第二話
――めでたし、めでたし。ねぇ、どうだった? この話、涙雨をモチーフにしてみたんだ。
――……え、涙雨が何かって?
――えぇと、涙雨っていうのはね……
自信満々に語り終えたアイツの顔を思い出して、口元に嘲りの笑みが浮かぶ。何がめでたし、だ。めでたいのはアイツの頭だ。涙雨なんて、意味不明だ。非科学的だ。あり得ない。本当に馬鹿な男だった。
別れて正解。
「おーい」
夜の帳に包まれた閑静な住宅街。街路樹の細い幹に背中を預けてじっと座り込んでいると、野太い声が鼓膜を揺らした。
呼び掛けられたのだと察するも、動くのが億劫だった。面を上げるどころか、立てた膝の間にずぶずぶと頭を埋める。その状態で大きく息を吸った。生温い空気が身体を満たす。息を吐いた。酒臭い空気が鼻腔をつく。
「あんただよぉ。そこのねーちゃん」
遂に声の主は目の前までやって来た。
渋々といった表情を隠すこともなく、私はぎこちなく顔を上げる。汗で縒(よ)れた長めの前髪が、視界の中心で疎らに揺れた。
巨人がいた。堂々たる体躯(たいく)が視界一杯に広がっている。不敵な面魂(つらだましい)。それでいて赤ら顔。時折しゃくり上げながら、ぐらぐらとその身体を揺らしている。その内ぷつんと糸が切れて、こちらに倒れ込んでくるのではないかと、朦朧としている意識の中でも少々肝が冷えた。
「なんですか」
巨人の不躾な態度に対して極めて淡白に返すと、巨人は少し鼻白んだようだった。また一度しゃくり上げて躊躇うような間を取ったが、やがては節榑立った指の先を私の鼻先についと突き付けてきた。
「その、あんたが、手に持ってる、酒さぁ。よければ一口くれねぇか」
考えること数秒、左手にウイスキーの瓶を握っていることを思い出し、それを目の高さまで掲げて見せる。すると巨人も同じように、手に持っていた酒瓶を掲げて見せた。
量、味、種類。等価かどうかは定かではないが、とにかく私達は瓶を交換した。
一応ラベルの文字に視線を滑らせる。が、酩酊しているこの状態では碌に理解もできない。漢字が書いてあるから日本酒か焼酎だろうと見当をつけ、深緑色のガラス瓶を一気に呷る。
芳甘(ほうかん)を孕んだ独特の苦みが、鼻の奥から脳天まで一気に突き抜けた。喉から胸にかけて、燃え盛るように疼く。口に含んだ全てを飲み下すと、胃に火が灯ったような感じがした。
ふと気づけば、巨人の目線が同じ高さにあった。いつの間にやら彼は地べたに座り込んでいる。着込んでいる背広には皺が寄り、襟元は酷く乱れていた。
みっともない、とぽつり零せば、お互い様だろ、と尤もな意見が間髪入れず返ってきた。反論できない。私は本当にみっともない。
熱い息をじっとりと陰鬱に吐き出して、黒い空を見上げた。
悠然とたなびく薄い雲が、夜空の表面を覆い隠している。
空を掴もうと真っ直ぐ手を伸ばし、虚空を掴んだ。
星明かりが届かない。
「空しいなぁ」
気づけば呟いていた。酔いどれの酒臭い口で紡がれたにしては、やけに明瞭な響き。巨人は耳聡くそれを拾って、定まらない視線で私を貫く。
「なんだぁ? ……あ、みっともないっての、癇に障ったか」
「ちょっとだけ」
「そっかぁ。けど俺ぁ、嘘は言ってねぇぞ」
私は無表情のまま緩慢に頷いて、酒瓶を地面に置いた。空いた両の手でぴったりと顔を覆う。
宵闇が視界から消えて、代わりにもっと黒々とした闇が広がった。
「わたしさぁ」
「んん?」
独り言のつもりだったが、巨人は律儀に応えてくれた。ことのほか、柔らかい声の色。
口が動くままに、淡々と語り続ける。
「振られたんだ」
「彼氏に?」
「十年も付き合ってた彼氏に」
「そいつは悲しいな」
「空しいの」
「どうして?」
「わからない」
「悲しくはないのか」
「悲しくなんかない」
「どうして?」
