ネット喫茶.com

オリジナル小説や二次創作、エッセイ等、自由に投稿できるサイトです。

メニュー

口を塞いで

ジャンル: その他 作者: さえもん
目次

口を塞いで

 同僚の中沢さんが私の椅子に躓いてよろめき、懸命に踏みとどまろうとしたのも虚しくついには悲鳴とともに転んだのを見て、私は大声で笑った。
「あっはっは、派手に転んじゃったあ」
 すると離れた席から聞いていた吉原部長が珍しく激昂し、怒鳴った。
「丸山さんっ、君に人を思いやる心はないのかっ」
 周囲は沈黙し、私は青ざめた。膝をさすりながら起き上がった中沢さんが、素早く答えた。
「私は大丈夫です! ご心配ありがとうございます」
 向かい席の内海君が立ち上がって彼女を覗き込み、優しく尋ねた。
「本当に大丈夫なの、中沢さん」
「うん。ありがとう内海さん。本当に平気よ。丸山さんもね、気にすることないから」
 私は小さくうなずいたが、顔を上げることができなかった。吉原部長を「怒鳴りつけるなんてパワハラです」とやり込めてやりたかったが、さすがに言えなかった。
 またやってしまった。
 思いやりのないことを言ってしまっては後悔し、事あるごとに「私は短気で困っちゃう」とか「牛乳嫌いでカルシウムが足りないみたい」などと自虐して周囲への印象操作に努めてきたが、もう限界かもしれない。
「丸山さん。これ」
 パソコンのキーボードを眺めながら辛気臭い顔で悩む私に、内海君が何かを差し出した。
「なにこれ。使い捨てマスクだよね」
 受け取ったものは、どう見ても使用前の使い捨てマスクだった。
「マスクが案外効くんだよ、丸山さん。口を慎みたいときには。これ、僕の予備だから」
「内海君、いつもマスクなんてしてないじゃない」
「たまに喉が痛いときなんかは、することもあるよ」
「んー。でも、こんなのが効くわけないし、気持ちだけもらっとく」
「だまされたと思って一度試してみて。効くよ」
 内海君は私の同期だった。初めて会ったときから物静かで、議論でも提案や発言をしない姿勢が一貫していて、出世しなさそうな社員だった。同期の飲み会も欠席することが多く、そんな彼が珍しく強引なことに私は興味を引かれた。
「慰め方も微妙なんだから。まあどうせ気休めなんだろうけど、もらうかな。ありがと」
 少しは感謝の念を覚えて私はマスクを受け取り、さっそく顔に着けた。
「似合うね、丸山さん。きっと効くよ」
「マスクが似合うって何だ、つまり私の口の形が悪いって言いたいわけね。でも気のせいだって分かってるけど、落ち着くような気がするかも」
 それを見ていた隣の席の中沢さんが、あくびをかみ殺した。
「ふうん。面白いね。私の眠気にも効かないかな」
 私はそれにいつもの調子で、「不眠症か」と返そうとした。
 が、私の唇が、急に痺れた。そして、口から別の言葉が出た。
「眠そうね。今日はどうしたの……あれ」
 私は驚いて口を閉じた。普段の私ならこんな言葉はかけなかった。
 中沢さんも意外そうな顔をしたが、きちんと返事をしてくれた。
「実は昨日、彼氏と喧嘩したのよ」
「……かわいそう。眠れなかったのね」
 またもや私の口から適切な言葉があふれ出した。
 内海君が微笑と共に席を立った。
「丸山さん優しいね。そうなの。ちょっと聞いて……」
 その後、いつもとは毛色の違う会話が続き、双方実に和やかな表情で仕事に戻ったのだった。
 私が首を傾げながらお茶を入れに給湯室に行くと、内海君がコーヒーかなにかをかき混ぜているところだった。
「丸山さん。マスク、効いたでしょ」
 内海君は私を一瞥し、さわやかに笑った。
「いや、効いたっていうか。すごすぎ」
「悪いものじゃないよ。僕は使わないから、後で箱ごとあげるよ」
「……うん」
 それから私は毎日風邪予防を口実にマスクを装着し、その効果を実感し続けた。
 失言をしないことの効果を。
「大ニュース。内海君。私、女子会に誘われたよ」
 周囲に誰もいないときにささやくと、内海君は、書類を見つめたまま返事をした。
「そうなんだ。良かったね」
「あなたのおかげ」
「大したことじゃない」
「あ、忙しそう。何かあったの」
「始末書作成中。結構でかいミスを」
「……元気出して。大変だね、手伝えることあるかな」
 内海君は顔を上げた。
「ああ、ありがとう。僕は元気だから」
 冷めた笑顔が、私のマスクに向けられていた。
 私達の会話はそこで終わった。
 やがて、内海君がマグカップを持って席を立った。その背中を見送り、私も立った。
 そして給湯室でコーヒーを入れる内海君のわき腹に、私は肘鉄を入れた。
「ぐおっ。丸山さん、なにするの」
「でかいミスか。やるね、さすが同期のダークホース内海」
「……う、うん。どうも」
「私もそれぐらい目立ちたいよ」
 内海君は眉を上げて私を凝視し、それから笑い出した。
「何で笑う。錯乱するほどの大きなミスなわけ」
 それは心底愉快そうな、初めて見る笑顔だった。
「このマスクでも、丸山さんには勝てなかった」
 内海君は手を伸ばし、私のマスクを取った。
目次

※会員登録するとコメントが書き込める様になります。