鴨が葱をしょって来る
初夏とはいえまだ、夜は冷える。真冬の身を切るような寒さとは違うが、鼻の頭がつーんとするくらいには寒い。季節的にはもう、コートを着れないのが切ない気がする。気のおけない後輩と飲みにでかけるだけなのに、肌寒いのを伝えるのが、やけに恥ずかしい。なぜだかプライドが許さない……。自分の好みで自由な身なりにすることもない、サラリーマンの宿命なのだろうか。不安をかき消すようにばか騒ぎしてやろうかと思っていたのに、肌寒いせいで出鼻をくじかれた。素直に喜べない自分の心に言い訳しているのかもしれないが。チラリと佐藤に目をやると真剣な顔して、なにやらブツブツ言っている。
「寒の戻りや、花冷えとも違うし」
「お前、いっちょまえに、まぁ言うなら梅雨寒ってやつな」
「つゆさむ……」
そんなことも分からないのかと、からかってやろうと口を開いた瞬間くしゃみが出てしまう。
「あはは。緒方さん寒いんですか?店すぐそこなんで。大丈夫です?」
はなたれ小僧みたいになっているのかと一瞬、不安を覚えたものの出たようではない。つい、カッコ悪いばつの悪さで子どもっぽくそっぽを向いてしまう。
「ほら。すねないでくださいよ」
励ましているのか、どうなのか頬を両手で包んできた。ふわぁっと、いつもは気にしない佐藤の香りが鼻をくすぐる。
「ほら」
ここですよと、言い終わる前に店の前までたどり着く。どうせ立ち飲みか、雑多な居酒屋を想像していたからか、目の前に現れたイタリアンレストランに目が点になる。
「安酒ゴチになるつもりが、お前大丈夫なの?あ。あぁ、さては俺の財布をねらってんな」
さすがに後輩にたかれる場所じゃないと、軽口言いながら割り勘にもっていく。佐藤はテーブルについて、そうそうに運ばれたメニューに目をとおしながら、おかしそうに軽口を叩いてきた。
「あ、いや緒方さん。僕でも払える安酒しか提供させませんから。てかね、普通にたかるつもりだったんですね。先輩って相変わらず」
ぶつぶつ言いながらも勝手に注文を決めていく。
「どれもおすすめなんで拒否権ありませんからね」
なにも知らない生娘ならコロッといってしまいそうな、高見えレストラン。それに、ムードある雰囲気と個室。さりげない気配りが、気持ち良く自分を特別扱いしてくれていると錯覚させてくれる。
「佐藤くん、あたしよっちゃた」
語尾にハートをバリバリちらつかせて、しなを作って見せる。精一杯、悪ふざけをしていい雰囲気を作らない努力をした。
「大丈夫ですよ。僕は合法しかしない主義なんで」
必死にその場をごまかそうとしているのがバレたのか、おかしそうにクスクス笑う。口元に添えた指先がやけにセクシーに思えるのはたぶん、だいぶ酔いが回ってきている証拠だ。
「あ、これ食べてみてください」
差し出されたものを無心で口に運んでいくせいか、味が全くわからない。なぜだか、佐藤の口元ばかり眺めてしまう。人が食事をしている姿がたまらなく感じる感覚は久しぶりだ。美味しいかどうかもわからないまま、よこしまな自分の欲望を押さえ込もうと、ひたすら無心にむさぼった。
「今日はやけに静かですねぇ。さっきまでの勢いはどうしたんです?あ、それとも」
そっと、唇が耳のそばまで近づいてくると、さっきほほを包まれた感覚がブワッと沸き出てきて落ち着かない。佐藤の香りを感じた気がした瞬間、目の前がグラリと揺れたような気がして頭を振る。
「まさか、眠たくなったとかじゃないですよね?まだまだこれからなのに」
佐藤の声が遠くの方で、大丈夫ですかと話しかけている。俺がなんて返答したかも定かではない。驚くほど、うまく呂律が回らず舌打ちをした。
(くそ、何がどうなってこんなに眠いんだ)
そのうち、なにも聞こえなくなったような重く鉛がぶら下がったような感覚に襲われた。
「はっ」
あたりを見回しても何一つ覚えていない。身体中がひどく重くて、マラソン大会の次の日のようにだるい。まぁ、マラソン大会なんてもう、何十年も参加してないけど。
「夢でも見てたかな」
不気味なほど、清潔な内装に、ベッド。どうやらビジネスホテルに泊まったらしい。昨日の記憶をたどろうとすると断片的に見覚えのない、映像が流れるばかりだ。おぼろげな記憶はやけに色っぽい、後輩君の残像が断片的にちらついた。若いプルプルの唇と、思いの外白いはだ。はだけたワイシャツに、アノときの声。
「あ、起きました?昨日はご馳走さまでした」
今まで見たことがないくらい清々しい笑顔に、一瞬目を奪われる。
「えっ」
「はい。ですから先輩を食べました。あ、言っときますけど、合法ですよ?薬盛ってないし、合意の上」
青ざめてまま、ばたきすらしない顔にそっと近づいて、ゆっくりもう一度ハッキリ聞こえるように言った。
