第19話
カヤには風の声――風の音が聞こえた。けど、……アンネローゼは首を横に振った。
「聞こえないわ、カヤ」
「でしたら、きっといまのお姉様は、ご自分の本当の気持ちさえも分からなくなっているのでしょう。自分の声が自分にさえも届かなくなっているのだと思います。復讐――――私は認めたくはありませんが、冷静になったお姉様がどうしてもというのなら、力を貸そうと思います。けど、いまは……風の音が聞こえるようになるまでは待って下さい。その間に、しなくてはならないことがいくつかあります」
カヤは一度、口を閉じた。
「まず王都を離れます。できる限りです。危険だからです」
カヤはじっとアンネローゼを見つめ、しばらくしてアンネローゼがゆっくりと頷くのを見て、先を続けた。
「私やお姉様方ならなんとか別行動も可能だと思いますが、シャルロットのこともありますし、女四人で目立つでしょうが、ともに行動しようと思います」
アンネローゼがうなずき、ヒルデも少し離れた場所でうなずいた。
「そして今よりも自分の身を守れるようにならなくてはなりません。きっとヴァールたちはもう一度私たちの前に現れます」
そして、その時は、ためらいもなく、同じ流浪の民である私も殺すでしょう、とカヤは思ったが、口には出さなかった。
「そのときに身を守るためにも、私が稽古をつけます」
アンネローゼとヒルデが頷いた。明確な目標ができたので、二人ともじょじょに力を取り戻しているようだ。
「しかし、その前に、王妃がどうなったのかも早急に探る必要があります。必要ならすぐに動かないと……」
手遅れになるかもしれない、とカヤは思ったが、考えて表現を変えた。
「敵の手の内にいると、いろいろとご不自由もあるでしょうし」
「ええ」とアンネローゼが大きくうなずいた。ヒルデもうなずく。シャルロットも大賛成だろう。
当面の目標は、エディタ王妃――アンネローゼたち三人の母親の救出となった。
「何、これ……」
秘密の地下通路を使ってミラル川を越えた四人は、カヤの勧めで小高い丘の上にのぼっていた。
そこからの眺めは、カヤ以外の三人にとって想像を絶するものだった。
ここから見えるのは、ミラル側沿いの道くらいだったが、それでも物凄い数の人間が見えた。よく見ればボロをまとった人間が多いのに気づく。流浪の民だ。
さきほどつぶやいたアンネローゼはまだ口を開けたままだ。いつも淑女然としている彼女がぽかんとしている。ヒルデもシャルロットもだ。
「どこに、これほどの人間が――」
ヒルデは絶句した。アンネローゼがカヤに聞いた。
「……いったいどれだけの数がいるの? 彼ら、流浪の民よね?」
「流浪の民」という言葉に侮蔑の響きがあった。
「流浪の民の人口をご存じですか?」
カヤは逆に聞き返した。わざわざ小高い丘にのぼったのは、講釈を垂れるためではない。自分たちの着ている服は、スーラという部族のものだ――フードを被った民族衣装が好都合だったのだ。王都にいる者たちなら気づかないようなことも、流浪の民たちは気づく可能性がある。下手な部族に混じるわけにはいかない。スーラと仲の良い部族もいれば悪い部族もいる。カヤは、スーラ族かもしくはスーラと仲の良い部族がいないかどうか探しているのだ。
「…………たぶん数千人はいるわ」
アンネローゼが茫然とつぶやいた。
カヤは我知らず鼻で笑ってしまった。小さな笑いだったので、アンネローゼは気づかなかった。
カヤは遠くにスーラ族を見つけた。十数人ほどの小集団だ。ミラル川沿いの道をこっちに向かって歩き、やがて王都に向かうのだろう。
スーラ族は、頭までフードをすっぽりとかぶる筒袖の服を着ているし、寡黙だ。だからカヤはこの部族を選んだ。
「流浪の民の数は、およそ数千万人です」
とカヤ。
「え? 数万人?」
アンネローゼは聞き返した。
カヤは首を振った。そして静かな声でもう一度繰り返した。
「数千万人です」
「嘘……」
アンネローゼは絶句した。彼女のつぶやきは、丘を吹き抜ける風に消されそうだった。
他の二人の姉妹もあまりの数に驚いていた。
「……数千万人……嘘でしょ?」
アンネローゼが言う。
「本当です。昨日の今日。こんな朝早くから、もうこんなに人が溢れている。彼らがどこに向かっているか、わかりますか?」
「王都」
アンネローゼの声に怒気が混じった。
カヤは、彼らの行動も仕方がないのだ、と言おうかと思ったが、黙って首を振っただけだ。いくら言葉を費やしても理解できない者には理解できない。王国の法を作り、王国の法で生涯守られ、王国の法によっぽど背かない限りは、安定が約束されている人間と、王国の中にいながら王国の法に存在さえ無視されている存在。これほど立場が違うと、何万という言葉を使って説明しても無意味だ。
「それに流浪の民の数が数千万というのは、このエーヴィヒ王国に限った話です。近隣にも、数万、数十万という人口がいます」
