未来
家で過ごす記念日ディナーを終わらせ、風呂を終えた御幸は、リビングへ向かう前に、自室へ寄って小さな箱をポケットに入れた。
リビングでは、先に風呂を済ませていた沢村が、テレビを見ながらソファでくつろいでいる。
「あ、先輩、出てきた。プリン食べる?」
近寄る御幸にそう問う彼は、いつもの表情と少し違った。御幸はその目を知っていた。彼が、不安を感じている目だった。
「んー、後でいいかな」
そう答え、御幸は沢村の右隣に腰を掛けて、テレビのリモコンを持ち上げた。テレビは沢村の興味のなさそうな番組で、とりあえず流しているだけのようだった。
「消していい?」
そう問うと、沢村は「んー」とだけ相槌を打ち、さりげなくスマートフォンを手に取って操作を始める。
御幸はテレビを消し、沢村との距離を、グイと近づけた。
「なぁ沢村。何不安に思ってんの」
そう問うと、沢村の手が止まる。どうやら図星のようだ。
「お前の目が泳いでんの、わかんの俺」
先ほどまでの記念日ディナーは違和感なくその場を楽しめていた。沢村の表情も明るく、美味しそうに頬張っていた。だが、互いに風呂に入っている間、彼の中で何かの葛藤が生まれたのだろう。沢村は昔から明るく前向きな性格ではあるが、ふとした瞬間に思いもよらない不安が彼の心を支配することがある。それは野球だけにとどまらず、私生活においても、隠し切れないのだ。
沢村は少し渋りながらスマートフォンを前のローテーブルに置き、軽く俯きながら呟いた。
「……み、ら……」
小さな声しか聞こえなかったが、彼が何を言おうとしているか、御幸は察した。
「……ん?」
それでも、彼の口から聞かないと、意味がない。
暫くの間の後、沢村は小さく息を吐き、観念したようにその不安を漏らした。
「――俺たちの、未来――」
御幸の顔を直視できない。
自分の心臓が大きくなる音が聞こえる。自分は、いったい何を言い出そうとしているのか。下手をすれば、もうこの瞬間、この関係が終わってしまうかもしれないというのに、進めたくもない時計の針を、無理やり動かしている。
「お、おれ」
「……うん」
進めたくはないが、こんな不安を持ったまま、10周年を迎える、曖昧な関係は、作りたくなかった。今日という日が永遠に続けばいいのにと、ずっと思っていたが、その思いを内に秘めている限り、不安を拭い去ることはできない。
先ほど、風呂上りに右薬指にはめた指輪を、左手で弄り、次の言葉を考える。御幸はこっちの言葉を、根気強く待ってくれていた。
きっと、これから話すことは、御幸のことだからもう気が付いてはいるだろう。だが、話を切り出した限り、この話の結末は、自分で責任を取るしかなかった。
「……やっぱさ、俺と先輩って、お、男じゃん」
「……そうだな」
「先輩が、いつ、俺のこと、そ、その……興味なくなったとか、言い出すか、正直、すげー、怖い」
男同士だから、「婚姻届」なんて、「結婚式」だなんて、「結婚指輪」だとか、「誓いの言葉」なんて、安易に期待してはいけない。
最近の風潮では、そういった人生を公開して生きていっているカップルはいるが、現実問題、自分たちには、いや、少なくとも自分には、プロである間は公式的カップルとして足を踏み出せる勇気はなかった。
それには、リスクが大きすぎる。だからこそ、自分たちに、一生沿い続ける「誓い」を課すわけにはいかない。
「10年、経ってみて、先輩も俺も、人生の花盛りを、今から迎えるわけじゃん」
「まぁ、男は30歳からっていうもんな」
「……そう、その歳を目前にさ、やっぱ、……違うなぁ、とか、思われるかもしれないのが、……お、女の、方が、よ、よかったなぁ、とか、思う、時が、先輩も来てしまうのかなぁって、いうことが、す、すっげーこわい」
声が勝手に震えてきてしまう。視界も霞んでくる。
なんて自爆的な文句を言ってしまったのだろうという、後悔の念も一気に襲いかかってくる。
この一秒先に待っている未来が、全く予想できなかった。
時計の針が進む音と、自分の心臓の音が、耳に鳴り響く。
どれくらい時間が経ったか分からないが、突然、沢村の霞んだ視界に、御幸の手が映った。そして、指輪を弄っていた手が、彼の両手に包み込まれる。何をするかと思えば、薬指にはまっていた指輪を、抜かれた。
「……っ」
もうだめだ。
涙が溢れる。この幸ある記念日に、微かに希望があるかもしれない未来を、壊そうとしたのは、紛れもない自分だ。
自責の念も襲い掛かり、そして崩れ去ろうとする現実に、目を開けていられなかった。
「沢村」
短く、自分の名前を呼ばれる。
これが最後の呼びかけになるのか。目を閉じ、耳でその声を味わう。
「沢村、目を開けてくれ」
そう促され、唇を噛みしめながら、ゆっくりと目を開け、すぐ右隣にいる先輩を見た。
御幸の目は、真っすぐにこちらの目をとらえていた。
