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ロベリアの種――悪を育てるものとは――

ジャンル: ハイ・ファンタジー 作者: 津島結武
目次

13話 ロベリアの解離

 数時間に渡って僕を幽閉している、しんと静まりかえった狭い空間。
 体を少しでも動かすと、ベッドや床がキシキシと音を発し、僕をイラ立たせる。
 平日の昼間はこれほどにまで静かだっただろうか。

 机上の湿ったベッドサイドテーブルを見やる。
 割れた花瓶と萎れたホタルブクロはすでに片付けた。
 
 そのまま視線を落とし、一番下の引き出しを見つめる。
 ここに入っている穢らわしい紅の印画も片付けたいものだが――。

 そこで不意に奇妙な疑問が生じた。

 あの写真は果たして現在の記憶通りのものなのか?

 僕は自身の認知能力に懐疑の念を示した。

 昨日の僕の記銘に誤りがあったのではないか。
 それとも貯蔵された記憶が改変されたのではないか。

 静寂による冷静さが逆に僕を混乱させる。
 拡散しようとする怒りと不安のエネルギーが抑圧されたせいだ。

 僕は静止画をもう一度見ようと、最下層の引き出しに手を伸ばす。

 けれども、あと人差し指一本分のところで体中が毒に侵されたような感覚に陥った。
 めまい、吐き気、痺れが一斉に僕を襲ってくる。

 僕は呼吸を強い、体が悲鳴をあげないよう、ゆっくりと洗面所に流れ込んだ。

ピシャリと水を顔に叩きつける。
 その冷たさに毛穴が収縮する。
 少しずつ体の緊張が解けてきた。
 気づけば、痺れや吐き気はすっと消えていた。

 しかし、めまいはかすかに残っていた。
 まるで物理の実験に用いる重りを脳内に入れられたかのようだ。
 
 まぶたも誰かに押さえられているみたいにだるい。

 重力に引っ張られる頭をかろうじて持ち上げ、水垢にまみれた鏡と向かい合う。

 僕の顔はとてもひどかった。
 髪はやつれ、目には黒いクマができている。
 頬もこけているように見えた。

 しかし、どういうわけか知らないが、僕にはこの顔が非常に魅力的に思えた。
 僕にダウナー系の嗜好はない。
 この顔が最も自分らしいと感じたのだ。

 部屋に戻り、コップ一杯分の水を喉に流す。
 神経に電気が流れ、脳に信号が送られるのを知覚する。
 このとき、今日初めて口に物を入れたことに気づいた。

 ベッドに顔を向け、再び腰を下ろそうと歩を進める。
 ところが、すぐに反転した。

 つい先ほどの記憶が想起され、軽い偏頭痛に襲われたのだ。
 少しだけでもいいからここから離れたい。

 僕はろくに身支度もしないまま玄関の扉を開けた。

 外は自室以上に僕を鬱屈とさせた。
 鼻に生暖かい霧が入ってくる。
 出てからまだ一分も経っていないのに、すでに肌がべたついていた。

 僕は半ば茫然自失となりながら歩いた。
 ゴォーともボォーとも言い表せない風の音に思考が奪われる。

 少しすると、左手のレンガの壁に小さなシミができている区画まで来ていた。
 それが見えた瞬間、僕は足を止めた。

 そのシミはダビルの血が残したものだった。

 〈犯人は現場に戻る〉
 この言葉が実際に正しいと自ら証明することになるとは――。

 僕はしばらく淡い赤色を見つめていた。
 閉ざされていた当時の記憶がよみがえってくる。

 薄暗い霧の路地。
 にやつきながら待ち受けていたケリー・ダビル。
 受け入れがたい事実。
 叫ぶ僕。

 ――そうだ、僕はダビルを殴り、彼の頭を壁に強打させたのだった。

 心臓が激しく脈打っている。
 信じたくない事実があまりにも多すぎる。

 しかし、不思議なことに、僕のなかには肯定的な感情がうごめいていた。
 喜び、嬉しさ、高揚感。
 殺人を犯したというのに、なぜか僕は晴ればれとしていた。

 邪魔者であるダビルがこの世から消えたことに対する歓喜?
 ほとんどの人がなしえないことを実行してみせた優越感?

 何を起源にこの情動が湧き起こっているのか見当もつかない。
 まるで自分のなかに新たな人格が生まれたかのようだ。

 奇妙な感覚に動揺していると、少し遠くから何者かの声が聞こえてきた。

「かわいそうにな。まだ若いというのに」

 声のほうを向くと、シミの対角線上に座り込んでいる人影が見えた。
 ゆっくりと歩み寄ると、それは申し訳程度の花屋を営む貧相な中年男性だった。

「けれど彼は不良でした」

 僕は花屋に向けて言う。

 この男とは何度も話したことがあった。
 
 男はシャムロ区の学生に花を売るため、毎度通学時間ここに商品を並べているのだ。
 そして、学生に向かって親しげに挨拶を送っているが、彼はまったく相手にされていなかった。
 しかし、僕だけは挨拶を返していた。
 そのおかげか、僕は彼に気に入られ、よく話しかけられるようになったのだ。

 ティノからもらったホタルブクロもここで買ってもらったものである。

「命の価値に大小などない。そうだろう?」

 花屋が僕のほうを向いて言う。
 彼のまなざしはマグナムのように力強く、僕は言葉に詰まってしまった。

「ずいぶんと疲れた顔をしているな。学校を休んだのか」

「ええ、体調が優れず」

 僕は軽く頭を押さえる。

「じゃあどうして出歩いているんだ? こんな気候じゃ気分も優れないだろう」

 中年にしてはしわがれた声で花屋が尋ねる。

「そんなあなたこそ、どうして学生がいなくなった今でも店を開き続けているんですか」

「さあ、なんでだかな」

 痩せた男は立ち上がり、商売道具を荷台に片付け始めた。

「きっと、彼を弔わずにはいられなかったのだろう。君もそうだろう?」
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