第31話
「あ……あの……」
「夫もね、健康だけが取り柄だと言ってた妻が、体を壊しちゃったわけじゃない? そしたら、急に不安になったらしくて『自分の収入だけでいいじゃないか』と控えめながら提案してきたの。わたしと違って痩せて頼りなく見える夫がね、『もし足りないなら、残業してでもどうにか収入を増やせないか上司と掛け合ってみる』とまで言ってくれたのよ」
寿美花には、何も言い返すことはできなかった。誰に自らの家庭を放置して、老人ホームの仕事を優先しろなどと言えるだろう? 要が倒れたことで、夫や息子が不安や不満を感じるのも当然だった。
とりあえず、要からこういう話があったということだけを、事務長と施設長などに伝えておくということだけで、電話を切った。「やめる」というはっきりとした三文字は聞かずに済んだのは、偶然とはいえ、施設長の娘で、まだ年若い寿美花が取ったためだろう。
要からの電話を、事務長か、母である施設長か、どちらに先に伝えようかと迷っているうちに、別の事件が起きた。
椅子に座らせていた老人が、ずり落ちて転倒した。
なぜ座ったままの老人が倒れるのか? 座っているんだから安定しているんだし、そのまま放置しておいて大丈夫なんじゃないのか? そう考えるのが、一般的な考え方だ。
けれど、自分の体を自由に動かせない高齢者の多い老人ホームでは、この座位を保てずに転倒するということが、不注意な状態だと稀にある。
長時間座っていて苦痛になってきたお年寄りが、姿勢を変えたいと思う。けれど、周囲を見回しても人がいなかったり、いたとしても忙しそうに働いていたりする。仕方なく、少しでも体をずらして心地よく座ろうとして、じょじょに姿勢が崩れる。当然、元々、手助けなしでは、座っている姿勢を変えるのにも苦労するようなお年寄りなので、ずり落ちて転落しそうになっても抵抗できず、そのまま倒れてしまうのだ。
こういったことを含む、転倒、転落による事故は、介護事故の中で、約八割を占めていると市町村に報告されるデータにはある。ある程度の介護の知識のある人なら、この「座らせっぱなし」というのは一種の「身体拘束」と同じだということを知っていた。
つまり、ど素人ならともかく、プロの多い介護の現場で、このような事故が起きたということは、人手不足がより深刻になってきたという証に他ならなかった。
そんなふうに、ますます寿美花の必要性が増す中、彼女は母である施設長にさえ告げずに、転落事故の翌日、無断で手伝いを休んだ。
ほぼ毎日、中堅の介護職員が抜けた時からは一日も休まず、顔を出していた寿美花である。休むことも極めて異例なら、まして誰にもそれを告げずに休むなど初めてだった。
一日中、ただ誰とも会わず、部屋に引きこもっていた。閉めきった薄暗い部屋の中、両腕で両膝を抱いて、ベッドの上に座り込んでいた。目は虚ろで、何も見ていないようでもあった。ぽっかりと穴が空いたような心境と同じく、空虚な表情だ。
悠寿美苑で不幸があった。
伊藤老人がこの世を去ったのだ。
老人ホームは、医療機関である病院ではない。
病院と同レベルの救命救急体制はなく、夜になれば医者は確実にいなくなる。夜間にいるのは、少数の介護職員と看護師だけだ。
そこで起こりえるのが、「死後の発見」である。
それは、病院ではまずあり得ない。医療機関では起こってはならないとされていることだ。よくドラマなどで、病室にいるお年寄りを二十四時間監視しているモニターが、ピィーッと音を鳴らし、白衣の男性や看護師たちが急いで駆けつけて来て、心臓マッサージを開始する。「ご家族に連絡をっ!」しばらくして「ご家族が到着されましたっ!」深夜に車を飛ばしてきた家族たちが老人の手を握り、涙ながらに呼びかける。そして、しばらく経って「……ご臨終です」と沈痛な面持ちで医師が家族に告げる。
これが可能なのは、二十四時間体制で、モニターなどを使って見守っているからだ。
だが、老人ホームは、そういった体制はなく、また医師も夜間にはいない。
これは、伊藤老人の家族に限らず、老人ホームに入所するどの家庭にも説明されている。つまり、人生の最後を、施設で迎えるのか、それとも病院で迎えるのか。そして、伊藤老人は、後者を選び、こうして悠寿美苑にいた。
そして、一度確認してあるが、本来ならもう一度、体調が急変した時点で、ご家族に、救急車を呼ぶか呼ばないかを判断してもらうはずだった
だが、介護事故のあった日の翌日未明に、あのパソコン大好きで眼鏡をかけていた伊藤老人が、亡くなってしまった。
死後の発見であった。
無論、家族の同意も、伊藤老人本人の意思も尊重した結果で、悠寿美苑側はできる限りのことをした。
とはいえ、寿美花や施設長、他の職員たちの間に、なんとも呼べない嫌な気分が残ったのは、あの座位を保てずに転落した老人と同じように、何かサインのようなものを見落としていたのではないか、という忙殺されていたために生まれた不安だった。人手不足で伊藤老人の体調の変化を見落としていたのではないか? 忙しいことを理由に充分な看取り介護ができなかったのではないか? 尽きない疑問、そして、相手が死者である以上、絶対に解答を得られない疑問だった。消えない後悔のようなものを、悠寿美苑で働く多くの者が持った。
