忘物
青銅校舎に、『仰げば尊し』の歌唱が響いた。
講堂では前方に並ぶ生徒たちが、肩を震わせて必死に歌唱している。
沢村は、そんな3年生の後姿を、ただ眺めているだけだった。
卒業式が終わり、野球部員全員がグラウンドに集まる。
「先輩方!3年間、お勤めご苦労さんした!!」
沢村の大声に、今日、青銅高校を卒業する3年たちは大声で笑った。金丸が慌てて沢村の頭に手刀を入れる。
「ちげーだろ沢村!お前そのくだり今年もやるのかよ!」
部員たちは3年生たちに別れを告げるために、それぞれ尊敬する先輩たちに駆け寄った。
倉持の元へ駆け寄った沢村は、最後のプロレス技をかけられる。そして、不意に力を抜いて沢村を解放した彼は、珍しく真顔で声をかけた。
「おい沢村」
「ハイ」
2人の元に、春市と後輩の浅田が近寄ろうと、こちらの様子を窺っている。
「……お前、御幸には挨拶行ったのか?」
倉持は視線を春市と浅田から逸らし、御幸を見やった。沢村もそれに倣うと、御幸は降谷、そして奥村と話し込んでいた。
「え……、あー……」
沢村は、曖昧に濁しながら、視線を地面へ移した。
御幸との関係は、4月から1年間弱、まったく変わらないものだった。夏を終え、3年たちが引退をしてからも、野球に明け暮れる日々が沢村を襲った。そして圧し掛かるプレッシャー。自分も春の時のように、御幸に「チャージ」なるものをしてほしいと思うときもあったが、その気持ちを跳ね除け続けた。気が付けば、御幸との関係は、今までよりも更に淡白なものになっていた。
表面上は仲良くしている。だが、どうにも表現できない距離感が、彼との間に何かが埋まっていくのが、明らかに見えたのだった。
「いや、まぁ、いいんすよ。ほら御幸先輩も、降谷と奥村となんか話してるし」
微笑を浮かべると、倉持は眉をひそめて反論してきた。
「けどよ、お前一番世話になってたろ」
しかしそれを遮るように、自分の喉を突いてきた感情が外に溢れ出ていた。
「あっちの方が、大事なんでしょ!」
自分でも耳を疑った。たったひと言。その言葉は、決して外には出してはいけないものだった。少なくとも、この3年生に花を手向けるはずの、この場で。
目の前の倉持も、目を見張っている。
「沢村……」
「――……」
――嫉妬。
「お、おれ……」
数秒の間の後、絞り出した自分の声は震えている。
何故気が付いてしまったのだ。もう彼とは、先輩後輩の関係でいる、そう自分に言いつけたではないか。
沢村は唾を飲み込み、涙を隠すために俯いた。倉持はそんな彼の頭に右手を乗せる。
「沢村、あと半年だ。自分の感情に決着つけんのはその後でいい。だからよ」
「……倉持先輩、スンマセン、俺なんか」
心の奥底にある宝箱の蓋が勝手に開く。そこに封じ込めた感情が、とめどなく、自分に槍を刺してくるように、胸に降り注いできた。
胸が苦しい。こんな息が出来ないほどの感情は、自分にとって初めて経験するものだった。
鼻をすするが、涙が目から落ちてくる。
宝箱に感情を押し込もうとするが、胸に突き刺さる痛みで力が入らない。早く、宝箱に押し込まなければ。
涙を拭っていると、倉持の声が、自分の押し込めきれない感情を、受け止めてくれた。
「いいから。沢村、とりあえずまだ今は、夏のことだけ考えてろ……」
「す、すみませ……」
倉持は、沢村の落ち着くまで、無言で頭に手を乗せてくれていた。
卒業式の後、1年、2年生部員たちは各々自主練習に向かった。
沢村もジャージに着替え、練習へ向かおうとしたが、携帯を開けると、1件のメールに気が付いた。メールの差出人に、慌てて本文を読む。そしてそのまま携帯を握りしめ、走り出した。たどり着いたのは、室内練習場裏手の、植え込みで影になっている見慣れた場所。そこに、もういなくなった筈の先輩が、鞄を手に、壁にもたれて立っていた。
