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名前がつくひとつ手前

原作: その他 (原作:血界戦線) 作者: 衣織
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名前がつくひとつ手前

「ウォォォォォォイ!!!?」

少年、レオナルドは、青い目を見開いて叫んだ。

霧烟る街、ヘルサレムズ・ロット。ここは、外の世界で起きれば百年は語り継がれるような伝説が毎秒起こることが日常の街。

この街にやってきて、相当な数の危険、否、本当にいくつ命があっても足りないような修羅場を何度も何度も生き延びてきた少年は、もはや今更百年に一度の奇跡だろうが、人知を超えた世間一般で言う未確認生命体とやらの襲撃だろうが、大声を上げて泣き叫ぶようなことはなかった。なかったのだが。


「僕の、家が」


ないのだ。バイトを掛け持ちして、ライブラの仕事もこなして、故郷の妹に仕送りをして、なんとか残った多少の金で何とか借りられる程度の安普請・危険アリ・突然の契約打ち切りアリの安アパートが、敷地からすっぽりと姿を消していたのだ。

……仕方ないのだ。突然の契約打ち切りは、最初の契約時に納得したことだ。建物がなくなったのは区画整理のためだろう。よくあることだ。寧ろ、建物の消滅の際に、そこに居合わせなくて済んだのだ。なんてラッキーなことだろう。家ごと自分も消滅だなんて憂き目に遭わずに済んで、幸運なのだ。運がいい。そう、これは幸運なのだ。


「……じゃ、ねえんだよなァ!!!」


久々の、あまりにも受け止めきれない現実の前に、眼球以外は全て凡俗な一介の少年は無力であった。


***


「チェイン、あいつはどうしたんだい」


世界の均衡を守る秘密結社ライブラの番頭、スティーブン・A・スターフェイズは、デスクに頬杖をついて口を開いた。視線の先にいるのは、ソファでぶつぶつと何かを口走りながら体を丸めて寝転がっている少年だ。

スティーブンが問うと、何もなかったはずの空間からチェインがするりと顔を出す。


「区画整理で家が消滅したそうです。家財も、丸ごと」

「それは災難だ」

「暫くは事務所に間借りするらしいですが、彼、家がなくなったの三回目ですからね」

「つくづく運のない……」


スティーブンは小さく溜息をついた。 少年は安アパートにしか住まない。少し割高でも信頼の置ける大家が貸しているアパートに住めと言いつけたこともあるが、「そんな金があったら、ミシェーラへの仕送りを増やしたいんすよ」なんて言い訳をされてしまう。

レオナルドの気持ちもわかる。自分のせいで、妹のただでさえ不自由だった体を更に不自由にしてしまったのだ。自分の身を削ってでも、彼女に償いたいと思っていることだろう。

なら、家賃分、ライブラの給料を上乗せしよう。君の働きはそれに値する。クラウスと共にそう説得しても、レオナルドは首を縦には振らなかった。

妙なところで頑固な少年は、家財を失ったことから立ち直りさえすれば、またどこぞの信用ならない、命の危険と引き換えに家賃が安いアパートを探してくるのだろう。

だが。彼の命とその眼球は、ライブラにとって、否、世界にとって必要不可欠であり、唯一のものなのだ。少年はまだそれを自覚してはいないが。

スティーブンはもう一つ溜息をついた。少年の身柄は今、ライブラのライフラインだと言うのに。


「……うちに来ればいいじゃないか」


思わず口から出た言葉は、なんだったのだろう。馬鹿。取り消せ。僕が裏でやっていることが知れたら厄介なことになるんだぞ。


「家財なら一通り揃ってるし、家賃は取らないぞ」


だから、どうしてこんな言葉が出てくるんだ。確かに同情はした。それに、彼の命の確保は最優先事項だ。けれど、それ以上のリスクが、スティーブンには存在する。


「しばらく僕の家に間借りすればいいさ、少年。ゲストルームは空いてるし身の安全は保証できる。それに、うちの家事手伝いさんが作る食事は美味いぞ」


少年が、虚ろだった表情を驚きの顔に変えている。スティーブン自身も、自分の発言に驚いているくらいだ。それくらいとんでもない提案をしたことは、スティーブンにだってわかっている。


「……スティーブンさん?あの……」

「君が家財を買い揃えるまでの間だけだよ。事務所でいつまでも寝泊まりされても困るからね」


なんとか素っ気ないふりをして、自分の机に積まれた書類に視線を戻す。

なんだ僕は。僕はどうしてしまったんだ。 自分のプライベートに他人を入れない。入れてはいけないのだ。そんなことは、スティーブンが一番よく知っている。

それでも。少年の表情が、瞬く間に絶望から浮きあがってくるのを横目で見てしまえば、もう何も言えないのだ。

わかった。白状してしまおう。

僕は、少年が悲しんでいるところを見たくなかっただけなのだ。その青い眼球が涙で濡れるところを、見たくなかった。同情だとか、彼の身の安全だとか、神々の義眼を失うリスクだとか、そんなものは建前の一つに過ぎなくて。自分に降りかかるリスクなど度外視で。

ただ、もう二度と、悲しい顔の君が遠くに行ってしまう事態を引き起こしたくはなかった。 それが、スティーブンの本音だった。

ああ、悔しい。こんな平凡で、どこにでもいそうで、そんなごく普通の子供にそんなことを思うだなんて、どうにかしている。それでもスティーブンは、きっとこのチャンスを心の片隅で待っていたのだ。


「いいんですか、スティーブンさん」

「いいよ。食事だって一人で食べるには多いんだ。ヴェデットの料理は美味いが、食べきれないこともあってね。勿体ないだろう」

書類から視線を上げずに答える。少年がどんな顔をしているかはわからない。けれど、きっと、もう泣き顔ではない。それだけで、スティーブンには十分だった。 そうだ、後で「彼等」に、しばらくの間うちに来ないように連絡しておこう。ヴェデットには、特製ローストビーフをお願いして。 スティーブンは今、この感情の名前を知るひとつ手前にいる。
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