「愛していなかったから」
「どうして?」
「どうしても」
別れを告げられた時、頭がぼんやりとした。
ただ、悲しくなんかなかった。実際、涙は流れなかった。感情が綺麗さっぱり削げ落ちて、清々しい気分になった。アイツの隣にいる時、私はいつでもドロドロと流動していて、私らしくなかったから。ドロドロするのは、とてつもなく苦しかったから。
ただ、急にカラッポになったから、空しさが生まれた。
それだけだった。
「そうかぁ」
巨人はまた、しゃくり上げた。そして酒瓶を呷る。
私も倣って、再び酒瓶を手に取り、傾けた。ただただ苦い。酒を絶え間なく喉の奥へ流し込んでいると、体の中に一つ濁流が生まれたようで、すごく、気色悪かった。
どうせなら綺麗な川が見たいと思った。
小さな川。大きな川。三途の川。天の川。涙の川。その川縁に座って、澄んだ流れに揺蕩(たゆた)う物の動きを、じっと見つめて過ごしたい。
地面に酒瓶を置いたまま、私は静々と立ち上がった。
巨人は大して驚きもせず、酒瓶を傾けながら私の挙動を見つめていた。
「帰るのかぁ」
「……きれいな川を見に行くの」
「一人で?」
「そう、ひとりで」
「一人で大丈夫かぁ?」
「……だいじょうぶ、だよ」
くらくらと、ふらふらと歩き出す。ぐらんぐらんと世界が歪んでいる。痛い。痛い。熟成された想いが鳩尾の辺りをガンガン跳ねまわっている。痛い。
そのまま無言で巨人の横を通り過ぎ、しばらく真っ直ぐ歩く。歩を進めるたびアスファルトにヒールを打ち付けて、灯りも疎らな住宅街に、固い音を響かせた。
ふと背中越しに振り返ると、電灯も無い暗い街角、ひょろりと伸びる街路樹の下、一人の男がだらしなく崩れ落ちている。
今まで巨人だと思っていた人物が、酔っ払った壮年のサラリーマンであることに気付いた。眠たげな表情で見送る彼に、静かに頭を下げて、別れの挨拶に代えた。
――……え、涙雨が何かって?
――えぇと、涙雨っていうのはね……
自信満々に語り終えたアイツの顔を思い出して、口元に嘲りの笑みが浮かぶ。何がめでたし、だ。めでたいのはアイツの頭だ。涙雨なんて、意味不明だ。非科学的だ。あり得ない。本当に馬鹿な男だった。
別れて正解。
「おーい」
夜の帳に包まれた閑静な住宅街。街路樹の細い幹に背中を預けてじっと座り込んでいると、野太い声が鼓膜を揺らした。
呼び掛けられたのだと察するも、動くのが億劫だった。面を上げるどころか、立てた膝の間にずぶずぶと頭を埋める。その状態で大きく息を吸った。生温い空気が身体を満たす。息を吐いた。酒臭い空気が鼻腔をつく。
「あんただよぉ。そこのねーちゃん」
遂に声の主は目の前までやって来た。
渋々といった表情を隠すこともなく、私はぎこちなく顔を上げる。汗で縒(よ)れた長めの前髪が、視界の中心で疎らに揺れた。
巨人がいた。堂々たる体躯(たいく)が視界一杯に広がっている。不敵な面魂(つらだましい)。それでいて赤ら顔。時折しゃくり上げながら、ぐらぐらとその身体を揺らしている。その内ぷつんと糸が切れて、こちらに倒れ込んでくるのではないかと、朦朧としている意識の中でも少々肝が冷えた。
「なんですか」
巨人の不躾な態度に対して極めて淡白に返すと、巨人は少し鼻白んだようだった。また一度しゃくり上げて躊躇うような間を取ったが、やがては節榑立った指の先を私の鼻先についと突き付けてきた。
「その、あんたが、手に持ってる、酒さぁ。よければ一口くれねぇか」
考えること数秒、左手にウイスキーの瓶を握っていることを思い出し、それを目の高さまで掲げて見せる。すると巨人も同じように、手に持っていた酒瓶を掲げて見せた。
量、味、種類。等価かどうかは定かではないが、とにかく私達は瓶を交換した。
