第20話
もしこの日記を読んでくださっているどなたかがいるならば(そのときわたしはきっと死んでいるか、ろくに動けないほど重傷だと思うので)、この日記を、お兄さんが裏表紙に書いた住所まで届けて欲しいのです。
お兄さんの願いは、
わたしを守ること、
そして、
この日記をママとお姉さんに届けること。
わたしの願いは、
友達と離ればなれにならないこと。
いいかえるなら、決して見捨てないということ。
お兄さんはこういいました。
「繰り返す」と。
人間っていうのは、あやまちや失敗やミスや……そういった悪いことをただただ、繰り返すって。
まだ十年と少しを生きたわたしでは、よくわかりません。
確かに、人類は歴史を見てもわかるように、悪いこと(戦争とか)を繰り返すようです。
そしてそれは、個人を見ても同じように思えます。
――――でも。
これだけは忘れないで欲しいのですが、
お兄さんは、確かに、その輪廻を打ち砕こうとしました。
わたしを守り抜くために、決死の覚悟で、絶体絶命の窮地に、たったひとりで、武器もなく向かいました。
……確かに、お兄さんは達することができなかった。
だからこそ――わたしは達することを欲しなければならない。
テツを助けにいきます。
あの子はピンクのランドセルを捨てたあと、いっしょに駆けていたつもりでしたが、どこかでもたついて、ここまでやって来ませんでした。まだきっと海岸沿いの路上をうろうろしていると思います。だから、助けに行きます。
*
わたしの口からうめきが漏れた。
ひぐぅっともおぐぅっともつかない、嘔吐するような、胃にこみあげたものを飲みこむようなひどい音。口の中が胃液の苦さと、涙のしょっぱさが混ざりあって気持ち悪い。
「……マナは……テツを助けにいったのか…………なんてことだ。なんてことだ!!」
一度目の「なんてことだ」はマナの行動を非難する言葉。
だが、二度目は違う。
わたしはやっと自らのあやまちに気づいた。
どこぞの青年のいった言葉どおりだ。
人はあやまちを繰り返す。
まさにわたしがそうだ。
わたしは、マナが文字どおり命を賭けて、たかが犬を――いや今さらたかが犬などと呼ぶべきではない――テツを、彼女が認めた唯一の家族を助けるために、死地に自らおもむいたと知って、やっと彼女がどれほどあの犬を大切にしていたか理解した。
もしマナと最後に喧嘩した日に戻れるのなら、わたしが全身全霊をもって説得すべきは、娘ではなく、コロニーの入管のトップにいる官僚だったのだ。
「わたしは、馬鹿だった」
涙が落ちる。
マナのほおへ、唇へ、ふいに、マナの唇がうごめいた気がした。錯覚――そう思ったが、違った。
ごぼっと大量の血を吐き、そのあとマナが目を開いた。
「お嬢様の意識が戻られたようです」
一時的に、という言葉を医師の資格をもつ彼は口にしなかった。懸命なことだ。もしそんな余計な一言をいおうものなら、わたしの腰にある護身用の拳銃が火を吹くところだ。
だが、そいつが余計な一言をいおうというまいと、現実は変わらない。
マナは重傷ではなく、死ぬ直前。もう医療だの精神論だのでどうこうなる状況ではない。この奇跡は長くは続くまい。
かすれるマナの声。聞こえない。わたしは耳を娘の口に近づけた。
「パパ……」
愛しい娘の最後の言葉が耳に入ってくる。
「ああ……! マナ……! マナ! わたしはここにいる! いまここにいる!」
娘の唇に、かすかに笑みが浮かぶ。見開かれた目から一筋の涙が落ちた。
「パパは……やっぱり、いつもわたしの一番困っているときにはそばにいてくれないね」
「……マ、マナ?」
わたしは、目を閉じてしまった娘の肩をゆする。口にたまっていた血が、まるで皿を傾けたようにこぼれ落ちる。
最後に一言いえたこと自体が奇跡。まぎれもなく奇跡。
だが。
わたしはそんな奇跡など欲しくなかった。
「わああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
ぎりぎりたもっていたわたしの精神が崩壊する。波打ちぎわの砂の城のごとく。
「そうだ! そうだ! そのとおりだ!」
わたしは狂乱し――狂乱していることさえも忘れ、髪といわず、顔面の皮膚といわず、かきむしりまわした。
「わたしはいつもそばにいない! マナの大切なときに! いつも! いつも! いつもいないんだ! ……ははははっ! マナのいうとおりだ、これで家族などとは片腹痛い!」
わたしはマナのそばの地面に頭を叩きつけた。
ガンガンと鈍い音がする。
アスファルトの地面と私の頭蓋骨が根比べするように何度もぶつかりあう。
…………やがて。
ひたいから大量の血を流したわたしは、非常に冷静になっていた。――いや。もうなにが冷静で、なにが正しいのかわからない。
あれほど優越感に満ちた、エリート意識と選民思想を満足させる宇宙への脱出が色あせて感じられた。
