20話 ロベリアとクロユリ
スマル村の朝は都市ベッグとは比べものにならないくらい朗らかなものだった。
青空に浮かぶ太陽が草葉の露を輝かせ、鳥たちは自由気ままに歌う。農家は近隣住民と世間話をしては、畑に向かうと一転黙々と作業に取りかかる。馬は荒ぶることなく静かに水車の音に耳を澄ませる。
そんなベタな描写が現実となった世界がスマル村だった。
しかしこれだけ清々しい朝も珍しい。
この感覚は、たまたま教会への学習をサボって、少し高いところから田んぼや畑を眺めているときのものに似ていた。
僕は司祭館のある一室の窓を閉め、暖炉のある部屋に移動する。
テーブルの上にはすでに二人分の食事が用意されており、ちょうどリスター神父がカトラリーを運んでいる途中だった。
司祭館を含む教会は非常に古い建物だが、手入れがとても行き届いており、ある種の観光施設のように思えた。
普通ならば天井の隅に小さな蜘蛛の巣くらいは出来ているものだが、それすらもない。メイドでもいるのかと思ったが、そのような人も、リスター神父以外の生活の痕跡も見当たらない。
「おはよう、グロム君。良い朝だね。こんなに気持ちの良い朝は久しぶりだよ。君のおかげかな」
リスター神父はすでにキャソックを着ていた。きっとミサを終えたあとなのだろう。
一方で僕はまだ白いネグリジェとパンツのままだった。
僕が神父に挨拶をすると、彼は僕に朝食の席に座るよう促した。
テーブルにはパンの乗った皿、豆と野菜のスープ、牛乳の入った木製のカップが並べられていた。
食事中はどちらも一切しゃべらなかった。
僕はほとんど下にうつむきながら食事をとった。
神父が時折気にかけたような顔でこちらを見ていた気がするが、彼と目を合わせる勇気がなかった。
食事を終えると、神父が食器を片付けながら尋ねた。
「これから教会に行くかい? もし気が進まなければ、気分が良くなるまで待っていてもいいし、やっぱりやめると言ってもいい」
僕は食器を手に持ったまま一瞬だけ固まった。
「……少しだけ考えさせてください」
答えるとき、神父の目を見ることができなかった。
「いいとも」と彼は受容的な声で言った。「外を散歩してみるといい。こんな良い天気な日はそうそうない。きっと、何かに気づかされたり、不要なものが洗い流されたりするはずだ」
食器を神父に預けると、僕は彼に言われたとおり外に出てみた。
非常にまぶしかった。空から白い光線を当てられているかのようだった。
確かに良い天気だった。しかし、気持ちの良い天気ではなかった。
何も感じなかった。幸福感や安心はもちろん、不快感、悲しみ、怒りさえも感じなかった。
スマル村は記憶にあるものとは異なっているように感じた。
なぜか懐かしいと思わなかった。
村自体は変わっていないことは目で見てわかった。
ボロボロの民家や長生きの大樹など、ここを出たときとほとんど同じだった。
なぜだろう。奇妙な感覚がある。
まるで、自分の意識が離れていて、身体だけが村を歩いているように感じる。
自分で自分を見下ろしているとかそういうのとは違う。
何もないのだ。何も、何も。
「グロム……!」
ようやく懐かしいと感じる声を聞いたのが、酪農家の牧場を見ているときだった。
母だ。
母、ライラ・ディニコラは茶色になったブリオーを着ており、栄養の少なそうな栗色の髪を後ろで結い上げ、その上にスカーフを巻いているといった出で立ちだった。
「ああ、どれくらい顔を合わせていなかったの――」
母が濡れた犬のような色の目をうるわせながら近づいてきた瞬間、僕は一目散に走り出した。
命の危険にさらされたように心臓は激しく脈打っていた。
母は何か言っていた。
しかし、興味なかった。
母がどのようなことを言うかなど、考えなくてもわかる。
僕はとにかく逃げた。
まずは母の視界から外れなければならない。
見えなくなったら、今度は見つからないように教会に戻ろう。
民家の壁に沿って歩き、母が僕を探していないか警戒しながら教会へ戻る。
手で触れる土壁の感触は、むしろ都市ベッグのレンガ壁を思い起こさせた。
足の裏から伝わる、日陰の少し湿った土の感覚は、むしろ都市ベッグの路地の地面を思い起こさせた。
そして、それらは血飛沫の跡のついた赤黒い壁を思い起こさせた。
スマル村は、もはや僕にとっての故郷とは思えなかった。
僕の魂は、完全に都市ベッグの暗い路地に固着してしまったらしい。
都市では衛兵に追われ、村では母に追われる。
僕は追われるために生きているのだろうか。
教会に戻る途中で、僕を探し回る母を見つけた。
心配そうな顔で、口を半開きにし、みっともないほどの必死さが伝わってくる。
ひたすら首を左右に振り、何度も僕の名前を呼ぶ。
周りに住民がいなかったことが幸いだった。
もしいたら、きっと村人みんなが僕を探しに出るだろう。
僕は母の死角を走り抜け、別の住宅の陰に隠れる。
いくら嫌いでも見るに堪えない哀れさだった。
それでも、僕には一切の罪悪感もなかった。
