第32話
男はカヤの部屋の鍵を開けていった。
カヤは外に出た。ヴァール派、竜派、ヌイ派の混じった兵士の一団は、全員、大量の血をまき散らして死んでいた。見慣れない顔の死体もたくさんある。つい先程、ここで大がかりな戦闘が行われたらしいことが分かった。外界を意識から締め出していたカヤは気づかなかったのだ。
カヤは血溜まりの上を歩いた。
その向こうからヴァールが現れた。駆けつけてくる。
いまではヴァールは王のような身なりをしていた。下腹が出始め、口髭まで蓄えている。イミテーションのように見える馬鹿でかい宝石を全身に身につけたヴァールは前以上にピエロに見えた。
ヴァールだけでなく、ヌイもそうだし、他の流浪の民の族長たちもそうだ。それぞれの民族衣装を脱ぎ捨て、かつてきらびやかなだけで下品だと嘲笑っていた服に嬉々として身を包んでいる。
カヤは《風(ヴィント)》を放った。無造作に、タイミングも計らず。
きらびやかな衣装を着たヴァールは、この一撃を受けた。
カヤは目の前で腕から血を流す姿を見ても、自分の一撃があのヴァールに届いたとは信じがたかった。あげくに反撃も来ない。
ヴァールは、人形同然になっていたカヤがいきなり攻撃してきたことに驚いているようだ。そして、殺すか捕らえるか思案しているらしい。
――思案!
カヤはそのことに気づいて、ヴァールを嘲笑した。
きっとヴァールも、かつて同じことに出くわしたら嘲笑ったことだろう。
貴族様のお言葉がかかるまで誰が待つというのか――。
カヤはもう一度《風(ヴィント)》を放った。
もう高度な力は使えない。
《風(ヴィント)》は外れた。
ヴァールの目の色がやっと変わる。
突然、ヴァールが倒れた。
カヤにシャルロットの偽の真相を語ってきかせた男が、ヴァールの背後にいつのまにか回り込んで刺したのだ。
その太刀筋に、ふと、いつかのアンネローゼの太刀筋が重なる。騎士団長という言葉が脳裏をよぎった。
次にかけつけてきたのはヌイ。
ヴァールの死体や他の散乱する死体を見て驚いた。
カヤは迷わず《風(ヴィント)》を放った。
ヌイは無様に転がって避けた。かつての切れ者の面影もない。
カヤはまた《風(ヴィント)》を放った。
ヴァールを殺した例の男が、ヌイに攻撃したが、返り討ちにあった。
あっけなく死んで転がる。
すると、突然、鬨の声をあげて、武装した王国の兵士たちが大挙してきた。
不意をつかれたヌイは驚いた。この集団が、カヤを護衛していた連中を片付けたのだろう。
ヌイは迎撃するが、凶刃に倒れた。
流浪の民の武装した集団も押し寄せてくる。
カヤもあっけなく倒れた。
いつの間にか胸から血を流していた。
あっけなかった。
嵐は静まった。
風は止んだ。
…………こうして、エーヴィヒ王国の歴史は終わった。
たくさんの物が人が建物が焼けた。多くの精神が価値が崩れた。
エーヴィヒ王国の歴史は燃え尽きた。残ったのは、エーヴィヒ王国という巨大な版図を誇った地図ではなく、その地図が焼けてちりぢりになった燃え滓と灰だけだ。燃え滓のように小さな領地はぎりぎり独立を保つものもあった。……それがいつまで続くかは別として。また、残った灰は風に舞った――かつてエーヴィヒ王国の国民として、地位と権利を確保していた者たちはほとんどが一介の流浪の民となった。
燃えて穴だらけになった歴史の空白を埋めるかのように、まことしやかに囁かれた風聞があった。やがてそれは吟遊詩人や語り部などの創作意欲を刺激し、「多数にして一つ」の物語を生むことになる。
