第23話
そもそもわたしは、他人の家にかってに入って水や食料を奪うことができない。
宗教家であるためだ。
わたしが理想とする宗教家は、たとえ国民の九十九パーセントが、やむにやまれぬ事情とはいえ、盗人同然の暮らしを平気でするようになっても、他人の家から、たとえ代金をおいたとしても無断で物を盗るようなことはしない。
商店も同様。
商店では購入しなくてはならない。
購入とは代金を支払い、それを受け取る店員がいて初めて成立する。店員がいなくなったたスーパーやコンビニばかりでは購入できない。
よって終末騒動以後、わたしの主なカロリーや水分の摂取源は自販機に限られていた。
その自販機がこの海岸沿いにはなかなか見つからない。いや、そもそも、車二台がぎりぎりすれ違えるかどうかというこんな細い道では、自販機を置くスペースなどない。
もう少し行けば、おそらく海水浴場のひとつでもあるのだろうが、この辺りは砂浜があるとはいえ、あまり使われていないのだろう。
なにもない浜辺がひたすら続く。
……やがて。
わたしは倒れた。
…………きっと以前なら、こうして行き倒れていれば、誰かが助けてくれたことだろう。救急車を呼んでくれたり。
だが、いまの世界でそれは期待できない。
いまの世界なら盲腸で死ぬかも知れないし、骨折でも死ぬかもしれない。
というか、普通に道を歩いているだけでも、わたしはこれまでに数回はひったくりや強盗などに出会った。
逆に、放火魔の少年が、やつれたわたしに食料をわけてくれたことがある。順々に住宅地の家々を燃やしていた彼は、チョコをわたしにくれた。わたしはそれをこばんだ。
彼がいうには、
「それは、おれが終末騒動以前に買った物だ。あんたのいうところの〝購入した〟物だぜ?」
それでも、わたしはこばんだ。正直疑わしいと思ったのだ。
それを察知したらしく、彼は煤けた顔で笑った。
「おいおい、兄さん。宗教家なんだろ? あんたの神様か仏様かご先祖様か守護霊様か、なんだか知らねーが、人を疑え、と教えてるのかい?」
わたしは首を横に振った。
確かに彼のいうとおり。
わたしは久しぶりに食べ物を口にした。
やがてたずねた。
「なんで放火なんてしてるんだ?」
「知らねえ」
少年はそっぽを向く。その横顔は凶悪犯というイメージの放火魔からはほど遠い、幼い印象のもの。……かつて……わたしが担任していた中学二年生たちとそう変わらないだろう。
だが。この口の回る少年は、へこまされたままではすまさなかった。
「なあ。兄さん。
あんた、なんで宗教家なんてやってんだ?」
わたしは答えられなかった。
終末の世界で。
放火を続ける彼。
宗教家を続けるわたし。
……もうあと二週間で世界が消滅するというのなら、そのどちらも無意味。無価値。等しく、意味など一片の欠片もない。放火などしなくても、この日本は消滅する。家がどうとかそんなレベルの問題ではなく、地図のうえから消失するし、地球儀をつくるのなら、これからは穴でもうがつか、こなごなの破片でも飾るしかなくなるのだ。もっともそんな物をつくる人間がいたとしたらだが。
「ただ、続けようとしただけだ」
わたしは正直に答えた。
「じゃあ、兄さんが放火魔で、おれが宗教家でもいいってことじゃねえか?」
――そのとおりだ。
わたしが放火魔で、放火をし続けたとしても、続けたいというのが願いならば、それでも構わないかも知れない。
「さっき兄さん聞いたろ? なんで放火すんのかって。火、適当にその辺につけてみたらわかるよ」
彼は火炎瓶のような物を差しだしてくる。こんな物を見るのは初めてだ。
「適当にその辺の窓ガラスに向かって、叩き割るように投げてみろよ」
風向きが変わったのだろう。煙が辺りに立ちこめてきた。まるでわたしを急かすように。
……わたしは、その火炎瓶を持ちあげ、まだ真新しい白い壁の、こじんまりした家の窓に狙いをつけた。きれいに手入れされた花壇は、まだ雑草はそれほどでもない。花は人間ほど終末という事態を気にしていないようだ。
投げるか、投げないか。わたしは、
天に任せた。
それはいい換えるなら、無意識、心、魂、場の勢い、理性……それらを引っくるめた総体。
もし、ここで放火魔となるのであれば、元教師にして元宗教家にして、放火魔として、死ぬまでの短い時間を過ごそうと決めた。
そんなわたしの気持ちが、気配となって少年の心に伝染したのか、彼もぴたりと口を閉じて、わたしの一挙手一投足を見ていた。
足を揃えていては投げづらいため、足を広げる。
腕を背中のほうに曲げる。
――ふいに。
子供時代、野球をしていたことを思いだした。
ついでに、もう亡くなった友人ふたりも。彼らも同じ小学校で、子供の頃には何度もキャッチボールやピッチャーのまねごとをして遊んだものだった…………。
「……わたしは……やっぱりいいよ」
「へえ」
少年の口が歪む。
