夜よ
毛布に描かれた稜線は浮いたりへこんだりしている。当たり前だ。もう4時になる。
こんな時間に、この男のもとを訪ねる俺はいったい何がしたいのだろう。何を期待していたのだろう。
名前を呼んでみようかと考えたけれどやめた。こうして寝顔を見ているぐらいしか、俺はまだ許されていないのだから。
数週間前、この男に殴られた。
この男がクラブに戻ってきてからというもの、俺は整理も整頓ができなくなった。自分の周りも中も常にぐちゃぐちゃ散らかっていて、どれが必要でどれが不要なのかよく分からない。頭の中がいつもめちゃくちゃ。とっ散らかっている。何もかもうまく仕分けられずにいる。
思考と行動が連携しないなんて、ユニフォームをもらって返すまでさんざん経験したはずなのに。
俺は学習力がない。
この男と寝たあの日も俺はぐちゃぐちゃだった。
ぐちゃぐちゃのくせに、若さと本能に従って、あっさり手を出して、この男の平らな胸を存分に楽しんだ。
すっかり良い思いをして身をはがそうとした時だった。この男は枕に顔を埋めたまま「だめだ」と言い「もっかいして」と怒った。
「好きだ」とつぶやくこの男の横顔は、まるで負け試合の後のようでくやしそうだった。
先に手を出してきたのはこの男だったし、どういうつもりなのか知らなかったわけではない。なのに俺はこの男のセリフに微笑んで、余裕があるふりをしてみせたのだ。
俺は何か言葉を紡がなければと思ったけれど何も言えなかった。頭をよぎる言葉はたくさんあった。それらのどれも言わなかった。言えなかった。これ以上、自分自身をややこしくしてはいけないと思った。
この男はさらに何か言いたそうな目をしていたから、そんな目をして唇を動かそうとした瞬間に釘を打ちこむようにして封じた。何も言えなかったし、もう何も言わせたくなかった。言ってほしくなかった。
だがどうだ。俺は今、こんなにもややこしい。
毛布の尾根を伝う。その細長いからだに触れると、右手の指先が震えていることに気付いた。きっと寒さのせいだと心の奥に向かって言い聞かせる。そうでなければ何だと言うのだ。
これほど近くに在るというのに。
あれほどひどいことをしたというのに。
一度は手放したくせしてまた欲しがっている。
俺は本当にいい性格をしている。
この男に「守りたい」と告げた。あの日、飲み込んだのはこんな言葉ではなかったはずなのに、自然とこぼれ出たのだ。
俺の告白を聞いたとたん、この男のレモンの形をした目がゆがんだダイヤみたいに変形して、その様子を眺めているうちに俺は殴られていた。切れた口の内側、血の味で殴られたと気づいた。殴られて気を失ったわけではないのに、その後の行動を俺はまったく覚えていない。
しばらくこの男は不機嫌だった。距離を詰めると威嚇され、追い払われた。それでも俺は謝罪するつもりはない。嘘ではないのだから。
今日、薬をもらいに病院へ行った。この男のものじゃなく、この男を見るたびに痛む胃に与える薬だ。
予約せずに駆けこんでしまったせいで、診療から会計までずいぶん待たされた。
後藤さんと呼ばれるごとに顔をあげるが、毎度同じ苗字を持つ人が立ち上がって受付に向かうので、イライラフラフラ病院を抜け出し、周辺をやみくもに歩きまわった。
しかし住宅街は当然住宅しかないのだ。仕方なく、さして興味のない器屋に入った。
九谷焼、有田焼、益子焼、常滑焼に萩焼。地名と地図をリンクさせているうちに、無益な時間は有益なものに様変わり、店を出る頃には重い紙袋を提げていた。
買った器は黒。ちょうど今、その窓から見える夜の色したマグカップを2つ。
店の人はしきりに使いやすいからと白地のものをすすめてきたが、同意して納得しつつも反抗してあれにした。
あの黒のマグカップは、飲み口が厚く、持ち手の穴が小さい。整然と並べられた器たちの中で、それだけが傾斜していて異様だった。
武骨でいびつ。
まるで俺たちの関係みたいだと思った。
この男は昔みたいにすんなり贈り物を受け取らないが、俺はめげずに差し出すつもりでいる。「イラネ」と言われるかもしれない。あるいは受け取ったとしても使いにくいだの、かっこ悪いだの、洗うのが面倒くさいだの文句を言われるのかもしれない。
贈り物をしたからといって、気持ちが通じ合うはずがないと分かっている。
それでも贈らずにはいられないのは、あれほどくやしそうに抱かれ、苦しそうに好きだと言わせてしまったせめてもの罪滅ぼしのつもりか。やっぱり自分でも理由を説明できないのだ。
達海が起きた。毛布の山がもっそりと動く。
達海は俺をしばらく呆然と見つめてから、緩慢に毛布をめくった。だから遠慮なくもぐり込んだ。
あたたかな達海、その細い腰に腕を回すと、腹のあたりがキュルルと鳴った。今日も一日中この部屋に籠っていたそうだから、食事をとっていないのかもしれない。
昨日は珍しく唐揚げが食べたいとせがまれた。達海は変わらず不機嫌だったけれど、それだけのことが俺はうれしかった。やり直せると思った。やり直してやってもいいよという、この男なりの合図だと思った。結局、こうして俺は、いつだってこの男に許してもらう。
静かな部屋の中の、薄い毛布の下で、腹の音が小さく響く。
故障したエンジン音みたいで、俺はおかしくて「起きたらどっか行くか?どこに行きたい?」と聞いたら「過去」と言われた。
なんと意地悪な男。許して責める。責めて許す。俺たちはもう十何年もそれを繰り返している。
そろそろ夜明けだ。
俺たちのおだやかな朝がまもなく訪れる。