「復讐姫」
そう呼ばれる物語が、流浪の民たちの間で語られるようになった。
亡国の美しい姫君の、血と誇りをかけた残酷にして美しい物語の数々……。
冒険活劇風の俗説「復讐姫」
推理展開する異説「復讐姫」
…………他にも、定説、新説、奇説、通説、虚説、邪説、私説、妄説、秘説、補説、伝説……さまざまな「復讐姫」が生まれた。
新興の流浪の民・エーヴィヒの人々もこの物語を好み、創作し、子供に語って聞かせた。
かつて、この大地は自分たちの楽園であったこと。エーヴィヒ以外の、にっくき流浪の民が大挙して押し寄せ、略奪と殺戮の限りを尽くしたこと。
そんな中、勇敢に立ち向かった一人の姫。
まだたった十三歳だったこの美しい姫君の物語。
子供の脳裏には楽園から一夜にして廃墟となった王都に立つ、一人の美姫・カヤの姿が見えたかもしれない。
それは、美しく、気高く、強く、優しく、儚く……。
その廃墟に立つ姫君の物語を彩るのは、時に甘い恋、時に血の海。
ある物語の中のカヤは、ヴァールと恋に落ちた。またときには、ヌイを交えた三角関係に悩んだりした。物語の中のカヤは、たいていの場合、アンネローゼやヒルデ、シャルロットと共に軍を率いて大軍を次々に打ち破った。
その物語は、新興の流浪の民・エーヴィヒの人々によって延々と語り継がれた。
かつて大陸の大部分を支配していたエーヴィヒ王国の誇りを伝える物語として……。
別の流浪の民の部族でも「復讐姫」の話は語り継がれていた。
カヤという美しい流浪の民の娘が、流浪の民としての血と誇りのために戦い、雄々しく討ち死にした、と。
その流浪の民の語り部は言う。
カヤこそ、由緒正しき流浪の民――流浪の民の鑑だ、と。
「復讐姫」という戦争の物語に酔いしれる子供たちが大陸のいたる所にいた。
……だが、どの物語も伝えていないことがある。
真実の「復讐姫」が、サーカスから始まったということだ。
語り部を名乗る自らが道化師となり、いまなお続くサーカスの一部を演じていると気づく者はいなかった。
消えぬ憎しみと儚い理想を語る
ピエロは
今もいたる所にいる。
そして、悲しくも美しく、無駄と矛盾に満ちた歴史はいつも繰り返すのだ。
END
カヤは外に出た。ヴァール派、竜派、ヌイ派の混じった兵士の一団は、全員、大量の血をまき散らして死んでいた。見慣れない顔の死体もたくさんある。つい先程、ここで大がかりな戦闘が行われたらしいことが分かった。外界を意識から締め出していたカヤは気づかなかったのだ。
カヤは血溜まりの上を歩いた。
その向こうからヴァールが現れた。駆けつけてくる。
いまではヴァールは王のような身なりをしていた。下腹が出始め、口髭まで蓄えている。イミテーションのように見える馬鹿でかい宝石を全身に身につけたヴァールは前以上にピエロに見えた。
ヴァールだけでなく、ヌイもそうだし、他の流浪の民の族長たちもそうだ。それぞれの民族衣装を脱ぎ捨て、かつてきらびやかなだけで下品だと嘲笑っていた服に嬉々として身を包んでいる。
カヤは《風(ヴィント)》を放った。無造作に、タイミングも計らず。
きらびやかな衣装を着たヴァールは、この一撃を受けた。
カヤは目の前で腕から血を流す姿を見ても、自分の一撃があのヴァールに届いたとは信じがたかった。あげくに反撃も来ない。
ヴァールは、人形同然になっていたカヤがいきなり攻撃してきたことに驚いているようだ。そして、殺すか捕らえるか思案しているらしい。
――思案!