「夫もね、健康だけが取り柄だと言ってた妻が、体を壊しちゃったわけじゃない? そしたら、急に不安になったらしくて『自分の収入だけでいいじゃないか』と控えめながら提案してきたの。わたしと違って痩せて頼りなく見える夫がね、『もし足りないなら、残業してでもどうにか収入を増やせないか上司と掛け合ってみる』とまで言ってくれたのよ」
寿美花には、何も言い返すことはできなかった。誰に自らの家庭を放置して、老人ホームの仕事を優先しろなどと言えるだろう? 要が倒れたことで、夫や息子が不安や不満を感じるのも当然だった。
とりあえず、要からこういう話があったということだけを、事務長と施設長などに伝えておくということだけで、電話を切った。「やめる」というはっきりとした三文字は聞かずに済んだのは、偶然とはいえ、施設長の娘で、まだ年若い寿美花が取ったためだろう。
要からの電話を、事務長か、母である施設長か、どちらに先に伝えようかと迷っているうちに、別の事件が起きた。
椅子に座らせていた老人が、ずり落ちて転倒した。
なぜ座ったままの老人が倒れるのか? 座っているんだから安定しているんだし、そのまま放置しておいて大丈夫なんじゃないのか? そう考えるのが、一般的な考え方だ。
けれど、自分の体を自由に動かせない高齢者の多い老人ホームでは、この座位を保てずに転倒するということが、不注意な状態だと稀にある。
長時間座っていて苦痛になってきたお年寄りが、姿勢を変えたいと思う。けれど、周囲を見回しても人がいなかったり、いたとしても忙しそうに働いていたりする。仕方なく、少しでも体をずらして心地よく座ろうとして、じょじょに姿勢が崩れる。当然、元々、手助けなしでは、座っている姿勢を変えるのにも苦労するようなお年寄りなので、ずり落ちて転落しそうになっても抵抗できず、そのまま倒れてしまうのだ。
こういったことを含む、転倒、転落による事故は、介護事故の中で、約八割を占めていると市町村に報告されるデータにはある。ある程度の介護の知識のある人なら、この「座らせっぱなし」というのは一種の「身体拘束」と同じだということを知っていた。
つまり、ど素人ならともかく、プロの多い介護の現場で、このような事故が起きたということは、人手不足がより深刻になってきたという証に他ならなかった。
そんなふうに、ますます寿美花の必要性が増す中、彼女は母である施設長にさえ告げずに、転落事故の翌日、無断で手伝いを休んだ。
ほぼ毎日、中堅の介護職員が抜けた時からは一日も休まず、顔を出していた寿美花である。休むことも極めて異例なら、まして誰にもそれを告げずに休むなど初めてだった。
一日中、ただ誰とも会わず、部屋に引きこもっていた。閉めきった薄暗い部屋の中、両腕で両膝を抱いて、ベッドの上に座り込んでいた。目は虚ろで、何も見ていないようでもあった。ぽっかりと穴が空いたような心境と同じく、空虚な表情だ。
悠寿美苑で不幸があった。
伊藤老人がこの世を去ったのだ。
老人ホームは、医療機関である病院ではない。
病院と同レベルの救命救急体制はなく、夜になれば医者は確実にいなくなる。夜間にいるのは、少数の介護職員と看護師だけだ。
そこで起こりえるのが、「死後の発見」である。
それは、病院ではまずあり得ない。医療機関では起こってはならないとされていることだ。よくドラマなどで、病室にいるお年寄りを二十四時間監視しているモニターが、ピィーッと音を鳴らし、白衣の男性や看護師たちが急いで駆けつけて来て、心臓マッサージを開始する。「ご家族に連絡をっ!」しばらくして「ご家族が到着されましたっ!」深夜に車を飛ばしてきた家族たちが老人の手を握り、涙ながらに呼びかける。そして、しばらく経って「……ご臨終です」と沈痛な面持ちで医師が家族に告げる。
これが可能なのは、二十四時間体制で、モニターなどを使って見守っているからだ。
だが、老人ホームは、そういった体制はなく、また医師も夜間にはいない。
これは、伊藤老人の家族に限らず、老人ホームに入所するどの家庭にも説明されている。つまり、人生の最後を、施設で迎えるのか、それとも病院で迎えるのか。そして、伊藤老人は、後者を選び、こうして悠寿美苑にいた。
そして、一度確認してあるが、本来ならもう一度、体調が急変した時点で、ご家族に、救急車を呼ぶか呼ばないかを判断してもらうはずだった
だが、介護事故のあった日の翌日未明に、あのパソコン大好きで眼鏡をかけていた伊藤老人が、亡くなってしまった。
死後の発見であった。
無論、家族の同意も、伊藤老人本人の意思も尊重した結果で、悠寿美苑側はできる限りのことをした。
とはいえ、寿美花や施設長、他の職員たちの間に、なんとも呼べない嫌な気分が残ったのは、あの座位を保てずに転落した老人と同じように、何かサインのようなものを見落としていたのではないか、という忙殺されていたために生まれた不安だった。人手不足で伊藤老人の体調の変化を見落としていたのではないか? 忙しいことを理由に充分な看取り介護ができなかったのではないか? 尽きない疑問、そして、相手が死者である以上、絶対に解答を得られない疑問だった。消えない後悔のようなものを、悠寿美苑で働く多くの者が持った。
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