「よう」
御幸は右手からやってきた沢村に気が付いて、いつもと変わりのない微笑みを浮かべて振り返ってくる。
「なんで……」
沢村の携帯画面には、「忘れ物した。いつもの場所で待ってる」と書かれていた。
「忘れ物って、何」
沢村は、少し息切れをさせて、御幸の表情を見た。少し睨むような視線になっているかもしれない。真っすぐ、堂々と向き合うことが出来なかった。
御幸との距離は3メートルほど。離れて足を止めた筈なのに、思っていたよりも近距離で、後ずさりそうになる。メールをくれたことに対して、心の奥底で喜びを感じている自分がいた。
御幸の口が開き、何か言ったが、沢村の耳には届かかず、耳を傾ける。
「え?なんて?」
また御幸の口が開くが、まったく聞こえない。何故、風も吹いていない、雑音もあまり聞こえないのに、一番近くにいる彼の声が聞こえないんだ。
「聞こえないですよ。何て!?」
沢村は、自分の足を一歩、二歩と少しずつ踏み出して、彼の声に耳を澄ませた。御幸との距離は約2メートル。御幸はひとつため息をついた仕草をすると、大きく、足を踏み出してきた。
沢村が彼の突然の踏み出しに、目を開けていると、左手首をつかまれて、強引に前に引っ張られた。
重力に従って沢村の体が前に傾く。思考が追い付かず、倒れる自分の体を支えようと、ただ自分の左足を伸ばした。しかし、足を着地させるのと同時に、前にいる御幸が、体で受け止めていた。
思考が追い付くと、目の前は、御幸の体越しに見えていた木々たちが視界いっぱいに広がっている。そして、御幸の少し柔らかめの毛先が、左頬を撫でていた。
鼓膜に、御幸の声が、響いた。
「――チャージ、忘れた……」
講堂では前方に並ぶ生徒たちが、肩を震わせて必死に歌唱している。
沢村は、そんな3年生の後姿を、ただ眺めているだけだった。
卒業式が終わり、野球部員全員がグラウンドに集まる。
「先輩方!3年間、お勤めご苦労さんした!!」
沢村の大声に、今日、青銅高校を卒業する3年たちは大声で笑った。金丸が慌てて沢村の頭に手刀を入れる。
「ちげーだろ沢村!お前そのくだり今年もやるのかよ!」
部員たちは3年生たちに別れを告げるために、それぞれ尊敬する先輩たちに駆け寄った。
倉持の元へ駆け寄った沢村は、最後のプロレス技をかけられる。そして、不意に力を抜いて沢村を解放した彼は、珍しく真顔で声をかけた。
「おい沢村」
「ハイ」
2人の元に、春市と後輩の浅田が近寄ろうと、こちらの様子を窺っている。
「……お前、御幸には挨拶行ったのか?」
倉持は視線を春市と浅田から逸らし、御幸を見やった。沢村もそれに倣うと、御幸は降谷、そして奥村と話し込んでいた。
「え……、あー……」
沢村は、曖昧に濁しながら、視線を地面へ移した。
御幸との関係は、4月から1年間弱、まったく変わらないものだった。夏を終え、3年たちが引退をしてからも、野球に明け暮れる日々が沢村を襲った。そして圧し掛かるプレッシャー。自分も春の時のように、御幸に「チャージ」なるものをしてほしいと思うときもあったが、その気持ちを跳ね除け続けた。気が付けば、御幸との関係は、今までよりも更に淡白なものになっていた。
表面上は仲良くしている。だが、どうにも表現できない距離感が、彼との間に何かが埋まっていくのが、明らかに見えたのだった。
「いや、まぁ、いいんすよ。ほら御幸先輩も、降谷と奥村となんか話してるし」
微笑を浮かべると、倉持は眉をひそめて反論してきた。
「けどよ、お前一番世話になってたろ」
しかしそれを遮るように、自分の喉を突いてきた感情が外に溢れ出ていた。
