恋人主
体が動かない…。
靴だけ脱いだものの、家に帰ってきた安堵感から一気に疲れに襲われて、膝をついた瞬間に倒れこむように床に転がった。
玄関で横になるだなんて、いい歳して何やってんだろう…。
ああ、でもやっぱり我が家は落ち着く…。
ちょっとだけ休んだら、鍵を閉めて部屋に行こう。
そう決めて瞼を閉じれば、すぅ…っと床に吸い込まれるように意識が途絶えた。
何時間だか、何十分だか分からないけれど、その意識は腕を強く引っ張られる感覚で少しだけ覚醒した。
…揺れ、てる?
未だ重すぎる瞼を頑張って少し開けると、視界に映ったのは暗闇にぼんやり浮かぶ恋人の顎だった。
どうやら総くんが抱き上げているみたい。
「…総、くん…?」
「…もう少し寝とけ。」
静かな声でそう答えた総くんに、限界だった瞼が光を閉ざした。
腕力のこともあって、そっと、とは言えないけれどもゆっくりと私をベッドへと下ろしてくれた総くん。
掛け布団を掛けられ、ぽんぽんと頭を撫でられると、その安心感から再び私の意識が闇へと溶けた。
何だかよく分からない夢を見ていた気がする。
とてつもない空腹感から目を覚まして体を起こし、鼻腔をくすぐる匂いにつられて床をペタペタ鳴らせながらその先に向かった。
匂いの元は、キッチンに立つ総くんのところからだった。
起こさないように気を遣ってくれたのか、電気も最小限にしてくれていて。
「おはよう…。」
「おー。起きたか。」
私の声に振り向いた総くんは、
そのどろっどろの顔なんとかしてこい。
とだけ言って、再び手元に視線を落とした。
そう言えば私、仕事から帰ってそのままだったんだっけ。
だらしないにも程がある…。
それにしても、普段の傍若無人っぷりが嘘のような優しさ。
一体どうしたんだろう。
いつもの総くんからはとても想像が出来ない今日の様子に首を傾げながらも、化粧を落としてシャワーを浴びる。
シャワーを浴びてしまえば、ぼんやりしていた意識もさすがにシャッキリとしてきて。
浴室を出て部屋着に着替えて戻ると、机には美味しそうな料理が並んでいた。
普段全くやらない癖して何でもそつなくこなしてしまう総くんの凄さに改めて感心してしまう。
「…美味しい。」
「当たり前でィ。誰が作ったと思ってんだ。」
「ドS以外は欠点の無い総くんです。」
「お前も千切りにしてやろうか?」
「千切りの物なんて一つも無いんだけど…。」
細かいこと気にすんな、と言って、総くんが私のお皿に追加でお肉を乗せていく。
たんぱく質はしっかり取れ、なんて偉そうに笑いながら。
いつも私が総くんにやっていることだった。
食後の机の片付けも総くんが全部やってくれて、
イヤホンで落語を聞きながら、お皿洗いまでしてくれていた。
その後ろ姿が堪らなく愛しくなるこの感じ、何なんだろう。
たまらず立ち上がり、総くんの後ろに回ってぎゅっとその体を抱き締めた。
「どうしたんでィ。」
「総くんこそどうしたの?今日は何だか優しいね。」
「俺はいつも優しいだろうが。」
「えっ。」
表情を変えずに振り向いた総くんが、体を離して濡れた指先で私の額を弾く。
上手い茶でも煎れてろ。
とお皿に視線を戻した総くんの顔は、少しだけ笑っているように見えた。
…これは、本当に美味しいお茶、煎れないとなぁ。
つられて緩む口元を総くんから隠し、沸騰させたお湯を湯冷ましに入れて、それを更に急須に入れてお茶を注ぐ。
茶葉の良い香りが、ほっと心を落ち着かせてくれた。
ちょうどお皿洗いを終えて手を拭いた総くんが私の隣に腰を下ろし、私はそのお茶を総くんに出した。
「有難う、凄く助かっちゃった。」
「別に。勝手にやったことだし。」
そう言って、息を吹き掛けてから湯呑みを傾ける総くん。
相変わらず素直じゃないなぁ、なんて思いながら苦笑していると、総くんの大きな手が私の頭の上に乗って、乱暴に撫で回した。
「……連勤お疲れ。」
鬼の連勤でぼろぼろだった体も心も、
総くんのその一言だけでじんわり癒されていくようだった。
「…総くん、明日お休みなんだよね?」
「おう。」
「じゃあ、一緒にこれ見よう?」
恐らく総くんが玄関からベッドの横に持ってきてくれていた鞄に手を突っ込んで袋を取り出し、その中身を出して総くんにパッケージを見せる。
これは松竹家梅太郎さんの新作独演会DVD。
総くんに勧められて私までファンになった有名な噺家さんのDVDで。
「私、総くんと落語見ながらお腹抱えて笑う、ゆっくりした時間が凄く好きなんだ。」
連勤頑張れたのも、総くんと一緒にこれを見たくて頑張れたんだよ?
ってDVDで口元を隠しながら笑ったら、総くんはそのDVDごと私を引き寄せて、腕の中に閉じ込めた。
「…今度、休み合わせて梅太郎さんの寄席行くかァ。」
「行く!」
またお仕事頑張れるね!と笑うも、総くんは私を抱き締めたまま、それには同意しなくて。
あんま無理すんな。
と、強く抱き締めながら囁いた声が私の心の疲れを解して、両目から零れ落ちて行った。
end
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