宗教家であるためだ。
わたしが理想とする宗教家は、たとえ国民の九十九パーセントが、やむにやまれぬ事情とはいえ、盗人同然の暮らしを平気でするようになっても、他人の家から、たとえ代金をおいたとしても無断で物を盗るようなことはしない。
商店も同様。
商店では購入しなくてはならない。
購入とは代金を支払い、それを受け取る店員がいて初めて成立する。店員がいなくなったたスーパーやコンビニばかりでは購入できない。
よって終末騒動以後、わたしの主なカロリーや水分の摂取源は自販機に限られていた。
その自販機がこの海岸沿いにはなかなか見つからない。いや、そもそも、車二台がぎりぎりすれ違えるかどうかというこんな細い道では、自販機を置くスペースなどない。
もう少し行けば、おそらく海水浴場のひとつでもあるのだろうが、この辺りは砂浜があるとはいえ、あまり使われていないのだろう。
なにもない浜辺がひたすら続く。
……やがて。
わたしは倒れた。
…………きっと以前なら、こうして行き倒れていれば、誰かが助けてくれたことだろう。救急車を呼んでくれたり。
だが、いまの世界でそれは期待できない。
いまの世界なら盲腸で死ぬかも知れないし、骨折でも死ぬかもしれない。
というか、普通に道を歩いているだけでも、わたしはこれまでに数回はひったくりや強盗などに出会った。
逆に、放火魔の少年が、やつれたわたしに食料をわけてくれたことがある。順々に住宅地の家々を燃やしていた彼は、チョコをわたしにくれた。わたしはそれをこばんだ。
彼がいうには、
「それは、おれが終末騒動以前に買った物だ。あんたのいうところの〝購入した〟物だぜ?」
それでも、わたしはこばんだ。正直疑わしいと思ったのだ。
それを察知したらしく、彼は煤けた顔で笑った。
「おいおい、兄さん。宗教家なんだろ? あんたの神様か仏様かご先祖様か守護霊様か、なんだか知らねーが、人を疑え、と教えてるのかい?」
わたしは首を横に振った。
確かに彼のいうとおり。
わたしは久しぶりに食べ物を口にした。
やがてたずねた。
「なんで放火なんてしてるんだ?」
「知らねえ」
少年はそっぽを向く。その横顔は凶悪犯というイメージの放火魔からはほど遠い、幼い印象のもの。……かつて……わたしが担任していた中学二年生たちとそう変わらないだろう。
だが。この口の回る少年は、へこまされたままではすまさなかった。
「なあ。兄さん。
あんた、なんで宗教家なんてやってんだ?」
わたしは答えられなかった。
終末の世界で。
放火を続ける彼。
宗教家を続けるわたし。
……もうあと二週間で世界が消滅するというのなら、そのどちらも無意味。無価値。等しく、意味など一片の欠片もない。放火などしなくても、この日本は消滅する。家がどうとかそんなレベルの問題ではなく、地図のうえから消失するし、地球儀をつくるのなら、これからは穴でもうがつか、こなごなの破片でも飾るしかなくなるのだ。もっともそんな物をつくる人間がいたとしたらだが。
「ただ、続けようとしただけだ」
わたしは正直に答えた。
「じゃあ、兄さんが放火魔で、おれが宗教家でもいいってことじゃねえか?」
――そのとおりだ。
わたしが放火魔で、放火をし続けたとしても、続けたいというのが願いならば、それでも構わないかも知れない。
「さっき兄さん聞いたろ? なんで放火すんのかって。火、適当にその辺につけてみたらわかるよ」
彼は火炎瓶のような物を差しだしてくる。こんな物を見るのは初めてだ。
「適当にその辺の窓ガラスに向かって、叩き割るように投げてみろよ」
風向きが変わったのだろう。煙が辺りに立ちこめてきた。まるでわたしを急かすように。
……わたしは、その火炎瓶を持ちあげ、まだ真新しい白い壁の、こじんまりした家の窓に狙いをつけた。きれいに手入れされた花壇は、まだ雑草はそれほどでもない。花は人間ほど終末という事態を気にしていないようだ。
投げるか、投げないか。わたしは、
天に任せた。
それはいい換えるなら、無意識、心、魂、場の勢い、理性……それらを引っくるめた総体。
もし、ここで放火魔となるのであれば、元教師にして元宗教家にして、放火魔として、死ぬまでの短い時間を過ごそうと決めた。
そんなわたしの気持ちが、気配となって少年の心に伝染したのか、彼もぴたりと口を閉じて、わたしの一挙手一投足を見ていた。
足を揃えていては投げづらいため、足を広げる。
腕を背中のほうに曲げる。
――ふいに。
子供時代、野球をしていたことを思いだした。
ついでに、もう亡くなった友人ふたりも。彼らも同じ小学校で、子供の頃には何度もキャッチボールやピッチャーのまねごとをして遊んだものだった…………。
「……わたしは……やっぱりいいよ」
「へえ」
少年の口が歪む。
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