「あっちの方が、大事なんでしょ!」
自分でも耳を疑った。たったひと言。その言葉は、決して外には出してはいけないものだった。少なくとも、この3年生に花を手向けるはずの、この場で。
目の前の倉持も、目を見張っている。
「沢村……」
「――……」
――嫉妬。
「お、おれ……」
数秒の間の後、絞り出した自分の声は震えている。
何故気が付いてしまったのだ。もう彼とは、先輩後輩の関係でいる、そう自分に言いつけたではないか。
沢村は唾を飲み込み、涙を隠すために俯いた。倉持はそんな彼の頭に右手を乗せる。
「沢村、あと半年だ。自分の感情に決着つけんのはその後でいい。だからよ」
「……倉持先輩、スンマセン、俺なんか」
心の奥底にある宝箱の蓋が勝手に開く。そこに封じ込めた感情が、とめどなく、自分に槍を刺してくるように、胸に降り注いできた。
胸が苦しい。こんな息が出来ないほどの感情は、自分にとって初めて経験するものだった。
鼻をすするが、涙が目から落ちてくる。
宝箱に感情を押し込もうとするが、胸に突き刺さる痛みで力が入らない。早く、宝箱に押し込まなければ。
涙を拭っていると、倉持の声が、自分の押し込めきれない感情を、受け止めてくれた。
「いいから。沢村、とりあえずまだ今は、夏のことだけ考えてろ……」
「す、すみませ……」
倉持は、沢村の落ち着くまで、無言で頭に手を乗せてくれていた。
卒業式の後、1年、2年生部員たちは各々自主練習に向かった。
沢村もジャージに着替え、練習へ向かおうとしたが、携帯を開けると、1件のメールに気が付いた。メールの差出人に、慌てて本文を読む。そしてそのまま携帯を握りしめ、走り出した。たどり着いたのは、室内練習場裏手の、植え込みで影になっている見慣れた場所。そこに、もういなくなった筈の先輩が、鞄を手に、壁にもたれて立っていた。
「よう」
御幸は右手からやってきた沢村に気が付いて、いつもと変わりのない微笑みを浮かべて振り返ってくる。
「なんで……」
沢村の携帯画面には、「忘れ物した。いつもの場所で待ってる」と書かれていた。
「忘れ物って、何」
沢村は、少し息切れをさせて、御幸の表情を見た。少し睨むような視線になっているかもしれない。真っすぐ、堂々と向き合うことが出来なかった。
御幸との距離は3メートルほど。離れて足を止めた筈なのに、思っていたよりも近距離で、後ずさりそうになる。メールをくれたことに対して、心の奥底で喜びを感じている自分がいた。
御幸の口が開き、何か言ったが、沢村の耳には届かかず、耳を傾ける。
「え?なんて?」
また御幸の口が開くが、まったく聞こえない。何故、風も吹いていない、雑音もあまり聞こえないのに、一番近くにいる彼の声が聞こえないんだ。
「聞こえないですよ。何て!?」
沢村は、自分の足を一歩、二歩と少しずつ踏み出して、彼の声に耳を澄ませた。御幸との距離は約2メートル。御幸はひとつため息をついた仕草をすると、大きく、足を踏み出してきた。
沢村が彼の突然の踏み出しに、目を開けていると、左手首をつかまれて、強引に前に引っ張られた。
重力に従って沢村の体が前に傾く。思考が追い付かず、倒れる自分の体を支えようと、ただ自分の左足を伸ばした。しかし、足を着地させるのと同時に、前にいる御幸が、体で受け止めていた。
思考が追い付くと、目の前は、御幸の体越しに見えていた木々たちが視界いっぱいに広がっている。そして、御幸の少し柔らかめの毛先が、左頬を撫でていた。
鼓膜に、御幸の声が、響いた。
「――チャージ、忘れた……」
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