「聞こえていますか?緒方さん。おはようございます。僕たちのはじめての朝ですよ」
凶悪的に可愛らしく微笑まれても、嬉しくもなんともない。混乱した頭でなんとか言葉を紡ぎ出す。
「お、お前。な」
言葉にならない感情がぐるぐる頭のなかを駆け巡る。
「寒の戻りや、花冷えとも違うし」
「お前、いっちょまえに、まぁ言うなら梅雨寒ってやつな」
「つゆさむ……」
そんなことも分からないのかと、からかってやろうと口を開いた瞬間くしゃみが出てしまう。
「あはは。緒方さん寒いんですか?店すぐそこなんで。大丈夫です?」
はなたれ小僧みたいになっているのかと一瞬、不安を覚えたものの出たようではない。つい、カッコ悪いばつの悪さで子どもっぽくそっぽを向いてしまう。
「ほら。すねないでくださいよ」
励ましているのか、どうなのか頬を両手で包んできた。ふわぁっと、いつもは気にしない佐藤の香りが鼻をくすぐる。
「ほら」
ここですよと、言い終わる前に店の前までたどり着く。どうせ立ち飲みか、雑多な居酒屋を想像していたからか、目の前に現れたイタリアンレストランに目が点になる。
「安酒ゴチになるつもりが、お前大丈夫なの?あ。あぁ、さては俺の財布をねらってんな」
さすがに後輩にたかれる場所じゃないと、軽口言いながら割り勘にもっていく。佐藤はテーブルについて、そうそうに運ばれたメニューに目をとおしながら、おかしそうに軽口を叩いてきた。
「あ、いや緒方さん。僕でも払える安酒しか提供させませんから。てかね、普通にたかるつもりだったんですね。先輩って相変わらず」
ぶつぶつ言いながらも勝手に注文を決めていく。
「どれもおすすめなんで拒否権ありませんからね」
なにも知らない生娘ならコロッといってしまいそうな、高見えレストラン。それに、ムードある雰囲気と個室。さりげない気配りが、気持ち良く自分を特別扱いしてくれていると錯覚させてくれる。
「佐藤くん、あたしよっちゃた」
語尾にハートをバリバリちらつかせて、しなを作って見せる。精一杯、悪ふざけをしていい雰囲気を作らない努力をした。
「大丈夫ですよ。僕は合法しかしない主義なんで」
必死にその場をごまかそうとしているのがバレたのか、おかしそうにクスクス笑う。口元に添えた指先がやけにセクシーに思えるのはたぶん、だいぶ酔いが回ってきている証拠だ。
「あ、これ食べてみてください」
差し出されたものを無心で口に運んでいくせいか、味が全くわからない。なぜだか、佐藤の口元ばかり眺めてしまう。人が食事をしている姿がたまらなく感じる感覚は久しぶりだ。美味しいかどうかもわからないまま、よこしまな自分の欲望を押さえ込もうと、ひたすら無心にむさぼった。
「今日はやけに静かですねぇ。さっきまでの勢いはどうしたんです?あ、それとも」
そっと、唇が耳のそばまで近づいてくると、さっきほほを包まれた感覚がブワッと沸き出てきて落ち着かない。佐藤の香りを感じた気がした瞬間、目の前がグラリと揺れたような気がして頭を振る。
「まさか、眠たくなったとかじゃないですよね?まだまだこれからなのに」
佐藤の声が遠くの方で、大丈夫ですかと話しかけている。俺がなんて返答したかも定かではない。驚くほど、うまく呂律が回らず舌打ちをした。
(くそ、何がどうなってこんなに眠いんだ)
そのうち、なにも聞こえなくなったような重く鉛がぶら下がったような感覚に襲われた。
「はっ」
あたりを見回しても何一つ覚えていない。身体中がひどく重くて、マラソン大会の次の日のようにだるい。まぁ、マラソン大会なんてもう、何十年も参加してないけど。
「夢でも見てたかな」
不気味なほど、清潔な内装に、ベッド。どうやらビジネスホテルに泊まったらしい。昨日の記憶をたどろうとすると断片的に見覚えのない、映像が流れるばかりだ。おぼろげな記憶はやけに色っぽい、後輩君の残像が断片的にちらついた。若いプルプルの唇と、思いの外白いはだ。はだけたワイシャツに、アノときの声。
「あ、起きました?昨日はご馳走さまでした」
今まで見たことがないくらい清々しい笑顔に、一瞬目を奪われる。
「えっ」
「はい。ですから先輩を食べました。あ、言っときますけど、合法ですよ?薬盛ってないし、合意の上」
青ざめてまま、ばたきすらしない顔にそっと近づいて、ゆっくりもう一度ハッキリ聞こえるように言った。
「聞こえていますか?緒方さん。おはようございます。僕たちのはじめての朝ですよ」
凶悪的に可愛らしく微笑まれても、嬉しくもなんともない。混乱した頭でなんとか言葉を紡ぎ出す。
「お、お前。な」
言葉にならない感情がぐるぐる頭のなかを駆け巡る。
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