「沢村。今度は、俺の番。いいか?」
ゆっくり紡がれる彼の声が、とても心地がいい。
「は、はい」
沢村は、彼に手を握りしめられながら向き直る。
「沢村。俺の、未来に、お前はいるよ」
「……へ?」
御幸が何を言っているのか、瞬時に理解できていない間に、彼はポケットから小さな小箱を取り出した。そして、握っていた手を放し、小箱を両手で沢村に向かって開けてみせた。
シルバーに光り輝く、指輪が、2つ並んでいた。
御幸は続ける。
「俺の描く未来に、お前はいてくれている。ずっと、この先、未来なんて誰にも分んねぇ。けど、必ずいるんだ。……お前は、お前の描く未来に、俺はいるか?」
そう問われ、沢村は目を白黒させる。
「え……?」
「俺は、2人の未来に、お互いがいると、信じてる。だから、これを、左に、つけてほしい」
それはつまり、恋人指輪ではないということ。
「そ、それ、って……」
「俺はたぶん、あの、チャージって命名したあの日から、俺はお前に夢中だったよ。この10年ずっと。そして、これからも、この先も、お前に夢中だ」
まるでポエムの様に語る御幸。ひとつの指輪をケースから取り出して、沢村の左薬指にスライドさせた。
「誓うよ」
低く、優しく響くその声に、酔いそうになる。
「沢村、お前をずっと愛してると、誓うよ」
なんという日だ。
恋人を始めて10年という記念日に、事実上のプロポーズをされた。
沢村は口元を緩ませて、眉をひそめる。
「……せんぱい」
涙が止まらない。彼の今の言葉だけで、今ボールを打てば宇宙にでも飛ばせそうなくらいの気持ちだ。
「俺も、俺の未来に、あんたはいるよ」
そう精一杯声を絞り出すと、御幸の口元も綻んだ。
「誓いやす、あんたにずっと、チャージを捧げるよ」
「ふっ、なんだそれ」
互いに笑みがこぼれる。
「先輩を、愛していると、誓います」
「……あぁ」
沢村の表情から、不安の色が消えた。
それだけでこちらも安堵する。
幸せそうに涙を流し笑う彼をそっと引き寄せて、自分の左薬指にも、指輪をはめてもらった。
自分も、思う不安は同じだった。だからこそ、指輪を買った。世間一般で言う、結婚指輪として。
この指輪がきっと、何年先だって、自分たちの不安を埋めてくれるだろう。
そして、今この瞬間の誓いを、一生忘れぬように、互いに、引き寄せられるように、口づけを交わした。
この日が、自分たち人生においての、いちばん大切な日になるように……
リビングでは、先に風呂を済ませていた沢村が、テレビを見ながらソファでくつろいでいる。
「あ、先輩、出てきた。プリン食べる?」
近寄る御幸にそう問う彼は、いつもの表情と少し違った。御幸はその目を知っていた。彼が、不安を感じている目だった。
「んー、後でいいかな」
そう答え、御幸は沢村の右隣に腰を掛けて、テレビのリモコンを持ち上げた。テレビは沢村の興味のなさそうな番組で、とりあえず流しているだけのようだった。
「消していい?」
そう問うと、沢村は「んー」とだけ相槌を打ち、さりげなくスマートフォンを手に取って操作を始める。
御幸はテレビを消し、沢村との距離を、グイと近づけた。
「なぁ沢村。何不安に思ってんの」
そう問うと、沢村の手が止まる。どうやら図星のようだ。
「お前の目が泳いでんの、わかんの俺」
先ほどまでの記念日ディナーは違和感なくその場を楽しめていた。沢村の表情も明るく、美味しそうに頬張っていた。だが、互いに風呂に入っている間、彼の中で何かの葛藤が生まれたのだろう。沢村は昔から明るく前向きな性格ではあるが、ふとした瞬間に思いもよらない不安が彼の心を支配することがある。それは野球だけにとどまらず、私生活においても、隠し切れないのだ。
沢村は少し渋りながらスマートフォンを前のローテーブルに置き、軽く俯きながら呟いた。
「……み、ら……」
小さな声しか聞こえなかったが、彼が何を言おうとしているか、御幸は察した。
「……ん?」
それでも、彼の口から聞かないと、意味がない。
暫くの間の後、沢村は小さく息を吐き、観念したようにその不安を漏らした。
「――俺たちの、未来――」
御幸の顔を直視できない。
自分の心臓が大きくなる音が聞こえる。自分は、いったい何を言い出そうとしているのか。下手をすれば、もうこの瞬間、この関係が終わってしまうかもしれないというのに、進めたくもない時計の針を、無理やり動かしている。
「お、おれ」
「……うん」
進めたくはないが、こんな不安を持ったまま、10周年を迎える、曖昧な関係は、作りたくなかった。今日という日が永遠に続けばいいのにと、ずっと思っていたが、その思いを内に秘めている限り、不安を拭い去ることはできない。
先ほど、風呂上りに右薬指にはめた指輪を、左手で弄り、次の言葉を考える。御幸はこっちの言葉を、根気強く待ってくれていた。
