるのが見えた。
とても白目の目立つ顔をした隣に立つ男はいった。
「逃げるぞ……」
男はそういうと、来た方向とは逆向きに走りだした。
ぼくも思わず従う。ストリートも走りだした。
が。
「ま、待って……!」
ピュアの声がした。
振り向くと――――
ぼくは、思わず固まった。
いつのまにかしゃがみ込んでしまった女子高生の背後には、黒い巨大な影――霧? 実体をもたないような、もやもやとしたものが固まっていた。その底なし沼を思わせるような不気味な怪物は、巨大な目を見開き、じっとこちらを観察していた。
ピュアは背後にいるそいつには気づいてないらしいが、もうやつと彼女との距離はほんのわずかしかない。
「ピュアさん! 走って! うしろに!」
ぼくのその声で、泣きそうな顔をしていた彼女の顔が凍りつく。
余計なことをいってしまったらしい。
もう彼女は動けまいと、ぼくが直感したとき、横を黒い影が走った。それはあの黒い肌をした男。
「掴まれ!」
「は、はい!」
刺青の入った腕を伸ばし、ピュアの手を掴む。
腰が抜けたような彼女は、それでなんとか腰を浮かす。
が、男も焦っているらしく、なかなか彼女を引っ張って走り出せない。
そうこうしているうちに、巨大な怪物は黒い触手のようなものを伸ばしてきた――最初はウニのように尖っていたのに、そのうちの一本が紐のようになって彼女の足首にまとわりついた。
「痛っ!」
彼女の悲鳴。
触手はすぐに元に戻ったが、そこにはくっきりと、血の跡がのぞいていた。破かれた紺のソックスの下には、男の頬にあるのと同じ切り傷。
どうやらやっぱりこの切り傷をつけたのは、あの怪物の仕業だったらしい。
足をケガした彼女は、そのケガの重さ以上に、恐怖で足がすくんだらしい。
目にいっぱいの涙が溜まり、泣き叫ぶ。
「助けて! 誰か助けて!」
目の前にいる男は必死に引っ張っているが、彼自身、あの怪物に恐怖を感じているらしく、うまく手足が動かせていない。力もあまり入らないようだった。
単純な大きさもそうだが、こんな見たこともない怪物に、日常風景である車内で襲われたら、誰だって混乱することだろう。
ぼく自身、恐怖に足がすくんでいた。
「ほれ! わしの手も掴め!」
いつのまにか老人も駆け寄り、男が握っていないほうの手を握って、同時に引っ張った。
少女の足は一歩動くと、あとは軽快に走りだした。
三人は急いでこちらに向かって走ってくる。
連結部の前で棒立ちしていたぼくは、そのまま、恐怖に歪んだ顔をした彼らと正面衝突した。
「ば……ばかぁ……っ!」
彼女の泣き声。ぼくの上に乗っかった彼女と、左右に倒れた老人と男。
ぼくが逃げもせず、よけもせずに立っていたため、ぶつかってしまったのだ。
「なんであんた逃げないのよ! せめて避けなさいよ!」
怒鳴り続けるが、彼女は泣いていた。怒鳴るというよりも泣き喚くといったほうが正解だろう。
「……シット! まさかこんな訳わからない状態で死ぬのか、おれは」
頬から血を流す男がわめく。
「……まずいのぅ。……せめてあんたらだけでも逃げなさい。わしは一度倒れると起き上がるのに時間がかかる。腰を痛めているからな」
ストリートがぼくの顔を見る。
ぼくは…………
恐怖に歪む彼らの顔を見て、
すっとした。
今まで溜まっていた鬱憤が晴れるように。
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