第2話
――おっかしいな。ぼくって、今制服を着てるし、夕暮れってことは学校帰りのはずだけど……。
だけど学生鞄は持っていなかった。たぶん座席に置き忘れたなどということもない。
どうやら彼女も身ひとつのようだ。
彼女は、嘆き悲しんでいた状態から、じょじょに正気に戻ってきたらしく、ふいに尋ねてきた。
「…………あなた、誰?」
「誰なんでしょう?」
「尋ねるならまず自分から名乗れってこと?」
ぼくが疑問に疑問で返したので、彼女はそんなふうにちょっと尖った声を出した。ぼくは慌てて、
「いや。べつにそういうわけでは……。名前が思い出せないんです。すみません」
「…………あれ?」
彼女が今度は驚く番だった。
「うそ」
「……もしかして、あなたもお名前が思い出せないのですか?」
「…………うん」
不承不承といった様子で、黒い頭がゆっくりと上下した。その表情は、にわかに青くなっている。
そりゃそうだろう。誰だっていきなり記憶喪失になどなったらびっくりする。
「あの不躾な質問だとは思うのですが、あなたはどうして先ほど泣いてらしたんですか?」
「え?」
「そのお顔から察するに、ずいぶんと長く泣いてらしたようにお見受けしますが」
少女は自分の顔を指先で触り、また驚いた顔をした。
「泣いてる……あれ、なんで……わたし、なんで……?」
本当に理由がわからないらしく目を丸くしていた。
というか、理由もわからずにあれほど大泣きできるってのは凄いことのように思う。
いや。そもそもぼくだって、いつなんの目的でこの電車に乗ったのかわからないんだから、人のことはいえないか。
「それと、ふたつほど質問があるのですが」
「なに? っていうか――さっきからなんなのその口調」
「口調?」
ぼくは首をかしげた。
「『人様に話しかけるときは丁寧に』。これはぼくの両親と祖父母の教育方針でして」
「……ふぅん」
なんだか納得できないような、あまり関わり合いになりたくないような微妙に距離を感じさせる生返事が返ってきた。
「まあ、そんなのどうでもいっか。――で。質問ってなに?」
「いつからこの電車に乗ってますか?」
「いつから?」
彼女は携帯かなにかを取りだそうとしたが、なかったらしい。スカートのポケットに突っ込んだ手を外に出す。それから自分の近くに鞄がないかもチェックした。
「わたしのカバン知らない?」
「いいえ」
「…………。夕暮れ、から、かなあ。……なんとなく泣いている間中、車内がセピア色だった覚えがある。今みたいに」
「ずいぶん長い間泣いていたんでしょう? なのに、その間ずっと夕陽は沈む直前のまま、だったわけですか?」
「……ええ……たぶん」
曖昧にうなずく。
「もうひとつの質問ってのはなに?」
「この川、ご存じですか?」
「川……――――」
ひとつの車窓に顔を並べて見入る。向こう岸さえ見えない巨大な川を見て、息を飲んだまま沈黙した彼女は、――結局ぼくの質問には答えなかった。
「名前、決めない?」
赤茶色の、クッション性に乏しい座席に並んで腰かけ、黙っているとふいに彼女がそういってきた。
「っていうか、あなた、男なんだから、こういう非常事態のときこそびしびしと行動してよ」
「はぁ」
ぼくはうなずいたのだが、彼女はげんなりした顔で、ひとつため息を吐いた。
「……なんなのいったい、あんたって。頭来るほど丁寧語だし、この状況を受け入れているのか諦めているのか」
「受け入れてもいませんし、諦めてもいませんよ?」
「だったら! なおさらじゃない! なんでそんなふうに座席に座ったままなにもせずぼけっとしてるのよ!?」
「すみません」
「あんた、年いくつ?」
「十七です」
「あたしは十六。……ねえ、年下にこんだけいわれて腹立つとかも思わないわけ?」
「ええ。年長者を敬うのは大事ですが、それを他者に強要しようとは思いません」
「なによ、それ。それもご両親とお祖父様お祖母様の教育の賜物ってわけ?」
「そうです。ぼくが立派な大人になれるように、心を鬼にして、いいたくないけどいって下さっているのです」
「…………本気でいってるの?」
「はい。家族みんなそういっていますよ? 『すべてあなたのためだ』『立派な大人になるように』『いいたくないけど仕方ないからいっている』というふうに……」
「あっそ。……で、あんたはそういうときどう返すの?」
「もちろん感謝です。ありがとうございます、と」
「…………」
時間が経ったため泣きはらした赤らんだ顔は、じょじょに白くなってきていた。その顔を歪め、
「ねえ、あだ名を決めたわ。あなたのあだ名」
「はあ」
「どうせお互いに名前も思い出せそうにないし。『サンクス』でいいんじゃない? ねえ、それでいいでしょ、サンクス君。いつも『ありがとう』ばっかいっているなら」
意地悪な顔をした年下の少女に向かって、ぼくは頭を下げました。
「ありがとうございます。記憶喪失になったぼくのために、ぼくの代わりに名前を考えて下さって。これからは気軽にサンクスと呼んで下さい」
「…………きもっ」
少女は短く吐き捨てた。