こんな時間に、この男のもとを訪ねる俺はいったい何がしたいのだろう。何を期待していたのだろう。
名前を呼んでみようかと考えたけれどやめた。こうして寝顔を見ているぐらいしか、俺はまだ許されていないのだから。
数週間前、この男に殴られた。
この男がクラブに戻ってきてからというもの、俺は整理も整頓ができなくなった。自分の周りも中も常にぐちゃぐちゃ散らかっていて、どれが必要でどれが不要なのかよく分からない。頭の中がいつもめちゃくちゃ。とっ散らかっている。何もかもうまく仕分けられずにいる。
思考と行動が連携しないなんて、ユニフォームをもらって返すまでさんざん経験したはずなのに。
俺は学習力がない。
この男と寝たあの日も俺はぐちゃぐちゃだった。
ぐちゃぐちゃのくせに、若さと本能に従って、あっさり手を出して、この男の平らな胸を存分に楽しんだ。
すっかり良い思いをして身をはがそうとした時だった。この男は枕に顔を埋めたまま「だめだ」と言い「もっかいして」と怒った。
「好きだ」とつぶやくこの男の横顔は、まるで負け試合の後のようでくやしそうだった。
先に手を出してきたのはこの男だったし、どういうつもりなのか知らなかったわけではない。なのに俺はこの男のセリフに微笑んで、余裕があるふりをしてみせたのだ。
俺は何か言葉を紡がなければと思ったけれど何も言えなかった。頭をよぎる言葉はたくさんあった。それらのどれも言わなかった。言えなかった。これ以上、自分自身をややこしくしてはいけないと思った。
この男はさらに何か言いたそうな目をしていたから、そんな目をして唇を動かそうとした瞬間に釘を打ちこむようにして封じた。何も言えなかったし、もう何も言わせたくなかった。言ってほしくなかった。
だがどうだ。俺は今、こんなにもややこしい。
毛布の尾根を伝う。その細長いからだに触れると、右手の指先が震えていることに気付いた。きっと寒さのせいだと心の奥に向かって言い聞かせる。そうでなければ何だと言うのだ。
これほど近くに在るというのに。
あれほどひどいことをしたというのに。
一度は手放したくせしてまた欲しがっている。
俺は本当にいい性格をしている。
この男に「守りたい」と告げた。あの日、飲み込んだのはこんな言葉ではなかったはずなのに、自然とこぼれ出たのだ。
俺の告白を聞いたとたん、この男のレモンの形をした目がゆがんだダイヤみたいに変形して、その様子を眺めているうちに俺は殴られていた。切れた口の内側、血の味で殴られたと気づいた。殴られて気を失ったわけではないのに、その後の行動を俺はまったく覚えていない。
しばらくこの男は不機嫌だった。距離を詰めると威嚇され、追い払われた。それでも俺は謝罪するつもりはない。嘘ではないのだから。
今日、薬をもらいに病院へ行った。この男のものじゃなく、この男を見るたびに痛む胃に与える薬だ。
予約せずに駆けこんでしまったせいで、診療から会計までずいぶん待たされた。
後藤さんと呼ばれるごとに顔をあげるが、毎度同じ苗字を持つ人が立ち上がって受付に向かうので、イライラフラフラ病院を抜け出し、周辺をやみくもに歩きまわった。
しかし住宅街は当然住宅しかないのだ。仕方なく、さして興味のない器屋に入った。
九谷焼、有田焼、益子焼、常滑焼に萩焼。地名と地図をリンクさせているうちに、無益な時間は有益なものに様変わり、店を出る頃には重い紙袋を提げていた。
買った器は黒。ちょうど今、その窓から見える夜の色したマグカップを2つ。
店の人はしきりに使いやすいからと白地のものをすすめてきたが、同意して納得しつつも反抗してあれにした。
あの黒のマグカップは、飲み口が厚く、持ち手の穴が小さい。整然と並べられた器たちの中で、それだけが傾斜していて異様だった。
武骨でいびつ。
まるで俺たちの関係みたいだと思った。
この男は昔みたいにすんなり贈り物を受け取らないが、俺はめげずに差し出すつもりでいる。「イラネ」と言われるかもしれない。あるいは受け取ったとしても使いにくいだの、かっこ悪いだの、洗うのが面倒くさいだの文句を言われるのかもしれない。
贈り物をしたからといって、気持ちが通じ合うはずがないと分かっている。
それでも贈らずにはいられないのは、あれほどくやしそうに抱かれ、苦しそうに好きだと言わせてしまったせめてもの罪滅ぼしのつもりか。やっぱり自分でも理由を説明できないのだ。
達海が起きた。毛布の山がもっそりと動く。
達海は俺をしばらく呆然と見つめてから、緩慢に毛布をめくった。だから遠慮なくもぐり込んだ。
あたたかな達海、その細い腰に腕を回すと、腹のあたりがキュルルと鳴った。今日も一日中この部屋に籠っていたそうだから、食事をとっていないのかもしれない。
昨日は珍しく唐揚げが食べたいとせがまれた。達海は変わらず不機嫌だったけれど、それだけのことが俺はうれしかった。やり直せると思った。やり直してやってもいいよという、この男なりの合図だと思った。結局、こうして俺は、いつだってこの男に許してもらう。
静かな部屋の中の、薄い毛布の下で、腹の音が小さく響く。
故障したエンジン音みたいで、俺はおかしくて「起きたらどっか行くか?どこに行きたい?」と聞いたら「過去」と言われた。
なんと意地悪な男。許して責める。責めて許す。俺たちはもう十何年もそれを繰り返している。
そろそろ夜明けだ。
俺たちのおだやかな朝がまもなく訪れる。
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