第捌話
ヒルダの家が位置する西口の先には平野に繋がる森が広がっており、大抵の場合はそこから魔物がやってくる。言い換えれば、人の気配もなく広々としたそこは絶好の戦闘場でもあった。
「なぁ、ヒルダ」
ぼんやりした調子で不意にシグルスが呟いた。
ようやく西口について夜勤上がりの近衛と交代し、武具の調整をしていた矢先のことだった。
「ドラゴンがいなくなったら嬉しいか?」
「は?」
突拍子もない問いかけに、思わず間抜けな切り替えしをしてしまう。
答えあぐねているヒルダと、手元の愛剣に視線を落とし続けるシグルスの間に沈黙が募る。一瞬だけシグルスがちらりとヒルダを横目で見ると、彼にしては珍しくどうにも煮え切らない様子でもごもごと言葉を続けた。
「いや、嬉しいかっていうかさ……ドラゴンいなくなったら、こう、もっとみんなが幸せになれる、よな?」
「それは……まぁ、もちろん」
ドラゴンがいなくなれば、統率を失った魔物達の勢いは衰えるはずだ。ドラゴン討伐に向けた兵役も納税も撤廃され、人々の生活苦も緩和される。街では魔物の襲撃を気にせず子供が走り回り、街道が機能することで貿易も活性化し市場も賑わいを見せるだろう。
平穏。それは人々が、ヒルダとシグルスが何度も夢見た世界である……が。
「でもそんなこと、有り得ない」
ヒルダ自身でも驚くほど冷え切った声が出た。嫌っていた後ろ向きな大人たちの姿に反発するように、少しでも希望の光になれればと近衛として努力してきたというのに、現実に疲弊した心が彼女の本音を垂れ流した。
なんだか気まずくて視線を逸らしたヒルダを今度はじっと見つめて、やけに落ち着いた声でシグルスがもう一度問いかける。
「そう思う?」
普段の軽やかな笑顔は失せて、随分と大人びた表情で静かに紡がれた言葉。
金色の瞳が長い前髪の奥で淡々と光っている。
しばらく呆然とその言葉の真意を考えていたヒルダだが、やがて脳裏に浮かんだ嫌な予感に背筋を凍らせる。
「ねぇ、まさか」
言葉尻が震え、手に握っていた愛槍の柄が汗にぬめる。
「ドラゴンを倒しに行くだなんて、言わない、よね?」
シグルスはしばらくヒルダを見つめた後、ふたたび愛剣に目を落とした。陽光を反射させて輝く刃はいつも以上に研ぎ澄まされて見える。
どれだけ待っても、返ってくるのは沈黙だけだった。怒りか恐怖か、身体の芯が縮み上がる思いがしてヒルダの呼吸が浅くなる。
沈黙を肯定とするのはシグルスの癖なのだ。
「駄目よ!」
キンと高く響いたヒルダの声に、シグルスが肩を縮めた。そこでようやく苦笑いのようなものを浮かべたシグルスの表情が緩む。
「やっぱり怒った」
「当たり前でしょ! 自分の言ってることわかってる? 死にに行くって言ってるのと同じことなのよ!」
「この若さで死ぬのはごめんだな。俺の目標、百歳になっても現役近衛で活躍して地方紙の一面を飾ることだから」
この期に及んでけらけらと冗談めいたことを言い、しかしドラゴン退治については一切茶化さない。まるでヒルダを煙に巻こうとしているかのようで、それに一層腹が立つ。
夢見がちな性格というのだろうか、シグルスは大層な目標を掲げ、それを成し遂げようとすることが昔から好きだった。現実的に不可能に近いことであっても実現できる根拠がなくても、とにかく、諦めるということを知らない。
かといって、今回の提案は世迷いごとにしか聞こえなかった。自分も夢見がちで諦めの悪い人間だと自覚しているヒルダだったが、さすがに今回は頭痛を覚える。
「王国の兵隊だって敵わないドラゴンをあなた一人でどうにかできるわけないでしょ? ねぇお願い、一回冷静になって考え直して!」
「俺は冷静だよ。それに、これはずっと前から考えてたことなんだ」
「そんな……、でもっ!」
シグルスを失いたくない一心で、取り乱したヒルダがさらに縋ろうとしたその瞬間。森の奥の樹が無風の中で揺れて、そこに生じた魔物の気配に二人が同時に振り向く。