一応ラベルの文字に視線を滑らせる。が、酩酊しているこの状態では碌に理解もできない。漢字が書いてあるから日本酒か焼酎だろうと見当をつけ、深緑色のガラス瓶を一気に呷る。
芳甘(ほうかん)を孕んだ独特の苦みが、鼻の奥から脳天まで一気に突き抜けた。喉から胸にかけて、燃え盛るように疼く。口に含んだ全てを飲み下すと、胃に火が灯ったような感じがした。
ふと気づけば、巨人の目線が同じ高さにあった。いつの間にやら彼は地べたに座り込んでいる。着込んでいる背広には皺が寄り、襟元は酷く乱れていた。
みっともない、とぽつり零せば、お互い様だろ、と尤もな意見が間髪入れず返ってきた。反論できない。私は本当にみっともない。
熱い息をじっとりと陰鬱に吐き出して、黒い空を見上げた。
悠然とたなびく薄い雲が、夜空の表面を覆い隠している。
空を掴もうと真っ直ぐ手を伸ばし、虚空を掴んだ。
星明かりが届かない。
「空しいなぁ」
気づけば呟いていた。酔いどれの酒臭い口で紡がれたにしては、やけに明瞭な響き。巨人は耳聡くそれを拾って、定まらない視線で私を貫く。
「なんだぁ? ……あ、みっともないっての、癇に障ったか」
「ちょっとだけ」
「そっかぁ。けど俺ぁ、嘘は言ってねぇぞ」
私は無表情のまま緩慢に頷いて、酒瓶を地面に置いた。空いた両の手でぴったりと顔を覆う。
宵闇が視界から消えて、代わりにもっと黒々とした闇が広がった。
「わたしさぁ」
「んん?」
独り言のつもりだったが、巨人は律儀に応えてくれた。ことのほか、柔らかい声の色。
口が動くままに、淡々と語り続ける。
「振られたんだ」
「彼氏に?」
「十年も付き合ってた彼氏に」
「そいつは悲しいな」
「空しいの」
「どうして?」
「わからない」
「悲しくはないのか」
「悲しくなんかない」
「どうして?」
「愛していなかったから」
「どうして?」
「どうしても」
別れを告げられた時、頭がぼんやりとした。
ただ、悲しくなんかなかった。実際、涙は流れなかった。感情が綺麗さっぱり削げ落ちて、清々しい気分になった。アイツの隣にいる時、私はいつでもドロドロと流動していて、私らしくなかったから。ドロドロするのは、とてつもなく苦しかったから。
ただ、急にカラッポになったから、空しさが生まれた。
それだけだった。
「そうかぁ」
巨人はまた、しゃくり上げた。そして酒瓶を呷る。
私も倣って、再び酒瓶を手に取り、傾けた。ただただ苦い。酒を絶え間なく喉の奥へ流し込んでいると、体の中に一つ濁流が生まれたようで、すごく、気色悪かった。
どうせなら綺麗な川が見たいと思った。
小さな川。大きな川。三途の川。天の川。涙の川。その川縁に座って、澄んだ流れに揺蕩(たゆた)う物の動きを、じっと見つめて過ごしたい。
地面に酒瓶を置いたまま、私は静々と立ち上がった。
巨人は大して驚きもせず、酒瓶を傾けながら私の挙動を見つめていた。
「帰るのかぁ」
「……きれいな川を見に行くの」
「一人で?」
「そう、ひとりで」
「一人で大丈夫かぁ?」
「……だいじょうぶ、だよ」
くらくらと、ふらふらと歩き出す。ぐらんぐらんと世界が歪んでいる。痛い。痛い。熟成された想いが鳩尾の辺りをガンガン跳ねまわっている。痛い。
そのまま無言で巨人の横を通り過ぎ、しばらく真っ直ぐ歩く。歩を進めるたびアスファルトにヒールを打ち付けて、灯りも疎らな住宅街に、固い音を響かせた。
ふと背中越しに振り返ると、電灯も無い暗い街角、ひょろりと伸びる街路樹の下、一人の男がだらしなく崩れ落ちている。
今まで巨人だと思っていた人物が、酔っ払った壮年のサラリーマンであることに気付いた。眠たげな表情で見送る彼に、静かに頭を下げて、別れの挨拶に代えた。
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