カヤはそのことに気づいて、ヴァールを嘲笑した。
きっとヴァールも、かつて同じことに出くわしたら嘲笑ったことだろう。
貴族様のお言葉がかかるまで誰が待つというのか――。
カヤはもう一度《風(ヴィント)》を放った。
もう高度な力は使えない。
《風(ヴィント)》は外れた。
ヴァールの目の色がやっと変わる。
突然、ヴァールが倒れた。
カヤにシャルロットの偽の真相を語ってきかせた男が、ヴァールの背後にいつのまにか回り込んで刺したのだ。
その太刀筋に、ふと、いつかのアンネローゼの太刀筋が重なる。騎士団長という言葉が脳裏をよぎった。
次にかけつけてきたのはヌイ。
ヴァールの死体や他の散乱する死体を見て驚いた。
カヤは迷わず《風(ヴィント)》を放った。
ヌイは無様に転がって避けた。かつての切れ者の面影もない。
カヤはまた《風(ヴィント)》を放った。
ヴァールを殺した例の男が、ヌイに攻撃したが、返り討ちにあった。
あっけなく死んで転がる。
すると、突然、鬨の声をあげて、武装した王国の兵士たちが大挙してきた。
不意をつかれたヌイは驚いた。この集団が、カヤを護衛していた連中を片付けたのだろう。
ヌイは迎撃するが、凶刃に倒れた。
流浪の民の武装した集団も押し寄せてくる。
カヤもあっけなく倒れた。
いつの間にか胸から血を流していた。
あっけなかった。
嵐は静まった。
風は止んだ。
…………こうして、エーヴィヒ王国の歴史は終わった。
たくさんの物が人が建物が焼けた。多くの精神が価値が崩れた。
エーヴィヒ王国の歴史は燃え尽きた。残ったのは、エーヴィヒ王国という巨大な版図を誇った地図ではなく、その地図が焼けてちりぢりになった燃え滓と灰だけだ。燃え滓のように小さな領地はぎりぎり独立を保つものもあった。……それがいつまで続くかは別として。また、残った灰は風に舞った――かつてエーヴィヒ王国の国民として、地位と権利を確保していた者たちはほとんどが一介の流浪の民となった。
燃えて穴だらけになった歴史の空白を埋めるかのように、まことしやかに囁かれた風聞があった。やがてそれは吟遊詩人や語り部などの創作意欲を刺激し、「多数にして一つ」の物語を生むことになる。
「復讐姫」
そう呼ばれる物語が、流浪の民たちの間で語られるようになった。
亡国の美しい姫君の、血と誇りをかけた残酷にして美しい物語の数々……。
冒険活劇風の俗説「復讐姫」
推理展開する異説「復讐姫」
…………他にも、定説、新説、奇説、通説、虚説、邪説、私説、妄説、秘説、補説、伝説……さまざまな「復讐姫」が生まれた。
新興の流浪の民・エーヴィヒの人々もこの物語を好み、創作し、子供に語って聞かせた。
かつて、この大地は自分たちの楽園であったこと。エーヴィヒ以外の、にっくき流浪の民が大挙して押し寄せ、略奪と殺戮の限りを尽くしたこと。
そんな中、勇敢に立ち向かった一人の姫。
まだたった十三歳だったこの美しい姫君の物語。
子供の脳裏には楽園から一夜にして廃墟となった王都に立つ、一人の美姫・カヤの姿が見えたかもしれない。
それは、美しく、気高く、強く、優しく、儚く……。
その廃墟に立つ姫君の物語を彩るのは、時に甘い恋、時に血の海。
ある物語の中のカヤは、ヴァールと恋に落ちた。またときには、ヌイを交えた三角関係に悩んだりした。物語の中のカヤは、たいていの場合、アンネローゼやヒルデ、シャルロットと共に軍を率いて大軍を次々に打ち破った。
その物語は、新興の流浪の民・エーヴィヒの人々によって延々と語り継がれた。
かつて大陸の大部分を支配していたエーヴィヒ王国の誇りを伝える物語として……。
別の流浪の民の部族でも「復讐姫」の話は語り継がれていた。
カヤという美しい流浪の民の娘が、流浪の民としての血と誇りのために戦い、雄々しく討ち死にした、と。
その流浪の民の語り部は言う。
カヤこそ、由緒正しき流浪の民――流浪の民の鑑だ、と。
「復讐姫」という戦争の物語に酔いしれる子供たちが大陸のいたる所にいた。
……だが、どの物語も伝えていないことがある。
真実の「復讐姫」が、サーカスから始まったということだ。
語り部を名乗る自らが道化師となり、いまなお続くサーカスの一部を演じていると気づく者はいなかった。
消えぬ憎しみと儚い理想を語る
ピエロは
今もいたる所にいる。
そして、悲しくも美しく、無駄と矛盾に満ちた歴史はいつも繰り返すのだ。
END
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