「聞こえないわ、カヤ」
「でしたら、きっといまのお姉様は、ご自分の本当の気持ちさえも分からなくなっているのでしょう。自分の声が自分にさえも届かなくなっているのだと思います。復讐――――私は認めたくはありませんが、冷静になったお姉様がどうしてもというのなら、力を貸そうと思います。けど、いまは……風の音が聞こえるようになるまでは待って下さい。その間に、しなくてはならないことがいくつかあります」
カヤは一度、口を閉じた。
「まず王都を離れます。できる限りです。危険だからです」
カヤはじっとアンネローゼを見つめ、しばらくしてアンネローゼがゆっくりと頷くのを見て、先を続けた。
「私やお姉様方ならなんとか別行動も可能だと思いますが、シャルロットのこともありますし、女四人で目立つでしょうが、ともに行動しようと思います」
アンネローゼがうなずき、ヒルデも少し離れた場所でうなずいた。
「そして今よりも自分の身を守れるようにならなくてはなりません。きっとヴァールたちはもう一度私たちの前に現れます」
そして、その時は、ためらいもなく、同じ流浪の民である私も殺すでしょう、とカヤは思ったが、口には出さなかった。
「そのときに身を守るためにも、私が稽古をつけます」
アンネローゼとヒルデが頷いた。明確な目標ができたので、二人ともじょじょに力を取り戻しているようだ。
「しかし、その前に、王妃がどうなったのかも早急に探る必要があります。必要ならすぐに動かないと……」
手遅れになるかもしれない、とカヤは思ったが、考えて表現を変えた。
「敵の手の内にいると、いろいろとご不自由もあるでしょうし」
「ええ」とアンネローゼが大きくうなずいた。ヒルデもうなずく。シャルロットも大賛成だろう。
当面の目標は、エディタ王妃――アンネローゼたち三人の母親の救出となった。
「何、これ……」
秘密の地下通路を使ってミラル川を越えた四人は、カヤの勧めで小高い丘の上にのぼっていた。
そこからの眺めは、カヤ以外の三人にとって想像を絶するものだった。
ここから見えるのは、ミラル側沿いの道くらいだったが、それでも物凄い数の人間が見えた。よく見ればボロをまとった人間が多いのに気づく。流浪の民だ。
さきほどつぶやいたアンネローゼはまだ口を開けたままだ。いつも淑女然としている彼女がぽかんとしている。ヒルデもシャルロットもだ。
「どこに、これほどの人間が――」
ヒルデは絶句した。アンネローゼがカヤに聞いた。
「……いったいどれだけの数がいるの? 彼ら、流浪の民よね?」
「流浪の民」という言葉に侮蔑の響きがあった。
「流浪の民の人口をご存じですか?」
カヤは逆に聞き返した。わざわざ小高い丘にのぼったのは、講釈を垂れるためではない。自分たちの着ている服は、スーラという部族のものだ――フードを被った民族衣装が好都合だったのだ。王都にいる者たちなら気づかないようなことも、流浪の民たちは気づく可能性がある。下手な部族に混じるわけにはいかない。スーラと仲の良い部族もいれば悪い部族もいる。カヤは、スーラ族かもしくはスーラと仲の良い部族がいないかどうか探しているのだ。
「…………たぶん数千人はいるわ」
アンネローゼが茫然とつぶやいた。
カヤは我知らず鼻で笑ってしまった。小さな笑いだったので、アンネローゼは気づかなかった。
カヤは遠くにスーラ族を見つけた。十数人ほどの小集団だ。ミラル川沿いの道をこっちに向かって歩き、やがて王都に向かうのだろう。
スーラ族は、頭までフードをすっぽりとかぶる筒袖の服を着ているし、寡黙だ。だからカヤはこの部族を選んだ。
「流浪の民の数は、およそ数千万人です」
とカヤ。
「え? 数万人?」
アンネローゼは聞き返した。
カヤは首を振った。そして静かな声でもう一度繰り返した。
「数千万人です」
「嘘……」
アンネローゼは絶句した。彼女のつぶやきは、丘を吹き抜ける風に消されそうだった。
他の二人の姉妹もあまりの数に驚いていた。
「……数千万人……嘘でしょ?」
アンネローゼが言う。
「本当です。昨日の今日。こんな朝早くから、もうこんなに人が溢れている。彼らがどこに向かっているか、わかりますか?」
「王都」
アンネローゼの声に怒気が混じった。
カヤは、彼らの行動も仕方がないのだ、と言おうかと思ったが、黙って首を振っただけだ。いくら言葉を費やしても理解できない者には理解できない。王国の法を作り、王国の法で生涯守られ、王国の法によっぽど背かない限りは、安定が約束されている人間と、王国の中にいながら王国の法に存在さえ無視されている存在。これほど立場が違うと、何万という言葉を使って説明しても無意味だ。
「それに流浪の民の数が数千万というのは、このエーヴィヒ王国に限った話です。近隣にも、数万、数十万という人口がいます」
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