青空に浮かぶ太陽が草葉の露を輝かせ、鳥たちは自由気ままに歌う。農家は近隣住民と世間話をしては、畑に向かうと一転黙々と作業に取りかかる。馬は荒ぶることなく静かに水車の音に耳を澄ませる。
そんなベタな描写が現実となった世界がスマル村だった。
しかしこれだけ清々しい朝も珍しい。
この感覚は、たまたま教会への学習をサボって、少し高いところから田んぼや畑を眺めているときのものに似ていた。
僕は司祭館のある一室の窓を閉め、暖炉のある部屋に移動する。
テーブルの上にはすでに二人分の食事が用意されており、ちょうどリスター神父がカトラリーを運んでいる途中だった。
司祭館を含む教会は非常に古い建物だが、手入れがとても行き届いており、ある種の観光施設のように思えた。
普通ならば天井の隅に小さな蜘蛛の巣くらいは出来ているものだが、それすらもない。メイドでもいるのかと思ったが、そのような人も、リスター神父以外の生活の痕跡も見当たらない。
「おはよう、グロム君。良い朝だね。こんなに気持ちの良い朝は久しぶりだよ。君のおかげかな」
リスター神父はすでにキャソックを着ていた。きっとミサを終えたあとなのだろう。
一方で僕はまだ白いネグリジェとパンツのままだった。
僕が神父に挨拶をすると、彼は僕に朝食の席に座るよう促した。
テーブルにはパンの乗った皿、豆と野菜のスープ、牛乳の入った木製のカップが並べられていた。
食事中はどちらも一切しゃべらなかった。
僕はほとんど下にうつむきながら食事をとった。
神父が時折気にかけたような顔でこちらを見ていた気がするが、彼と目を合わせる勇気がなかった。
食事を終えると、神父が食器を片付けながら尋ねた。
「これから教会に行くかい? もし気が進まなければ、気分が良くなるまで待っていてもいいし、やっぱりやめると言ってもいい」
僕は食器を手に持ったまま一瞬だけ固まった。
「……少しだけ考えさせてください」
答えるとき、神父の目を見ることができなかった。
「いいとも」と彼は受容的な声で言った。「外を散歩してみるといい。こんな良い天気な日はそうそうない。きっと、何かに気づかされたり、不要なものが洗い流されたりするはずだ」
食器を神父に預けると、僕は彼に言われたとおり外に出てみた。
非常にまぶしかった。空から白い光線を当てられているかのようだった。
確かに良い天気だった。しかし、気持ちの良い天気ではなかった。
何も感じなかった。幸福感や安心はもちろん、不快感、悲しみ、怒りさえも感じなかった。
スマル村は記憶にあるものとは異なっているように感じた。
なぜか懐かしいと思わなかった。
村自体は変わっていないことは目で見てわかった。
ボロボロの民家や長生きの大樹など、ここを出たときとほとんど同じだった。
なぜだろう。奇妙な感覚がある。
まるで、自分の意識が離れていて、身体だけが村を歩いているように感じる。
自分で自分を見下ろしているとかそういうのとは違う。
何もないのだ。何も、何も。
「グロム……!」
ようやく懐かしいと感じる声を聞いたのが、酪農家の牧場を見ているときだった。
母だ。
母、ライラ・ディニコラは茶色になったブリオーを着ており、栄養の少なそうな栗色の髪を後ろで結い上げ、その上にスカーフを巻いているといった出で立ちだった。
「ああ、どれくらい顔を合わせていなかったの――」
母が濡れた犬のような色の目をうるわせながら近づいてきた瞬間、僕は一目散に走り出した。
命の危険にさらされたように心臓は激しく脈打っていた。
母は何か言っていた。
しかし、興味なかった。
母がどのようなことを言うかなど、考えなくてもわかる。
僕はとにかく逃げた。
まずは母の視界から外れなければならない。
見えなくなったら、今度は見つからないように教会に戻ろう。
民家の壁に沿って歩き、母が僕を探していないか警戒しながら教会へ戻る。
手で触れる土壁の感触は、むしろ都市ベッグのレンガ壁を思い起こさせた。
足の裏から伝わる、日陰の少し湿った土の感覚は、むしろ都市ベッグの路地の地面を思い起こさせた。
そして、それらは血飛沫の跡のついた赤黒い壁を思い起こさせた。
スマル村は、もはや僕にとっての故郷とは思えなかった。
僕の魂は、完全に都市ベッグの暗い路地に固着してしまったらしい。
都市では衛兵に追われ、村では母に追われる。
僕は追われるために生きているのだろうか。
教会に戻る途中で、僕を探し回る母を見つけた。
心配そうな顔で、口を半開きにし、みっともないほどの必死さが伝わってくる。
ひたすら首を左右に振り、何度も僕の名前を呼ぶ。
周りに住民がいなかったことが幸いだった。
もしいたら、きっと村人みんなが僕を探しに出るだろう。
僕は母の死角を走り抜け、別の住宅の陰に隠れる。
いくら嫌いでも見るに堪えない哀れさだった。
それでも、僕には一切の罪悪感もなかった。
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