「なぁ、ヒルダ」
ぼんやりした調子で不意にシグルスが呟いた。
ようやく西口について夜勤上がりの近衛と交代し、武具の調整をしていた矢先のことだった。
「ドラゴンがいなくなったら嬉しいか?」
「は?」
突拍子もない問いかけに、思わず間抜けな切り替えしをしてしまう。
答えあぐねているヒルダと、手元の愛剣に視線を落とし続けるシグルスの間に沈黙が募る。一瞬だけシグルスがちらりとヒルダを横目で見ると、彼にしては珍しくどうにも煮え切らない様子でもごもごと言葉を続けた。
「いや、嬉しいかっていうかさ……ドラゴンいなくなったら、こう、もっとみんなが幸せになれる、よな?」
「それは……まぁ、もちろん」
ドラゴンがいなくなれば、統率を失った魔物達の勢いは衰えるはずだ。ドラゴン討伐に向けた兵役も納税も撤廃され、人々の生活苦も緩和される。街では魔物の襲撃を気にせず子供が走り回り、街道が機能することで貿易も活性化し市場も賑わいを見せるだろう。
平穏。それは人々が、ヒルダとシグルスが何度も夢見た世界である……が。
「でもそんなこと、有り得ない」
ヒルダ自身でも驚くほど冷え切った声が出た。嫌っていた後ろ向きな大人たちの姿に反発するように、少しでも希望の光になれればと近衛として努力してきたというのに、現実に疲弊した心が彼女の本音を垂れ流した。
なんだか気まずくて視線を逸らしたヒルダを今度はじっと見つめて、やけに落ち着いた声でシグルスがもう一度問いかける。
「そう思う?」
普段の軽やかな笑顔は失せて、随分と大人びた表情で静かに紡がれた言葉。
金色の瞳が長い前髪の奥で淡々と光っている。
しばらく呆然とその言葉の真意を考えていたヒルダだが、やがて脳裏に浮かんだ嫌な予感に背筋を凍らせる。
「ねぇ、まさか」
言葉尻が震え、手に握っていた愛槍の柄が汗にぬめる。
「ドラゴンを倒しに行くだなんて、言わない、よね?」
シグルスはしばらくヒルダを見つめた後、ふたたび愛剣に目を落とした。陽光を反射させて輝く刃はいつも以上に研ぎ澄まされて見える。
どれだけ待っても、返ってくるのは沈黙だけだった。怒りか恐怖か、身体の芯が縮み上がる思いがしてヒルダの呼吸が浅くなる。
沈黙を肯定とするのはシグルスの癖なのだ。
「駄目よ!」
キンと高く響いたヒルダの声に、シグルスが肩を縮めた。そこでようやく苦笑いのようなものを浮かべたシグルスの表情が緩む。
「やっぱり怒った」
「当たり前でしょ! 自分の言ってることわかってる? 死にに行くって言ってるのと同じことなのよ!」
「この若さで死ぬのはごめんだな。俺の目標、百歳になっても現役近衛で活躍して地方紙の一面を飾ることだから」
この期に及んでけらけらと冗談めいたことを言い、しかしドラゴン退治については一切茶化さない。まるでヒルダを煙に巻こうとしているかのようで、それに一層腹が立つ。
夢見がちな性格というのだろうか、シグルスは大層な目標を掲げ、それを成し遂げようとすることが昔から好きだった。現実的に不可能に近いことであっても実現できる根拠がなくても、とにかく、諦めるということを知らない。
かといって、今回の提案は世迷いごとにしか聞こえなかった。自分も夢見がちで諦めの悪い人間だと自覚しているヒルダだったが、さすがに今回は頭痛を覚える。
「王国の兵隊だって敵わないドラゴンをあなた一人でどうにかできるわけないでしょ? ねぇお願い、一回冷静になって考え直して!」
「俺は冷静だよ。それに、これはずっと前から考えてたことなんだ」
「そんな……、でもっ!」
シグルスを失いたくない一心で、取り乱したヒルダがさらに縋ろうとしたその瞬間。森の奥の樹が無風の中で揺れて、そこに生じた魔物の気配に二人が同時に振り向く。
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