だけど学生鞄は持っていなかった。たぶん座席に置き忘れたなどということもない。
どうやら彼女も身ひとつのようだ。
彼女は、嘆き悲しんでいた状態から、じょじょに正気に戻ってきたらしく、ふいに尋ねてきた。
「…………あなた、誰?」
「誰なんでしょう?」
「尋ねるならまず自分から名乗れってこと?」
ぼくが疑問に疑問で返したので、彼女はそんなふうにちょっと尖った声を出した。ぼくは慌てて、
「いや。べつにそういうわけでは……。名前が思い出せないんです。すみません」
「…………あれ?」
彼女が今度は驚く番だった。
「うそ」
「……もしかして、あなたもお名前が思い出せないのですか?」
「…………うん」
不承不承といった様子で、黒い頭がゆっくりと上下した。その表情は、にわかに青くなっている。
そりゃそうだろう。誰だっていきなり記憶喪失になどなったらびっくりする。
「あの不躾な質問だとは思うのですが、あなたはどうして先ほど泣いてらしたんですか?」
「え?」
「そのお顔から察するに、ずいぶんと長く泣いてらしたようにお見受けしますが」
少女は自分の顔を指先で触り、また驚いた顔をした。
「泣いてる……あれ、なんで……わたし、なんで……?」
本当に理由がわからないらしく目を丸くしていた。
というか、理由もわからずにあれほど大泣きできるってのは凄いことのように思う。
いや。そもそもぼくだって、いつなんの目的でこの電車に乗ったのかわからないんだから、人のことはいえないか。
「それと、ふたつほど質問があるのですが」
「なに? っていうか――さっきからなんなのその口調」
「口調?」
ぼくは首をかしげた。
「『人様に話しかけるときは丁寧に』。これはぼくの両親と祖父母の教育方針でして」
「……ふぅん」
なんだか納得できないような、あまり関わり合いになりたくないような微妙に距離を感じさせる生返事が返ってきた。
「まあ、そんなのどうでもいっか。――で。質問ってなに?」
「いつからこの電車に乗ってますか?」
「いつから?」
彼女は携帯かなにかを取りだそうとしたが、なかったらしい。スカートのポケットに突っ込んだ手を外に出す。それから自分の近くに鞄がないかもチェックした。
「わたしのカバン知らない?」
「いいえ」
「…………。夕暮れ、から、かなあ。……なんとなく泣いている間中、車内がセピア色だった覚えがある。今みたいに」
「ずいぶん長い間泣いていたんでしょう? なのに、その間ずっと夕陽は沈む直前のまま、だったわけですか?」
「……ええ……たぶん」
曖昧にうなずく。
「もうひとつの質問ってのはなに?」
「この川、ご存じですか?」
「川……――――」
ひとつの車窓に顔を並べて見入る。向こう岸さえ見えない巨大な川を見て、息を飲んだまま沈黙した彼女は、――結局ぼくの質問には答えなかった。
「名前、決めない?」
赤茶色の、クッション性に乏しい座席に並んで腰かけ、黙っているとふいに彼女がそういってきた。
「っていうか、あなた、男なんだから、こういう非常事態のときこそびしびしと行動してよ」
「はぁ」
ぼくはうなずいたのだが、彼女はげんなりした顔で、ひとつため息を吐いた。
「……なんなのいったい、あんたって。頭来るほど丁寧語だし、この状況を受け入れているのか諦めているのか」
「受け入れてもいませんし、諦めてもいませんよ?」
「だったら! なおさらじゃない! なんでそんなふうに座席に座ったままなにもせずぼけっとしてるのよ!?」
「すみません」
「あんた、年いくつ?」
「十七です」
「あたしは十六。……ねえ、年下にこんだけいわれて腹立つとかも思わないわけ?」
「ええ。年長者を敬うのは大事ですが、それを他者に強要しようとは思いません」
「なによ、それ。それもご両親とお祖父様お祖母様の教育の賜物ってわけ?」
「そうです。ぼくが立派な大人になれるように、心を鬼にして、いいたくないけどいって下さっているのです」
「…………本気でいってるの?」
「はい。家族みんなそういっていますよ? 『すべてあなたのためだ』『立派な大人になるように』『いいたくないけど仕方ないからいっている』というふうに……」
「あっそ。……で、あんたはそういうときどう返すの?」
「もちろん感謝です。ありがとうございます、と」
「…………」
時間が経ったため泣きはらした赤らんだ顔は、じょじょに白くなってきていた。その顔を歪め、
「ねえ、あだ名を決めたわ。あなたのあだ名」
「はあ」
「どうせお互いに名前も思い出せそうにないし。『サンクス』でいいんじゃない? ねえ、それでいいでしょ、サンクス君。いつも『ありがとう』ばっかいっているなら」
意地悪な顔をした年下の少女に向かって、ぼくは頭を下げました。
「ありがとうございます。記憶喪失になったぼくのために、ぼくの代わりに名前を考えて下さって。これからは気軽にサンクスと呼んで下さい」
「…………きもっ」
少女は短く吐き捨てた。
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