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目印

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: さえもん
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目印

 俺は明という者だが、人の顔を覚えることができない。
 いや、全く覚えられないわけではないが、人の顔の印象というものがまるで残らず、覚えるまでとにかく時間がかかる。
 俺はこれを弱みと考え、秘密にしていた。が、結婚を前提に二年も付き合ってくれている容子にだけは、思い切って伝えることにした。
「衝撃だわ。そんな人いるんだ。でも、言われてみれば」
 容子は頭を抱えた。
 そろそろプロポーズをと期待をしていたはずだが、その前菜にこんな打ち明け話が出てきては、ショックだろうとも。
「思い当たるか、やっぱ」
「黙ってたんだけど、お母さんが電車で明君に会ったのに無視されたって」
 俺は天を仰いだ。
「ごめん。何十回も会えば覚えられるんだけど、場所が変わると分からないことがある」
「それならそうと。大体どうして黙ってたの。覚えられないことが悪いんじゃなくて、黙ってたことがさ」
 容子の怒りはもっともだった。謝る以外に、俺ができることはなかった。
「ごめんな。言えなかった」
「それは分かる。分かるけど」
「ごめん。格好悪いし、容子にだけは嫌われたくなかったんだ」
 俺は謝罪を繰り返し、容子は徐々に落ち着いた。
「もういい。言ってくれてありがとう」
「悪かった」
「もういいから。……それにしてもうまくごまかしていたわね。つまり何よ、明君は私の顔もわからないの」
「何日か会わないと思い出せないこともあるが、体格や立ち姿で識別はできているぞ」
 俺は胸を張った。
「いばって言うことかしら。違う、顔よ。私の顔」
「実はぼんやりとしか覚えていないが、見れば分かる。美人を探せばそれが容子だ」
 俺は真顔で褒めた。
 容子は表情を崩さなかったが、頬がうっすら赤くなった。
「まあ……好みはあるわけね」
「容子は振る舞いはがさつでも、頬のシミを気にしてるから帽子か日傘も目印になる……しな」
 俺は告白を済ませたことで、気が緩んでいたらしい。
 失言に気づいたときは、もう言葉が出てしまった後だった。
「よく聞こえなかった。もう一度言って」
「ご、ごめんなさい。取り消します」
「ふん。でも、やっぱりシミ、目立ってきたかな」
「いやいや、俺は見慣れているから。薄いしよく見ないと分からない」
 頬を手のひらで隠そうとする容子を前に、俺は慌てて取り繕おうとした。雑踏で待ち合わせるときなど、頬をさり気なく確認してから声をかけることもあるなどとは、絶対に言えなかった。
 謝らなくてはと思ったのに、意外にも容子は笑った。
「安心した。明君は、私の顔以外が好きってことなんだ」
「どうしてそれで安心するわけ」
「だってさあ」
 その態度に、俺は却って慎重になった。たった今、俺にとって重大な欠点を打ち明け、失言までしたのに、彼女には気にしている様子がない。それどころか以前にもまして馴れ馴れしい。
「なあ、結婚はもう少し時間を置かないか」
「どうしてよ」
 彼女の母親ですら無視してしまった俺だ。仕事だってこれが原因で奇妙に思われることがあるし、結婚なんかしたら、親戚づきあい、近所づきあいも困るのではないか。
「確かに、俺は容子との結婚したいよ。でも、そちらにも俺が相手にふさわしいかどうか、よく考えて欲しいんだ」
 容子は不満そうだったが、また会う約束をしてその日は別れた。
 一週間後、俺は実家暮らしの容子の家を訪ねた。
 立て替えどきの木造住宅の玄関のチャイムを鳴らしたが、返事がなかった。珍しいことでもないので、俺は遠慮なく引き戸を開いた。
「ごめんください。明です」
 薄暗い家の中は木材に塗るワックスの香りがかすかに漂い、そして静かだった。しかし鍵が開いているのだから、無人ではないはずだ。
「容子さん、いますか」
 すると家の奥で微かな音がし、また静まり返った。俺は眉をひそめて立ち尽くした。
 容子は俺が来るのを知っているはずだが、返事もないとはどうしたことだろう。まさか体調不良で動けず、否、鍵も脆そうな家の事だ。強盗が入っているのかも知れない。縛り上げられた容子が精一杯の助けを求めているのではないだろうか。
 俺は普段、他人の家に黙って入ったりはしないが、靴を脱ぐ用意をした。そしてもう一度呼んだ。
「容子さん」
 耳を澄ませていると、奥から物音がし、容子の声で返事があった。俺は安心して力を抜いた。
「ごめんなさい。つい寝ちゃって」
「わっ」
 小走りで出てきた来た容子に、笑顔を返そうとした俺は固まった。
 容子の顔には、一面に真っ白い紙が貼り付いていた。
 彼女は怪訝そうに顔を触り、次の瞬間、叫んで洗面所の方に引っ込んだ。
「どうしたんだ」
 大声で尋ねた俺に、声が応じた。
「パックしてた。美白」
「美白?」
「シミ消し!」
 ああ。
 俺のせいだ。
 だが、いつもあれなら見分けやすくもあった。
 悪くない。
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