46話 「夢現」
喧騒の中を走っていた。
深い、深い森の奥。
わたしは裸足で、泣きそうになるのを必死に堪えて、時折後ろを気にしつつ、前を向いて走り続けていた。
どこへ向かっているのか、どこへ向かうべきなのかもわからない。
ただ、そう、分かっているのは「ここに居ちゃいけない」それだけだった。
息が切れて、足がもつれ、もう走れない、限界だ、と訴えてくる身体が悲鳴を上げる。
私は一体、何から逃げているのだろう。
私は一体、誰なのだろう。
目を覚ますと、額から汗が流れ落ち、隣で同じように休んでいた参ツ葉が寝言を言いながら寝返りを打ったことに、やっと自分が「夢」の中に居たのだと言う事を思い出した。
もう追ってくるものも居ないというのに、心臓がバクバクと鼓動を立てて、まるで今でも「逃げろ」と言うかのように囃し立てる。
あれは本当にただの夢だったのだろうか。確かに、体に走った痛みは本物だったというのに、夜着の間から見える肌にはあの時の傷はない。
窓を覆うカーテンの隙間から入り込んできた光が少しだけ眩しく感じ、暗闇のせいで光に慣れない瞳が白んだ。
「変な夢を見た?」
カーテンレールの上の方をぼんやり見つめながら「夢」のことを考えていると、後ろで何かが落ちる音に現実に引き戻された。いてて、と頭を擦りながら起き上がった参ツ葉さんは、私の視線に気づいて苦笑いを浮かべた。
「あまり良く覚えていないの。けど、ただの「夢」だった気がしなくて」
参ツ葉さんの、寝ぐせのついた髪を整えながら、もしかしたら「記憶を取り戻すきっかけ」になるかもしれない、夢の話をした。参ツ葉さんは少しだけ強張った顔をすると、背を向けて座っていた恰好から、こちらに向き直ると、真剣な顔で私の目を見つめた。
「確かにね。「夢」には色々なものを映し込む力があって、結果はどうあれ、その人自身の生きるヒントをくれる時だってあるけれど。」
参ツ葉さんは、少し困ったように曖昧に笑うと、「大丈夫だから」と呟いた。
「とにかく、いっちーにこの事は伝えておこう。取り越し苦労になったとしても、警戒しておくに越したことはないからね」
「はい。ありがとう、参ツ葉さん」
同じ年くらいの参ツ葉さんはこんなにもしっかりしているというのに。
私はなんて脆弱なのだろうか。
視線を落とした私を気遣うように、手のひらを一度鳴らした参ツ葉さんに促されるように、朝支度を始めた。
きっと、いっちーも気付き始めているのだろう。
自分と、この「記憶なき女の子」との関係性を。
髪を梳かしにいった後ろ姿を見送りながら、枕元にあった通信機を手に取った。
生きた人間の生み出した「スマートフォン」とかいう通信機器は、姿形を変えて「あの世」でも大流行している。大流行、と言っても、「あの世」に留まる人間には期限があって、その多くはここで新たに物を手に入れようなんて思わないのだけれど。スマホの画面を見ると、私たちがちゃんと集合時間に間に合うかの確認と、今日の予定がびっしりと書かれていて、彼らしいと思いつつ今しがた起きたことと、あの子の「悪夢」についてを簡潔に文章にした。
あの子と、いっちーはきっと生前に関わりのあるのだろう。
2人の記憶を直接的に見た訳ではないし、2人の「記憶」は白紙のままであるから、なにひとつ分かってはいないけれど、1つだけ分かっていることは、いっちーもあの子と出会ってから「何かに追われる夢」を見始めたことだった。
それは、もしかしたらただの偶然なのかもしれない。
弐那川さんにこのことを話した時も、少し考えこんだ素振りを見せたけれど、「何とも言えないわね」と言われただけだった。思慮深く生きて来られた人であったら、もしかして何かヒントをそこから得られたのかもしれないけれど、生憎、思い立ったらすぐ行動と「直感」だけを頼りにするような生き方をしてしまった「ツケ」がこんなところで出てきてしまった。
向こうのほうから、ドライヤーの音が聞こえ、私は聞こえぬくらいの小さなため息をこぼした。
「壱橋碧壱」はわたしにとっての「転機」になった人物でもある。
今でも壊れたビデオテープが流される様に、フラッシュバックされるのは、「未練を持ちながら消された者の最後」だった。あれは、出来ればもう二度と見たくない。思い出しただけでも、脳が拒絶を覚え、眩暈がする。
その理由はそう、多少のストレスも掛かっているのだろうけど、大きな要因としては、未練を持ちながら消える人間は、とても綺麗なものとは言えないからだ。
未練が解消しきれずに「輪廻」に戻された者は、渦の中に巻き込まれるように消える。
本人は何が起きているかも分からず、様々な感情を「声」に乗せながら飲みこまれていく。いや、あれは「声」というには荒々しくて、刺々しいもので、思わず耳を塞ぎたくなってしまうものだった。けれど今は、その辺のことは、あまり多くを語るべきではないのだろう、割愛しよう。
私にとって、「壱橋碧壱」は、「転機」だった。
もちろん、あの時の私を支えてくれた弐那川さんの存在も私にとって大きな物ではあったけれど、そう、あの苦しみを知った同士として、壱橋は私にとって別格の存在だった。
そして、「記憶なき少女」も同様、付き合った期間は違えど、私にとっての「転機」となった。だからだろうか、2人が苦しむことは、決して望ましいことではない。
膝を抱えてぼんやりとどこか遠くを見つめた私に、視界の端でスマートフォンに光が差した。
「願わくば、彼らの平穏が崩れないことを」、私は祈るしかできなかった。
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