第一話 新生活の早朝
……朝が来る。スズメたちの朝のあいさつに起こされると、胸の上に重量を感じていた。
そこにいるのは、期待していた通りモルガナだった。くの字に体を曲げたまま、ぐーぐーすやすやと心地良さげないびきをかいている。
雨宮蓮はあくびをしながら、マクラに埋まった首をゆっくりと回していく。コキコキと、首が鳴る。猫にたかられて眠ると、あちこち体がいたくなるものだ……。
『……えへへ……杏殿ぉ……』
どんな夢を見ているのだろうか?……猫……いや、猫型不思議生物のくせに、俗っぽい夢を見ているのだろう。そんな確信を抱く。
モルガナは杏のことを慕っている様子ではある。それは、おそらく男が女性に抱く恋心そのものなのであろうが……杏は、モルガナのことを猫の一種類として見做していないと雨宮蓮は考える。
少々、切ない結果になりそうな恋心だ。まあ、何度、振られたって、モルガナが杏のことを嫌いになることも、杏がモルガナのことを嫌う日も来ないだろうが……。
……そんなことはともかく、今は……何時なのだろうか?
視線を動かし、時計を見た……6時34分……家を出なければならないリミットまでは、まだかなり時間がある……二度寝をしようか?
それも楽しい選択であるには違いがなかったが、蓮はもう一つのしてみたいことを選ぶことにした。熟睡モードのモルガナを起こさないように、やさしげにその位置を変えていく。
……猫にしか思えない、だらんとした柔軟な体ではあるが、フツーの猫なら、これほど体がだらんとすれば、起きるような気がした。
「さすがだ」
蓮はモルガナの動じなさに小さな感銘を抱きつつ、自分の抜け出したベッドにやさしく置いてやる。猫が寝返りを打ちながら、まだ寝言を放った。
『……猫缶……猫缶……でへ、でへへへへ……我が輩、もう、食べられないぞ……』
お腹が空いているのだろうか?……昨夜は、夜更かししてしまった。モルガナは手伝いをしてもくれていたからな。
段ボールの梱包を解いたり……妙な器用さを発揮して、新しい棚を作ってくれてもいた。東京土産を並べるための棚である……まあ、これからは、他の土産も並べるとしよう。
だが、その野心を叶えるための行動は後日だ。今は朝食と……昼の弁当を製作することにした。
キッチンに向かう。両親は海外出張中で、しばらくは帰って来ない。新しく編入した高校にも自分だけで―――バッグのなかにはモルガナ同伴で向かうことになるが、とくい問題を感じることはなかった。
大人との対応には、すっかりと慣れてしまった。ルブランでのバイトを始め……いや、さまざまな大人たちとも交友関係が広まったことの影響だろう。怪しげな人脈も色々と増えてしまっていた。
元・ヤクザの銃マニアとか、与党の現役国会議員だとか、闇医者だとか、凄腕の占い師だとか、スクープ狙いの記者だとか、検事を辞めた弁護士だとか……どこか不思議な人脈が作られていた。
その結果、一般の大人に対して、物怖じするような根性ではなくなってしまっている。
色々と修羅場にも揉まれてしまい、自分が世間ズレし始めていないかは心配ではあるが、とりあえず、そんなことを考えるよりも先に、朝のコーヒー作りに取りかかる。
惣治郎が厚意により、プレゼントしてくれた、小型のサイフォンがある。
ルブランにあるような業務用ほど本格的なものではないが、ガラスボールの間を上下するコーヒーを観察することは出来る。
『せっかく仕込んだコーヒー作りの腕を落とすんじゃねえよ』という言葉が聞こえてきそうだった。
蓮は手慣れた指を使い、コーヒー豆を挽くと、サイフォンに仕掛けていく。
ゆっくりと抽出されていくコーヒーが、良い香りを朝の自宅に満たして行く中、その香りに誘われたように、二階からスタスタと軽い足音が聞こえて来た。
『感心、感心。朝から、マスターの弟子として豆まで挽いたのか』
「グアテマラ産だ」
親指を立てながら蓮は語る。なおかつ、ゆっくりとうなずいてくる。モルガナは、ふむ、と小さくつぶやきながら、蓮のノリに合わせてやるために頭を下げていた。
正直なところ、先ほどのセリフにどんなコダワリがあるのかを、モルガナは理解していない。
だが、美学を感じることは出来たのだ。
新たな生活が始まる今このときに、グアテマラ産のコーヒー豆を挽いて、それでコーヒーを淹れるということは、雨宮蓮にとって、譲れぬ美学があることなのだろう……そんな風に納得してやることは出来たのである。
『……今日は、そういうノリなんだな』
「ああ。そういうノリだ。モナも……飲むか?」
『……我が輩は猫舌なので、少々、冷やしてくれたものの方がいい。いや、ノリに付き合えというのなら、猫舌を焼く覚悟で飲むのだが……?』
「そこまではしなくていい。牛乳で割ろう。カフェオーレにする」
『おお!気が利くではないかー!……うむうむ。ミルクは、正義だからな!』
何だか猫らしい。そうツッコミを入れないことが、無口な自分とモルガナのコンビが安定している秘訣なのかもしれない。雨宮蓮は、そんな分析をしてみた。
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