きっと、これから話すことは、御幸のことだからもう気が付いてはいるだろう。だが、話を切り出した限り、この話の結末は、自分で責任を取るしかなかった。
「……やっぱさ、俺と先輩って、お、男じゃん」
「……そうだな」
「先輩が、いつ、俺のこと、そ、その……興味なくなったとか、言い出すか、正直、すげー、怖い」
男同士だから、「婚姻届」なんて、「結婚式」だなんて、「結婚指輪」だとか、「誓いの言葉」なんて、安易に期待してはいけない。
最近の風潮では、そういった人生を公開して生きていっているカップルはいるが、現実問題、自分たちには、いや、少なくとも自分には、プロである間は公式的カップルとして足を踏み出せる勇気はなかった。
それには、リスクが大きすぎる。だからこそ、自分たちに、一生沿い続ける「誓い」を課すわけにはいかない。
「10年、経ってみて、先輩も俺も、人生の花盛りを、今から迎えるわけじゃん」
「まぁ、男は30歳からっていうもんな」
「……そう、その歳を目前にさ、やっぱ、……違うなぁ、とか、思われるかもしれないのが、……お、女の、方が、よ、よかったなぁ、とか、思う、時が、先輩も来てしまうのかなぁって、いうことが、す、すっげーこわい」
声が勝手に震えてきてしまう。視界も霞んでくる。
なんて自爆的な文句を言ってしまったのだろうという、後悔の念も一気に襲いかかってくる。
この一秒先に待っている未来が、全く予想できなかった。
時計の針が進む音と、自分の心臓の音が、耳に鳴り響く。
どれくらい時間が経ったか分からないが、突然、沢村の霞んだ視界に、御幸の手が映った。そして、指輪を弄っていた手が、彼の両手に包み込まれる。何をするかと思えば、薬指にはまっていた指輪を、抜かれた。
「……っ」
もうだめだ。
涙が溢れる。この幸ある記念日に、微かに希望があるかもしれない未来を、壊そうとしたのは、紛れもない自分だ。
自責の念も襲い掛かり、そして崩れ去ろうとする現実に、目を開けていられなかった。
「沢村」
短く、自分の名前を呼ばれる。
これが最後の呼びかけになるのか。目を閉じ、耳でその声を味わう。
「沢村、目を開けてくれ」
そう促され、唇を噛みしめながら、ゆっくりと目を開け、すぐ右隣にいる先輩を見た。
御幸の目は、真っすぐにこちらの目をとらえていた。
「沢村。今度は、俺の番。いいか?」
ゆっくり紡がれる彼の声が、とても心地がいい。
「は、はい」
沢村は、彼に手を握りしめられながら向き直る。
「沢村。俺の、未来に、お前はいるよ」
「……へ?」
御幸が何を言っているのか、瞬時に理解できていない間に、彼はポケットから小さな小箱を取り出した。そして、握っていた手を放し、小箱を両手で沢村に向かって開けてみせた。
シルバーに光り輝く、指輪が、2つ並んでいた。
御幸は続ける。
「俺の描く未来に、お前はいてくれている。ずっと、この先、未来なんて誰にも分んねぇ。けど、必ずいるんだ。……お前は、お前の描く未来に、俺はいるか?」
そう問われ、沢村は目を白黒させる。
「え……?」
「俺は、2人の未来に、お互いがいると、信じてる。だから、これを、左に、つけてほしい」
それはつまり、恋人指輪ではないということ。
「そ、それ、って……」
「俺はたぶん、あの、チャージって命名したあの日から、俺はお前に夢中だったよ。この10年ずっと。そして、これからも、この先も、お前に夢中だ」
まるでポエムの様に語る御幸。ひとつの指輪をケースから取り出して、沢村の左薬指にスライドさせた。
「誓うよ」
低く、優しく響くその声に、酔いそうになる。
「沢村、お前をずっと愛してると、誓うよ」
なんという日だ。
恋人を始めて10年という記念日に、事実上のプロポーズをされた。
沢村は口元を緩ませて、眉をひそめる。
「……せんぱい」
涙が止まらない。彼の今の言葉だけで、今ボールを打てば宇宙にでも飛ばせそうなくらいの気持ちだ。
「俺も、俺の未来に、あんたはいるよ」
そう精一杯声を絞り出すと、御幸の口元も綻んだ。
「誓いやす、あんたにずっと、チャージを捧げるよ」
「ふっ、なんだそれ」
互いに笑みがこぼれる。
「先輩を、愛していると、誓います」
「……あぁ」
沢村の表情から、不安の色が消えた。
それだけでこちらも安堵する。
幸せそうに涙を流し笑う彼をそっと引き寄せて、自分の左薬指にも、指輪をはめてもらった。
自分も、思う不安は同じだった。だからこそ、指輪を買った。世間一般で言う、結婚指輪として。
この指輪がきっと、何年先だって、自分たちの不安を埋めてくれるだろう。
そして、今この瞬間の誓いを、一生忘れぬように、互いに、引き寄せられるように、口づけを交わした。
この日が、自分たち人生においての、いちばん大切な日になるように……
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