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ジャンル: その他 作者: 吾妻千聖
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「電気、点けたままでするん?」
「いやですか?」
「自信、ないから。」
「きれいですよ。」
使い古されたパターンに、安い言葉の応酬。
女の首筋を、触れるか触れないかの舌でゆっくりなぞる。女は大げさに体を反り返らせ、嬌声を漏らす。聞いているこっちが恥ずかしくなるくらいの猫撫で声。
「可愛いですね。」
本音とセリフの距離に、反吐が出そうになる。
「もっと」
「え?」
「もっと、言って、可愛いって、言って。」
女の手が頬に触れる。派手な付け爪がいちいち肌にあたってかゆい。邪魔だと言って手を退けるわけにいかないので、付け爪の綺麗なのに感心するように女の手をとって見つめる。
「この爪。俺に会うために、綺麗にしてきてくれてたんですか?」
「そうや。細かいところに気づいてくれるんやね。」
「嬉しい。ああ、可愛いひと。」
名前も知らぬ女に愛を囁く夜がまた過ぎる。

情事のあとの霞むような朝は、なぜだかいつも涼しい。
女との別れ際、清算ボタンを押し、支払いを済ませ、部屋のカードを差し込んだままホテルを出るこの「作業」の連続によって、相手との距離を確認する。
お互いが見知らぬ者同士に戻るための一連の通過儀礼。
早朝、手を振って女の後姿を見送り、ほんとうの他人に戻るまでのこの儀式こそが、ひややかで健康的な愛の営みのようにすら思える。

 友人と待ち合わせしているカフェに向かうため、始発に乗ってなんば駅で降りてからアーケード街を歩く。
早朝ということで普段より閑散としているが、まばらに人が歩いている。
犬の散歩をしている者、これから会社に向かうであろう者、開店の準備を始める商店街の老夫婦。
新しい一日が呼吸を始める場面に、自分はぎこちなく不釣り合いだと思った。肌寒さを感じて身震いをした。
 
 カフェに着くと友人の拓海はもう席について待っていた。
「よお、健斗。さっき来たばっかやけど、先コーヒー頼んでもうたわ。」
ニカッと歯を見せて笑う拓海の顔は爽やかだが、襟元に口紅の汚れのようなものが付着している。こいつも朝に似つかわしくないなと思った。
「ああ、ええよ。マスター、僕もコーヒーで。」
「僕ぅ?」
「あっ。」
女の希望で「僕」にしていた一人称を引きずってしまった。
「へぇ~。従順系年下男子っていうやつ?随分可愛がられてたみたいで?僕ちゃんは。」
「うるさいな。」
寝不足の目で出せる最大限の気迫を作ろうと、目を細めて睨む。
「おお、怖。」

 世間では「パパ活」という言葉で女子大生の援助交際が取り沙汰されることがあるが、女子版があれば男子版もある。お金を持っている女性とデートやそれ以上の行為をし、男がお金を貰うのだ。そういう小遣い稼ぎがあるのだと、拓海に吹き込まれて俺もはじめてからもう二ケ月ほどになる。
「ちゅうか、健人がこんなに続くとは思ってへんかったわ。別に、金に困ってるわけでもないやろ。彼女に高い貢ぎ物でもする気か?」
「いや彼女おらんから。」
「じゃあお前も俺と一緒か。金好き、女好き、セックス好き。」
「あほ、やめろ朝から。聞こえるから。」
コーヒーを持ってきてくれたアルバイトらしき若い女が、訝るような眼で拓海をちらっと見た。
「おほほ、僕ちゃんはお上品ですこと。」
「それもやめろ。ええ加減しつこいから。」
「はいはい。」
コーヒーカップを手に取ろうと俯いた拓海の伏し目がちな目を盗み見る。
睫毛が凛として、コーヒーの熱のせいか視界が穏やかにゆらぐ。
拓海のコーヒーはもう冷めているのか、カップを無遠慮に片手で広く掴んで飲んでいる。無骨な手のわりに小さ目な爪が、綺麗に切りそろえられていた。体で稼ぐ男が、爪を短く切る理由なんて一つしかない。それでも、これは優しさの形だと思う。
「拓海、お前、こういうこともうやめへんか?」
「は?」
「いや、えっと、彼女がさ、可哀想ちゃう?」
「俺彼女おらんやん。」
「じゃなくて、将来の嫁さんとかさ。」
自分でも何を言ってるのだと突っ込みたかった。拓海はよくわからないという顔でこちらを見ている。
「ごめん、なんもないわ。」
ふいに、拓海の手が動いた。
「健人、動かんとって。」
冷たい。拓海の、思っていたよりもひんやりとした手が頬に触れる。何が起こっているのかわからず、顔の温度が上がるのがわかる。
「ほっぺたに睫毛つけたまま歩くなや、かっこ悪いなあ。」
拓海の指の感触がまだ肌に残っている。切りそろえられた爪が滑るように触れた感覚が心地よくて、コーヒーに反射して映りこむカップの中の自分の、頬のあたりをジッと見ていた。
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