空を見あげる。
白い真昼の月が見えた。
お兄さんの願いは、
わたしを守ること、
そして、
この日記をママとお姉さんに届けること。
わたしの願いは、
友達と離ればなれにならないこと。
いいかえるなら、決して見捨てないということ。
お兄さんはこういいました。
「繰り返す」と。
人間っていうのは、あやまちや失敗やミスや……そういった悪いことをただただ、繰り返すって。
まだ十年と少しを生きたわたしでは、よくわかりません。
確かに、人類は歴史を見てもわかるように、悪いこと(戦争とか)を繰り返すようです。
そしてそれは、個人を見ても同じように思えます。
――――でも。
これだけは忘れないで欲しいのですが、
お兄さんは、確かに、その輪廻を打ち砕こうとしました。
わたしを守り抜くために、決死の覚悟で、絶体絶命の窮地に、たったひとりで、武器もなく向かいました。
……確かに、お兄さんは達することができなかった。
だからこそ――わたしは達することを欲しなければならない。
テツを助けにいきます。
あの子はピンクのランドセルを捨てたあと、いっしょに駆けていたつもりでしたが、どこかでもたついて、ここまでやって来ませんでした。まだきっと海岸沿いの路上をうろうろしていると思います。だから、助けに行きます。
*
わたしの口からうめきが漏れた。
ひぐぅっともおぐぅっともつかない、嘔吐するような、胃にこみあげたものを飲みこむようなひどい音。口の中が胃液の苦さと、涙のしょっぱさが混ざりあって気持ち悪い。
「……マナは……テツを助けにいったのか…………なんてことだ。なんてことだ!!」
一度目の「なんてことだ」はマナの行動を非難する言葉。
だが、二度目は違う。
わたしはやっと自らのあやまちに気づいた。
どこぞの青年のいった言葉どおりだ。
人はあやまちを繰り返す。
まさにわたしがそうだ。
わたしは、マナが文字どおり命を賭けて、たかが犬を――いや今さらたかが犬などと呼ぶべきではない――テツを、彼女が認めた唯一の家族を助けるために、死地に自らおもむいたと知って、やっと彼女がどれほどあの犬を大切にしていたか理解した。
もしマナと最後に喧嘩した日に戻れるのなら、わたしが全身全霊をもって説得すべきは、娘ではなく、コロニーの入管のトップにいる官僚だったのだ。
「わたしは、馬鹿だった」
涙が落ちる。
マナのほおへ、唇へ、ふいに、マナの唇がうごめいた気がした。錯覚――そう思ったが、違った。
ごぼっと大量の血を吐き、そのあとマナが目を開いた。
「お嬢様の意識が戻られたようです」
一時的に、という言葉を医師の資格をもつ彼は口にしなかった。懸命なことだ。もしそんな余計な一言をいおうものなら、わたしの腰にある護身用の拳銃が火を吹くところだ。
だが、そいつが余計な一言をいおうというまいと、現実は変わらない。
マナは重傷ではなく、死ぬ直前。もう医療だの精神論だのでどうこうなる状況ではない。この奇跡は長くは続くまい。
かすれるマナの声。聞こえない。わたしは耳を娘の口に近づけた。
「パパ……」
愛しい娘の最後の言葉が耳に入ってくる。
「ああ……! マナ……! マナ! わたしはここにいる! いまここにいる!」
娘の唇に、かすかに笑みが浮かぶ。見開かれた目から一筋の涙が落ちた。
「パパは……やっぱり、いつもわたしの一番困っているときにはそばにいてくれないね」
「……マ、マナ?」
わたしは、目を閉じてしまった娘の肩をゆする。口にたまっていた血が、まるで皿を傾けたようにこぼれ落ちる。
最後に一言いえたこと自体が奇跡。まぎれもなく奇跡。
だが。
わたしはそんな奇跡など欲しくなかった。
「わああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
ぎりぎりたもっていたわたしの精神が崩壊する。波打ちぎわの砂の城のごとく。
「そうだ! そうだ! そのとおりだ!」
わたしは狂乱し――狂乱していることさえも忘れ、髪といわず、顔面の皮膚といわず、かきむしりまわした。
「わたしはいつもそばにいない! マナの大切なときに! いつも! いつも! いつもいないんだ! ……ははははっ! マナのいうとおりだ、これで家族などとは片腹痛い!」
わたしはマナのそばの地面に頭を叩きつけた。
ガンガンと鈍い音がする。
アスファルトの地面と私の頭蓋骨が根比べするように何度もぶつかりあう。
…………やがて。
ひたいから大量の血を流したわたしは、非常に冷静になっていた。――いや。もうなにが冷静で、なにが正しいのかわからない。
あれほど優越感に満ちた、エリート意識と選民思想を満足させる宇宙への脱出が色あせて感じられた。
空を見あげる。
白い真昼の月が見えた。
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